久米城は、常陸太田市久米に築かれた城。戦国時代には、佐竹氏の本城常陸
太田城の支城として重要な役目を担った。鹿島神社の参道から登城できる。
歴史
久米城の築城主や築城年代等の詳細は不明だが、さかのぼると鎌倉時代に常陸平氏大掾氏が館を構えたのがはじまりだと伝わる。その後、藤原秀郷の後裔と伝わる小野崎氏の庶流久米氏の城となった。久米氏はやがて佐竹氏に属したため、佐竹氏の支城となった。
応永14年(1407)、当主佐竹義盛が没すると、継嗣がいなかったため関東管領山内憲定の子義人(はじめ義憲)を養子に迎えた。しかし、これにより家中で反発が起こり、100年続く「山入の乱(佐竹の乱)」を引き起こす要因となった。
上杉禅秀の乱が起きると義人は鎌倉公方足利持氏方についたが、義人に反発していた佐竹氏の分家にあたる山入佐竹与義(ともよし)は禅秀方につき対立した。禅秀の乱が鎮圧された後も両者の溝は埋まらず、常陸国内では争乱が続いた。
その後、15世紀中頃、義人の孫にあたる佐竹義治は、対立が続く山入佐竹氏に対抗するため久米城主の久米氏を部垂城に移し、自身の子である義武を久米城に入れ山入佐竹氏に備えた。
文明10年(1478)、山入佐竹義知が久米城を攻撃。城主義武は討ち死にし、久米城は落城した。その後、義知が久米城に入り佐竹宗家の本城
太田城を攻めるタイミングを窺っていたが、翌月、義治が久米城を奪還。義知を討ち取り、義武の弟にあたる義信を久米城に入れた。
この系統が佐竹北家となり、久米城は戦国時代を通して佐竹一族にとって重要な城として、改修整備を重ねながら存続したと考えられる。
慶長7年(1602)、佐竹氏の秋田移封をもって廃城になった。
遺構
久米城は大きく分けて、本城(東の城)、西の城、南の出城、北の出城、さらに
城山北側の城下に分けられ、広大な城域を誇る。
本城(東の城)は鹿島神社を中心としたエリアであり、鹿島神社が二の丸にあたり、その東北側に本丸が配置されている。本丸背後には堀切が施されており、この堀切を渡って東に向かう道があり、この道が佐竹氏の本城
太田城へ繋がる道と推察される。
太田城との距離は約5kmであり、この道が古い段階から連絡路として存在した可能性が高い。
また、本丸の南東には虎口があり、土塁に囲まれた折れを伴う構造をしていることから、格式を感じさせる。
なお、大手道は鹿島神社に至る参道の東側、階段状になっている郭を縫うようにして設けられていたと考えられている。
西の城は、本城(東の城)の西北方向にあたり、現在の中継所付近を中心とする。
主に3つの郭で構成され、北西の緩斜面の谷に対して防御性を高めるために構築されたと考えられる。谷に面した北西側に土塁を設けており、二重堀切を施し、尾根上の進路を遮断する意図も見て取れる。
北の出城は、西の城から北方に伸びる尾根に築かれている。北方約6kmの距離にある
山入城を意識し築かれたと考えられる。尾根上には、堀切、土橋、物見台が残る。
南の出城は、本城(東の城)から南方向に伸びる尾根に築かれている。あまり起伏がない尾根のため、二重堀切など堀切が多用されている。堀切で進路を遮断し、さらに迂回させるための横堀が施されており、随所に厳重に守りを固めていることが見て取れる。この横堀伝いに進むと、土橋と虎口が設けられていて、南の出城の内部に入ることができる。久米城において横堀はこの一箇所のため、南の出城が最終段階で増築された可能性も指摘されている。
城下には「根古屋」「上宿」「中宿」「下宿」の字名が残ることから4つの区域に分かれていたと考えられ、城下は都市的な機能を持っていた可能性があるとの指摘もある。
丘陵上のそれぞれのエリアと城下をあわせると広大な城域であるが、地元保存会の整備によって全域の見学が可能となっている。
交通
・JR水郡線常陸大宮駅下車、徒歩約100分(約8km)
・那珂インターから約17km
参考文献
・『関東の名城を歩く・北関東編』峰岸純夫、齋藤慎一、吉川弘文館、2011年。
・『図説佐竹一族』茨城県立歴史館編、戎光祥出版、2025年。
・『久米地域の歴史 先人たちの偉業を後世へ』歴史友の会、2018年。
文:山城ガールむつみ