名称(よみ) | 大草城(おおくさじょう) |
所在地 | 愛知県知多市大草字東屋敷(大草公園) |
天気情報 |
04/05(土) 降水確率:20% |
地図 | マップ/周辺の城/NaviCon |
分類・構造 | 平山城 |
天守構造 | 独立式層塔型[2重2階/1979年築/RC造模擬] |
築城主 | 織田長益 |
築城年 | 天正12年(1584) |
主な城主 | 織田氏 |
遺構 | 曲輪、横堀(水堀)、土塁 |
再建建造物 | 模擬天守(展望台)、説明板 |
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大草城(おおくさじょう)は、尾張国知多郡大草(現在の愛知県知多市大草)にあった日本の城(未完)。
概要
知多半島の伊勢湾側の北部にある平城。佐治氏の本拠・大野城とは矢田川を挟んで北に位置する。
城址は現在整備されて「大草公園」となり、本丸に模擬天守風の展望台が作られている。
沿革
天正2年(1574年)、この地を有していた佐治信方が長島一向一揆で戦死し、跡継ぎの佐治一成が幼少だったためか、織田信長の弟織田長益(有楽斎)が知多郡を与えられ、大野城を与えた。大野城は水利が悪いため大草の地に築城を開始したが、本能寺の変の影響で再び荒廃してしまったとも言われる。
小牧・長久手の戦い後、長益が摂津国に移封されたため完成を待たずして廃城となった[1]。
本丸、二の丸、三の丸を配し、本丸、二の丸の周囲を堀(水堀も)と土塁で囲った梯郭式縄張が良好な状態で残り現在も見ることができる。
江戸時代に入ると、尾張藩は大草城跡を知多郡の防御上重要な地として、家老の山澄淡路守英龍に大草の地(5,000石)を与え城址近くに居を構えて城址の保全をさせ、歴代の山澄氏によって保存された[2]。
現在でも城跡の周辺に東屋敷や西屋敷などの大字が残る。
1970年代から城址全体を公園として整備され、1979年(昭和54年)には展望台が設置された。
遺構
主な遺構
- 水堀、空堀
- 曲輪、土塁
- 櫓台跡
その他建造物・関連資料
- 模擬天守(二層櫓) - 城型展望台。
- 大草城縄張図 - 案内板に描かれた平面図。「大草城址の由来」の解説あり。
備考
交通アクセス
- 名鉄常滑線 新舞子駅下車、南に徒歩で約10分。
- 大草公園駐車場
参考文献
- 愛知県史跡整備市町村協議会『愛知県 史跡整備事例集』2009年3月27日
2025/02/16 12:11 尾張守たまきち
成瀬屋敷:成瀬家代々の屋敷跡。尾張藩主付家老で、犬山城主である成瀬正成の弟正則は、元和元年(1615年)に徳川家康より尾張藩主徳川義直に仕えるように命じられ、寛永16年(1639年)にこの地(古見村など)を給地され、城館を築いた。その後、明治2年(1869年)に名古屋へ移住したため屋敷は破却。現地に遺構はありませんでした。
2025/02/13 21:31 尾張守たまきち
森屋敷:成瀬家の家臣、森家の屋敷跡。家康の命により、尾張徳川家に仕えた成瀬正成の弟成瀬正則は、1639年この地に(古見村)任じられた。屋敷を構えて代々が居住し、その後、明治まで存続した。屋敷周辺は家臣の屋敷が配され、そのうちの一つが森屋敷。1869年尾張藩主の命により、当地を引き払って名古屋へ移住。現在は住宅地になっており、遺構はありませんでした。
来月度の城主争い戦況
1位 美少年☆右近衛中将☆喜三太さん 29回
2位 レミー安芸守キルミスターさん 21回
3位 kazさん 19回
水堀(遺構・復元物)
蓮池(大草城内堀)(遺構・復元物)
説明板(碑・説明板)
佐布里古城(周辺城郭)
佐布里城(周辺城郭)
大興寺城(周辺城郭)
羽根村砦(周辺城郭)
日長城(周辺城郭)
美城ヶ根城(周辺城郭)
北粕谷村砦(周辺城郭)
成瀬屋敷(周辺城郭)
森屋敷(周辺城郭)
山澄屋敷(周辺城郭)
慈光寺(寺社・史跡)
照邦親王御塚遺跡(寺社・史跡)
地蔵寺(寺社・史跡)
慈雲寺(寺社・史跡)
一色範光墓(寺社・史跡)
知多のだるま寺 大興寺(寺社・史跡)
大智院(寺社・史跡)
法海寺(寺社・史跡)
地蔵寺(御城印)
慈光寺(御城印)
知多市観光協会(御城印)
縄文堂商会(御城印)
大草公園駐車場(駐車場)
慈光寺駐車場(駐車場)
展望台(関連施設)
大草公園(その他)
攻略数:城 家臣団:人 |
異名:個 官位:個 |
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