余部城(あまるべじょう)

 
余部城 投稿者:ぽこりまる^_^権六さん
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00時間

15

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城郭基本情報

名称(よみ) 余部城(あまるべじょう)
通称・別名 過部城、余部丸岡城、丸岡城、円岡城、岡山城
所在地 京都府亀岡市余部町古城、榿又、下条
天気情報

12/17(水) 降水確率:50%
13℃[+1]0℃[+1] 詳細

地図 マップ周辺の城NaviConYahoo!カーナビ
問い合わせ 亀岡市役所商工観光課[電話
分類・構造 丘城
築城主 不明
築城年 不明
主な城主 野田泰忠、長尾大和守、中沢氏、福井氏、明智氏、能勢氏
遺構 消滅
再建建造物 石碑(丸岡城跡)、説明板
余部城は余部集落のある段丘上にある平城である。丸岡城ともいう。

西岸寺周辺が城跡と伝えられ、小字「古城」「古城浦」「政所」などの地名が残る。また、城の西側には「下条」「中条」「上条」の地名も見える。

清和源氏の流れを汲む福井氏の城と伝えられ、江戸時代には福井氏の子孫能勢氏が「古城」という場所に住んでいたという(『丹波志桑田記』)。

余部城が登場するのは、15世紀の応仁・文明の乱のときである。西軍の反撃を受けた東軍方の野田泰忠は、応仁3年(1469)4月、丹波穴太に逃れた。6月には東軍の安富又五郎のもとに加わり「余部城」に入っている。

また、文明元年(1469)10月にも再び入城している(文明6年3月付「野田泰忠軍忠状」『尊経閣文庫所蔵文書』815)。

以上の記述から東軍の軍事的拠点として機能していたようである。戦国期も城が使われたらしく、天文末年~永禄年間頃、多紀郡の波多野元秀は長尾大和守に対して「余部」に「入城」した功績を賞している。

ただし、元秀は余部城を「無要害」と表現している(5月4日付「波多野元秀書状」『雨森善四郎氏所蔵文書』1438)。

また、天正3年(1575)8月、越前在陣中の明智光秀は船井郡の小畠左馬進宛の書状にて「馬路・余部在城之衆」に指示した様子を報じている(8月21日付「明智光秀書状」『大阪青山短期大学所蔵文書』)。また、天正3~5年頃の10月には光秀が小畠左馬進を「余部近辺」に呼び寄せている(12月12日付「明智光秀書状」『大東急記念文庫所蔵文書』)。

このように余部城は単なる在地領主の城ではなく、戦国期の地域権力の拠点的な城として使用されていたことがわかる。

情報提供:亀岡市教育委員会



城郭口コミ


2025/11/25 17:33やまてつ伊予守
余部城:西岸寺となっています。御城印をいただこうとしましたが、残念ながらお寺が留守のようで、諦めました。

2025/09/22 23:30丹波守炒飯高菜大盛
余部城:西岸寺というお寺となっております。亀岡市役所から向かい、リア攻め後は亀岡駅へ、どちらも徒歩で移動しました。距離的には大差ないです。若干亀岡市役所からのほうが近いかな?というくらいです

城郭攻略情報


2024/07/31 15:07
Spatura
道の駅ガレリア亀岡でゲット
2023/06/04 19:08
あざらし肥前守
公共交通:一例山陰本線亀岡。(❜21・9攻略)
2017/04/28 13:00
忍者修行中の征夷大将軍クララ姫
京都縦貫自動車道大井ICにて安定攻略。
2016/05/19 22:54
兵庫頭
千代川駅やや北側の国道9号にて攻略
2015/12/07 13:05
かわきち太政大臣
亀岡駅にて攻略できました(SoftBank)

城主争い

来月度の城主争い戦況

 1位 行雲さん 131

 2位 まっさん弾正尹さん 125

 3位 明智かめまるさん 118

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