荒砥城(あらとじょう)

荒砥城の基本情報

通称・別名

新砥城、山田城

所在地

長野県千曲市上山田3509-1

旧国名

信濃国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

築城主

山田二郎?

築城年

室町時代

主な改修者

山田氏

主な城主

山田氏、屋代氏

廃城年

天正11年(1583)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

市史跡(荒砥城跡群)

再建造物

館、見張り台、兵舎、門、柵、石碑

周辺の城

葛尾城(長野県埴科郡)[3.4km]
松田家館(長野県千曲市)[5.4km]
屋代城(長野県千曲市)[5.9km]
麻績城(長野県東筑摩郡)[8.3km]
横田城(長野県長野市)[10.6km]
青柳城(長野県東筑摩郡)[10.7km]
松代城(長野県長野市)[11.0km]
岡城(長野県上田市)[11.4km]
上田城(長野県上田市)[12.8km]
尼厳城(長野県長野市)[12.9km]

荒砥城の解説文



荒砥城(あらとじょう)は、信濃国更級郡新砥[1](現・長野県千曲市上山田)にあった日本の城。山城。別名、新砥城。山田氏が居城としていたことから「山田城」とする説もある。山城として復元されたのは全国2例目。千曲市指定史跡[2]となっている。

概要 

この地の豪族で村上氏の一族の山田氏の居城であった。村上氏の本城、葛尾城の支城としての役割を果たしていた。

天文22年(1553年)には武田信玄配下の真田幸綱の調略で屋代氏が寝返ったことにより村上義清が守備した葛尾城が落城したため、武田氏に従った屋代政国にそれまでの屋代城の替え地として、荒砥城を与えられ屋代城から移った。

永禄2年(1559年)信玄は屋代政国に隠居料として福井・十蔵(戸倉)・新砥の地を宛がう。

天正10年(1582年)、武田氏が滅亡した後、屋代秀正は上杉氏に従い海津城の副将として遇された。しかし主将の山浦景国(村上義清の息子)とはしっくり行かなかったようである。村上氏一族の中で最初に武田方に寝返った屋代氏は信頼されず、上杉景勝は稲荷山城を築いて監視していた。

天正12年(1584年)4月1日、秀正は徳川氏に通じたため上杉景勝に攻められ、荒砥城に火を放ち、徳川の下へ出奔して旗本となる。荒砥城は以降、廃城となった。

屋代氏出奔後の領地の一部は景勝の人質となっていた真田信繁(幸村)の領地として与えられたとされている。

逸話 

頼清流村上氏の当主村上義清の一族で名を馳せた山田国政と吾妻清綱の居城と伝えられる。天文20年(1551年)4月、吾妻清綱と山田国政は対立していた矢沢頼綱を援助したその兄の真田幸隆の策略によって、城代を務めていた戸石城において討死した。

天文24年頃とみられるが山田城に敵が移ると時を移さず攻撃し落城させた忠節に報いるとの書状が晴信から寺尾刑部少輔宛に卯月25日付けで示されている。

遺構 

  • 土塁、空堀

 かつてテーマパーク(ロープウエイや観覧車等各種遊具、満蒙開拓団殉難慰霊塔が設置されたが、その後全て撤去されている)建設の際に遺構は破壊され、低い石積程度しか残存していなかったが、現在はふるさと創生事業の資金を活用した千曲市城山史跡公園として整備されている。石積を用いた虎口などやりすぎの感もあるが、それでも館や兵舎、櫓など中世の山城の雰囲気を再現しており、平成19年(2007年)の大河ドラマ「風林火山」(ドラマでは海ノ口城として使用。)平成23年の大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜(小谷城として使用)のロケ地として使用されている。

 この地には戦時中に高射砲台が設置されていた経緯があったからか、昭和42年4月18日から更級郡・埴科郡出身者の満蒙開拓団殉難慰霊塔が両郡を見渡せるようにと設置されていた。団員800名の内、敗戦の1週間後に649名が玉砕したと伝えたものであった。しかし城山史跡公園として整備のため撤去されて平成6年4月に下の善光寺大本願別院の境内に犠牲者の名を刻んだ慰霊碑が移されている。

