名称(よみ) | 郡山城(こおりやまじょう) |
通称・別名 | 郡山砦 |
所在地 | 大阪府茨木市郡山1-9-1 |
天気情報 |
04/07(月) 降水確率:10% |
地図 | マップ/周辺の城/NaviCon |
分類・構造 | 平山城 |
築城主 | 郡正信 |
築城年 | 不明 |
主な改修者 | 不明 |
主な城主 | 郡正信 |
遺構 | 石垣 |
再建建造物 | 石碑、説明板 |
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郡山城(こおりやまじょう)は、大阪府茨木市にあった日本の城。
概要
郡山城主の郡正信は高槻城城主和田惟政の家臣で、郡村、中河原村、宿河原村、上野村、下井村、五ヶ市村、七ヶ村を領地にしていたようである。郡山城の沿革についてはほとんどが不明で、いつ築城され、いつ廃城になったのか解っていない。白井河原の戦いで和田惟政、池田勝正の連合軍と荒木村重、中川清秀連合軍が戦ったが、その時荒木・中川連合軍が郡山の馬塚という地域に陣取したが、それは郡山城の事を指しているのではなく、ここから北へ約200m先の「本頂寺」周辺との指摘もある。
また「信長公あま(尼崎)より郡山へ御参陣なり」(『信長記巻十一』)と記載があり、この城との関連性が言われている。また「郡山砦の構築は秀吉が担当」とされており、有岡城の戦いで攻城軍として豊臣秀吉がこの城の修築したとしている[1]。また吹田城の13支城のひとつとして記載されている(『摂津志』)。
城郭についても不明な点が多いが、明治時代初期に作成されたと思われる『東摂城址図誌』に郡山城の絵図がある。これによると城跡とされる部分は南北六十間(約110m)、東西六十七間(約120m)あり、現在の浪速少年院の大半が郡山城跡と推定されている。またこの『東摂城址図誌』には約三分の一が「山地」、約三分の一が「畠地」、約三分の一が「田地」とあり、この時にはすでに城跡としても消失し、一部が田畑化していたと思われている。浪速少年院は小高い丘の上にあり、このような場所が城郭として選地された。
また、茨木市教育委員会が建てた案内看板の下に、郡山城で使用されていたと思われる石垣の石が置いてある。これは大正11年(1922年)に浪速少年院の工事中に大量の石垣が発見され、その中に郡家の家紋と推定されている、三ツ鱗や三ツ星の刻印された石も出土した。またこの周辺には「城の内」、「門口」など城跡を思わせる地名が残っている。
城跡へのアクセス
- 電車でのアクセス
- JR茨木駅(JR京都線)から阪急バス郡山団地下車、徒歩約10分
- 車でのアクセス
- 名神高速道路茨木IC出口周辺
- 周辺に駐車場無し
参考文献
- 『わがまち茨木』城郭編、茨木市教育委員会、1987年3月、42 - 43頁。
- 『日本城郭大系』第12巻、大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月、227頁。
- 中村博司『よみがえる茨木城』清文堂出版、2007年1月、225頁。
2022/06/18 12:06 うらのま大宰少弐
郡山城:浪速少年院の入口近くに城跡石碑がありました
2022/06/04 23:55 尼崎城山城守一口城主
郡山城:5月29日、茨木城下城後に登城🚲道中、丸またというレンガ🧱造りの史跡がありました。グーグルマップを見ながら進軍していくと浪速少年院の門の前に辿り着きました。門前に郡山城の石碑と説明板がありました。下城後、安威城を目指しました。
来月度の城主争い戦況
1位 モリ太政大臣ちゃん57さん 54回
2位 ふっきぃ摂津守さん 31回
3位 三都物語中務大輔さん 23回
攻略数:城 家臣団:人 |
異名:個 官位:個 |
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