名称(よみ) | 熊倉城(くまくらじょう) |
通称・別名 | 日野城、城山 |
所在地 | 埼玉県秩父市荒川日野 |
天気情報 |
04/05(土) 降水確率:20% |
地図 | マップ/周辺の城/NaviCon |
問い合わせ | 秩父市教育委員会文化財保護課[電話] |
分類・構造 | 山城 |
築城主 | 長尾景春 |
築城年 | 戦国時代 |
主な城主 | 長尾氏 |
遺構 | 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、竪堀 |
指定文化財 | 県選定重要遺跡(熊倉城跡) |
再建建造物 | 碑 |
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熊倉城(くまくらじょう)は、埼玉県秩父市荒川日野(武蔵国秩父郡日野村)の城山にあった日本の城。別名日野城(ひのじょう)。
概要
城名は城山が熊倉山に連なる峰であったからとみられているが、中世期の文献には「熊倉城」の名前がなく、江戸時代以降の命名である可能性がある(「熊倉城」の名前は『新編武蔵風土記稿』に登場する)。そのため、中世期には村名より「日野城」と呼ばれていたと考えられている。
主君・上杉顕定に反抗した長尾景春は、拠点である鉢形城・長井城を失い、秩父郡へと逃亡、再起を期して築城した城の1つと考えられている。だが、文明12年(1480年)に景春は上杉方の太田道灌に攻められて日野城(熊倉城:「太田道灌状」には“日野要害”と記載)に追い込まれ、同年6月24日に同城は落城(日野城の戦い)、拠点を失った景春は逃亡し、長尾景春の乱は終結した(後に景春は下総国の古河公方の下に亡命する)。その後、鉢形城の支城として上杉氏・北条氏・武田氏などの支配下に置かれ、遅くても小田原の役によって廃城になったと考えられている。
城は熊倉山から北へ伸びる城山の尾根に沿って大手門があったとみられる南東から北西に向かって築かれ、尾根と荒川およびその支流が形成した崖と渓谷に阻まれた天然の要害であった。城跡の外周は急斜面となっており、中央部の本丸を囲むように空堀が巡らされていたことが知られている。
参考文献
- 荒川村郷土研究会『長尾景春と熊倉城』荒川村役場、1982年(所収: 黒田基樹編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第一巻 長尾景春』(戎光祥出版、2010年))
- 【書籍】「新編武蔵風土記稿」|publisher=内務省地理局|date=1884-6|ref=}}
2024/05/28 23:56 マグロ常陸介祐平
久昌寺砦:秩父札所第25番久昌寺観音堂(写真8枚目)の南にある痩せた尾根が砦となっています。観音堂の裏を弁天池に沿って進むと尾根に通じる入り口(写真6枚目)があり、緩やかな尾根を上ると小さな平地が並ぶ砦となります。東側の奥の祠のあるやや広い郭(写真4枚目)までに堀切が2つ(写真5,7枚目)、先に1つ見られ、いかにも砦といった感じですが、堀切の現状は3歳児でも普通に歩ける浅いものです。小さな郭には2ヶ所に玉石が集中しているところがあり(写真2枚目)、祠などの宗教的なものがあったのではないかと思われます(そう考えるのが自然な立地)。城や砦としての記録はないようですが、埼玉県の遺跡地図では室町・戦国の城跡とし...
2024/05/27 23:30 マグロ常陸介祐平
下原城:金仙寺の北側、三方を荒川とその支流と谷に囲まれた要害の地に築かれたお城です。二段の曲輪で構成されており、上下段には、ほぼ直線の土塁(写真1枚目)があり、北側下段の曲輪には虎口(写真3枚目)が見られます。東側は畑となり遺構は消滅していますが、参道前の谷に下る通りには、城の東端と思われる堀の折れ部分のような構造(写真6枚目)が見られます。城主は、秩父風土記に「上ノ屋敷金仙寺の脇、大久保主馬、下ノ屋敷殿ケ屋戸、山田志摩守」とあり、大久保氏に関しては調べても出てきませんが(ネットですが)、並んで出てくる山田志摩守は新編武蔵風土記稿にも名前がある丹党山田氏と思われるので、根拠のないものではないようにも思...
来月度の城主争い戦況
1位 日尾城主諏訪部定勝さん 28回
2位 kawaさん 17回
3位 つも上野介さんさん 8回
攻略数:城 家臣団:人 |
異名:個 官位:個 |
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