所在地 

  • 長野県千曲市上山田3509-1

交通 

  • しなの鉄道・戸倉駅よりタクシーで10分
  • 上信越自動車道・坂城ICから20分
    • 駐車場あり

参考画像 

参考文献 

  • 『廃城をゆく 2』イカロス出版社

荒砥城の口コミ情報

2023年06月20日 乃音和泉守
荒砥城



戸倉上山田温泉のゲートをくぐり、突き当たりに城山入口があります 車で上まで上がれます

2023年06月02日 武蔵守与作兵衛
荒砥城



雷雲が迫ってきたため文字通り駆け足でのリア攻めとなりました。戦国時代の山城を復元したものですが、同じコンセプトの足助城よりコンパクトです。ドラマの撮影に使われるだけあって(山城なのに)洗練された印象を受けます。よく整備されていて歩きやすいですが、綺麗すぎて物足りないと感じる方もいるかもしれません。

2023年05月13日 かてきん
荒砥城

カーナビで住所を案内で別の場所へ遠回りして戻り上山田温泉へ周遊していたら荒砥城入口の案内板があり進む、駐車場から1分の案内所があり入場料金300円を払い5分くらいで本丸跡へ展望台もあり絶景❗道も整備されていて歩きやすい、

2022年12月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
中院林城[荒砥城  周辺城郭]



中院林城は荒砥城の西方約2.4km、標高1252mの冠着山(姥捨山)から北方へ延びる山塊尾根の一つ、標高約640mのピークの一つに主郭が存します。北東麓のさらしなの里マレットパークからの比高は200m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている前述のさらしなの里マレットパークを目標に設定して下さい。取り付きはこのマレットゴルフ場の駐車場西側の獣柵ゲートからで、尾根筋に鉄塔整備用の保安道が付いてます。が、尾根中腹の岩場に建つ鉄塔までしか道はありません。後は岩場をよじ登ったり急登したりして尾根稜線上までを頑張りましょう。

築城年代、築城者は不明です。同じ荒砥城のリア攻めマップにある明徳寺館を居館とする要害と推測されているらしい。明徳寺は戦国時代に羽尾の寺屋敷から村上氏の被官、林能登守が移したとされており、能登守は天文十五年(西暦1546年)に卒している事から居館はその際には廃されていたと考えられている。

お城は二段の削平地を持ち、それに幾つかの腰郭が設けられている。南側山側背後は細尾根で城域南端は堡塁の様な高まりで終わる。全体的には堀系が無く、戦国時代以前の古い縄張のようにも感じられる。又、城域外、主郭からの北方尾根には石積みの付いた岩場の平場が残る。崩落石の量を考えるとかなりの規模の土留めの石積みで、信濃のお城の神も往時のものなのか判断が付かないと困惑している。

この北方尾根の末端、標高543mのピーク周辺には砦としか思えない削平地と堀切様地形(ただの切り通しかもしれないが少なくとも西側に道形は無い。)、竪堀様地形が確認出来る。地図見りゃ解るけどこのピークは物見台や狼煙台としては抜群の適地で、千曲川沿いの更級郡内を文字通り一望出来る。堀系を持たない中院林城とはまた違う趣き。面倒なのでアクションしないけどこの口コミに記録を留めて終わりにする。

写真5、6が謎の岩場の平場、写真7、8が標高543mピーク周辺っす。

2022年12月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
屋代氏館[荒砥城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

屋代氏館は荒砥城の南東約0.4km、標高約506mの山間部台地緩斜面上平場に存した居館です。荒砥城の南西麓に立地し、この山間部において人の住まう場所としては最上段となる。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは屋代氏です。屋代氏の長く複雑な歴史を一千文字で語るのはとても無理なので戦国時代における屋代氏の話を少々…

戦国時代の屋代氏は頼国系村上氏で、本来の経業(明国)系村上氏とは別系統である。天文二十二年(西暦1553年)、塩崎某に同心して武田氏へ通じ、善光寺平口を押さえる(地図を見れば一目瞭然、アプリ登録城である屋代城は小県郡から埴科郡、更級郡を経て善光寺平に至る道筋、松本平から筑摩郡を経て善光寺平に至る道筋を眼下に置く結節点だ。)同氏の離反は村上氏を孤立させ、事実上その息の根を止めたに等しい。

武田氏時代には左衛門尉政国が信濃先方衆として軍役七十騎、永禄二年(西暦1559年)には埴科郡の内、福井、戸蔵、更級郡の新砥の内、山田庄内の中内河を宛てがわれたが、従来の本領の替地としてであり、本拠を屋代城から荒砥城へ移す事となる。事の経緯は明らかではないが川中島の戦いが影響を及ぼした事は想像に難くない。

居館の現況ですが。縄張図を見ても敷地範囲すら示されていない。中心地は弁天池と称する配水池で、この池が普携寺の故地、館跡と伝わる。池の畔の高まりには三峯社の祠、宝筐印塔の残欠が残る。

