位置
石神城は、標高19メートル、比高15メートルの台地端部に立地する。城の東側は、現在旧流路となっているが、久慈川が台地に向け大きく蛇行した部分にあたっており、要害の地形を一層強固なものにしていた。城の西側は広大な台地つづきとなっており、主たる防御施設も台地側を遮断することに向けられていた。
歴史
城が作られた時期は諸説あるが、永享4年(1432)足利持氏感状に「常州石上城合戦」とあるため、この時期には築城されていたと思われる。『新編常陸国誌』によると、延徳2年(1490)頃に小野崎通老が石神の地に城を築き、石神氏とも称したとされている。
天文15年(1546)頃、所領の境界をめぐってしばしば争いが起こっていた額田小野崎氏と石神小野崎氏の間で合戦になった。この結果石神小野崎氏は敗北し「石神没落」となり、石神小野崎氏は城から退去した。
しかしその後、佐竹氏への戦功により領地の維持と帰城が認められ、永禄1~3年(1558~60)にかけて石神外宿に3つの寺を建立し、石神城も再建され石神城鎮守として住吉明神が建立された。慶長7年(1602)佐竹義宣の秋田移封に従ってこの地を去り、石神城は廃城となった。
構造
中心の構造は、3つの郭からなっている。「遠見城」と呼ばれるⅠ郭、「
御城」と称されるII郭、そしてII郭のさらに西側に連なるIII郭である。遠見城は、
御城に対してより優位な曲輪として機能しており、遠見城は城内第一位の曲輪であった。
御城は、中心の曲輪群のなかではもっとも大きな面積を示した。III郭は、石神城の主要部のなかでもっとも西側に位置した曲輪で、
御城についで大きな面積を占めた。主要部の遺構の保存状況は、茨城県内の中世城館跡と比較してもっとも良好なものに属している。
変遷
石神城はすでに発掘調査が行われており、
御城と呼ばれる中央の曲輪からは、ひときわ大きな竪穴建物が発見された。しかし、長期間生活した様子はなく、戦いの際に人々が臨時的に避難したものと考えられる。つまり石神小野崎氏は戦いの際、地域の人々とともに城にこもったと推測できる。しかし、城の性格は戦国時代の終りごろに大きく変わり、現在見られるように堀や土塁を大きく改修し、軍事性を大幅に高めている。石神城は地域住民との共同の逃げ城から、領主の城へと性格を変えたのである。
参考文献
・齋藤慎一・向井一雄著『日本城郭史』(吉川弘文館,2016)
・千田嘉博「住民の城から領主の城へ-石神城の縄張りを読む」『常陸国石神城とその時代』(東海村教育委員会)2000年
・千田嘉博「石神城の謎を解く」『ふるさと歴訪』(東海村教育委員会)2009年
・高橋裕文「中世領主と石神氏」『常陸国石神城とその時代』(東海村教育委員会)2000年
・星龍星「石神城そぞろ歩き-発掘調査報告書の成果を参考に-」『常陸国石神城とその時代』(東海村教育委員会)2000年
情報提供:東海村教育委員会生涯学習課