名称(よみ) | 勝沼城(かつぬまじょう) |
通称・別名 | 師岡城 |
所在地 | 東京都青梅市東青梅6 |
天気情報 |
04/07(月) 降水確率:30% |
地図 | マップ/周辺の城/NaviCon |
問い合わせ | 青梅市郷土博物館[電話] |
分類・構造 | 平山城 |
築城主 | 三田氏 |
築城年 | 鎌倉時代後期 |
主な城主 | 三田氏 |
廃城年 |
永禄6年(1563) |
遺構 | 曲輪、土塁、横堀(空堀) |
指定文化財 | 都史跡(勝沼城跡) |
再建建造物 | 説明板 |
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勝沼城(かつぬまじょう)は、東京都青梅市にあった日本の城。別名は師岡城(もろおかじょう)。東京都指定史跡。
概要
勝沼城は、三田氏により築かれた平山城。築城年代は詳らかでないが、鎌倉時代から続く名族三田氏の居城として、16世紀半ばまで用いられた。三田氏が北条氏照により滅ぼされた後は師岡将景が城主となり、城名も師岡城と改められた。詳しい廃城時期は不明だが、1590年(天正18年) 豊臣秀吉による小田原征伐後に廃城になったと考えられている。
歴史・沿革
- 築城年代は詳らかでないが、三田氏により築かれたとされる。
- 永禄3年(1560年)の上杉謙信関東出兵後、城主の三田綱秀は後北条氏を離れ上杉方についた。
- 永禄4年(1561年)の上杉氏撤兵後、後北条氏と対立した三田綱秀が勝沼城より辛垣城を築き居を移した。
- 永禄4年(1561年)〜永禄6年(1563年)頃、北条氏照により三田氏が滅ぼされ、勝沼城も落城した。
構造
加治丘陵端の尾根上に占地し、本丸を中心に、尾根方面に三の丸、丘陵端方面に二の丸を配置している。この三郭を取り囲む様に横堀が全周に設けられ、二の丸には東面及び南面に馬出しが設けられている。また、二の丸及び三の丸には折れが設けられており、虎口及び馬出しを守る構造となっている。
考古資料
遺構
1925年(大正14年)に旧跡に、1976年(昭和51年)に歴史環境保全地域に指定されたため、一部が墓地として開かれているものの遺構は比較的よく残り、郭、空堀及び土塁が現存する。1993年(平成5年)には東京都指定史跡に指定された。
観光
アクセス
- JR東青梅駅下車。
参考文献
- 『資料青梅市の中世城館跡』 青梅市教育委員会 1990年
- 「青梅市史 上巻」、青梅市市史編さん委員会、1995年
2025/03/30 00:19 taco左近衛中将ken
勝沼城:3月なのに25度の暑い日、吹上しょうぶ園の奥から入る。城跡初心者ながら土塁、空堀、切通しなど、汗だくになりながら歩き廻りました。
2025/03/09 18:20 いれぶん武蔵守
阿蘇神社:小田原北条氏が伊勢宗瑞存命時にこれほど北の土地に目を向けていた事に驚きました。鎌倉幕府や鎌倉公方、関東管領は関わっていなかった社ですが、以降は三田家、そして徳川家が代々携わって朱印状を残しています。河川段丘上に社をもち、水堀状の水路の外側等には社領の水田や宮司居宅を今なお配置して、古を伝えています社紋は違い鷹の羽を使われていましたーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー阿蘇神社由緒旧称は阿蘇大明神。又、長浏郷総社龍水山阿蘇官と称した。創建は推古天皇九年(六〇一)と伝える。領主、武家の崇敬が厚く承平三年(九三三)平将門が社殿を造営した。以後藤原秀郷(九四〇)、三田掃部助定重(一五三六)もまた...
来月度の城主争い戦況
1位 ゆりぴょん駿河守さん 55回
2位 けんさん 44回
3位 ティアラ駿河守さん 43回
攻略数:城 家臣団:人 |
異名:個 官位:個 |
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