永禄二年から天正十二年(西暦1584年、神本の天正十一年三月は誤り。)までの間に屋代正国、その養嗣子秀正(大河ドラマ真田丸で一躍有名になった室賀正武の実弟である。)が住した居館て事になるが、信濃のお城の神は「その時の館がここであったかは不明。」て読んでる方はずっこけまくりな記述で突き放す。じゃぁ何で屋代氏館なんだよ…神は時には冷酷なものなんだろう。

※写真1枚目の背景の山稜が同じ荒砥城のリア攻めマップにある荒砥小城っす。

2022年12月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
金比羅山砦(越道山)[荒砥城  周辺城郭]



金比羅山砦(越道山)は荒砥城の南東約1.1km、東方へ延びる山塊尾根上、標高558mのピークの一つ、金比羅山(越道山)山頂に主郭が存すると推測されます。南麓の長野県道55号線、大町麻績インター千曲線からの比高は110m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南東麓の東国寺を目標に設定して下さい。金比羅山山頂へは金比羅山林間歩道を使えば楽に行けると思いますが、自分入口を発見出来なかったので北東麓の墓地の裏手から適当直登、結構な急斜面を山頂までフル直する羽目になりましたわ…

信濃の山城と館2、更埴・長野編に記載があるのですが、上山田町誌には、「荒砥城は…山の頂上、中腹、山麓の一帯に及ぶ城郭を一要地とし、宮沢川より南、湯の窪沢に至る段丘一帯に及ぶ居館、屋敷、倉庫のある一連の段地及びその南部金比羅山とそのふもとをめぐって法華寺川の千曲川に注ぐ一帯の地を城下町とした広大な要害地である。」とあり、金比羅山をこの要害地における砦として位置付けている。

砦の現況ですが、山頂部は金比羅山古墳で今も墳丘の高まりが残り、東側斜面は三段の段付き。が、段郭を構成していたのかは判らんしむしろ後世の改変の可能性の方が高いでしょう。西側山側斜面は緩やかに下る自然地形、城域内は少し前までフィールドアスレチック場だったらしく東屋の他、その機材の一部が今も残る。

村上氏信濃退去に伴う悲話伝説は3つ程伝わっているが、その内の一つが「女涙坂」、演歌みたいなタイトルだけど簡単に言えば、「奥方が従女と共に城を退去し東国寺を目指す。」→「燃え盛るお城を見て嘆き悲しみ涙を流す。」→「追手の矢によって落命する。」みたいな感じ。東国寺はこの金比羅山南東麓に、女涙坂はその東南を上がる。伝説の類いとはいえ3つの話には共通する点が一つ、登場する3人の女性が経験する悲劇はそれぞれ、千曲川を渡ろうとしたか、渡る途中か、渡った後の話で何れも千曲川渡渉を大前提としている。退去先は最終的には善光寺平、越後を目指していたと思われるが、近世の北国街道、今の国道18号線の道筋に従わず、千曲川を南に渡る必要があった事が解る。離反した屋代氏の所領内を避ける思惑もあったのかもしれないが、少なくとも足弱にとって善光寺平に至る道筋は千曲川南岸(左岸)を通る古道しかなかった事を意味する。

2022年12月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
城腰の大下館[荒砥城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

城腰の大下館は荒砥城の南東約0.8km、標高約390mの山間部台地緩斜面上平場に存した居館です。荒砥城の南東尾根直下に立地、名称にある「城腰」は城の麓を意味する地名であり少なくとも信濃ではよく見掛ける。

行き方はGoogleマップに位置登録されているファミールひまわりBを目標に設定して下さい。この長屋共同住宅から舗装道路を挟んだ北西側の一帯が概ねの該地です。駐車場所には困りますので車は自身の持つ器量を鑑みて適地を選んで捨てましょう。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは山田氏です。同氏については同じ荒砥城のリア攻めマップにある山田氏館を参照して下さい。山田氏は村上為国の子、仲綱が山田の地を分知され山田庄司として開発主体となる。その子、為村は山田庄の経営を推し進め、併せて文化の進展に寄与する。即ち十一面観音立像を古屋から移遷し氏寺とし、宇佐八幡を氏神として拝する。波閇科(はべしな)神社を産土神として祀る他、大御堂、法華寺、弥六寺は皆同氏関連の寺院であった。注目に値されるのは建久八年(西暦1197年)、源頼朝の善光寺参詣の折、山田氏はその忠勤を賞されて守護不入の権を賜っている。

居館の現況は耕作地、空地、一般住宅とその敷地等となっています。同じく山田氏の居館と推測される葛尾城のリア攻めマップにある構屋敷(釜屋のタテ)とは時代的な変遷があるのだろうか。別に一族の何某かが居していたとも考えられる。該地は南北を女沢川と田島沢の流れに挟まれた段付きの平場で、敷地の南東隅には「大下」の屋号を持つ一般住宅が建つ。切り込みハギの石垣は当然後世のもの。ちなみに今に残る波閇科神社の位置はこの城腰の大下館の至近となる。

鎌倉時代の山田氏は宗家とは別に半ば独立した事跡が幾つか確認出来る(吾妻鏡)が、大塔物語、結城陣番帳に同氏の名は見られない。南北朝時代には北朝方となった安信系が台頭し、室町時代には幕府に抗する動きが見られる村上氏だが、中央との関わり合いによって宗家の経営が大きく左右された可能性が見受けられる。こうした時々の宗家再編の離合の中で、同族である山田氏は次第に在地での独立性を保てなくなったようにも感じられる。

2022年12月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
山田氏館[荒砥城  周辺城郭]



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山田氏館は荒砥城の南東約0.5km、標高約452mの山間部台地緩斜面上平場に存した居館です。荒砥城の南麓直下に立地し平時の居館であったと推測されます。

行き方はGoogleマップに位置登録されている石造子安地蔵菩薩立像を目標に設定して下さい。このお地蔵さんの西側一帯が「御平」の字地名を残す居館の概ねの該地です。縄張図を見ても居館の敷地範囲は特に示されていないのでここら辺て感じでよいと思います。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは山田氏です。同氏は村上為国の子、仲経が村上郷内の山田を分知され地名を取って山田氏を称した事に始まる。山田氏は文治年間(西暦1185年〜1190年)、仲綱の時、千曲川の氾濫により五反田の平坦地から葛尾城のリア攻めマップにある構屋敷(釜屋のタテ)に居館を移し、その後は寄合延時の子、延基が後嗣として入り、その子、為宗、更にその子、信兼と続く。信兼は月影判官を称し応仁年間(西暦1467年〜1469年)、山田庄御平に砦を築き、後に荒砥城を築くに及んだそう。

戦国時代の山田氏は砥石城の城代、山田国政で知られる。国政は砥石城において矢沢頼綱(真田幸綱の実弟)と対立し、これに乗じた真田幸綱の調略により城を失いこの際に討死したとされる。小県郡支配における最重要拠点を預けられていた事は当時の村上氏被官としての山田氏の位置付けを物語る。

居館の現況は耕作地、果樹園、空地、一般住宅とその敷地等となっています。前述からすれば砦として築かれた事になるが、信濃のお城の神は「御平」の地名から居館であったとしている。改変著しく旧態を想像し難い。神の眼を持ってしても敷地範囲を明らかに出来ないのは当然でしょう。

山田国政は村上義清の後詰到着まで砥石城を堅守し、武田勢は砥石崩れと称される苦い敗戦を経験する。そんな勝ち戦の立役者の一人となった国政が住したかもしれない居館ですが、行っても特に何の感慨も湧いて来ないので子安地蔵菩薩に手を合わせたらとっとと帰るが正解です。

※写真2枚目、背景の山稜に荒砥城、模擬櫓が見えるかな。

2022年12月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
若宮の館[荒砥城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

若宮の館は荒砥城の北方約1.0km、千曲川西岸(左岸)、標高約374mの河岸台地上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている東方の佐良志奈神社を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップで位置を確認しましょう。該地は長野県道77号線、長野上田線に一部が面しています。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは松田氏です。戸倉町誌では「この館跡に住む家は、伝承によると戦国時代武田氏家臣の松代城将(細かいけど海津城将の誤り。)、高坂氏の寄騎として信濃へ来住し、のち武家のかたわら神主職(若宮八幡宮だろう。)を務めるようになったという。同家に伝わる文書によると、当初は和田姓を名乗っていたが、武田氏滅亡後、更科市の八幡宮(武水別神社)の神官家、松田氏の手が伸びてくるに及んで松田姓に改めたのであろう。」とし、館が築かれた当初には荒砥城主配下の者が居たのではなかろうかと推測している。…元から存していた居館の二次利用て事になるんでしょかね。

居館の現況は正しく住宅地等となっています。敷地の西辺の一部には結構な高さを持つ土塁の残滓が残り、信濃のお城の神は土塁が居館の敷地を全周していたのであろうと推測している。ちなみに敷地の中心部に建つ一般住宅は元はお寺さんだったと思うけど…

同じ荒砥城のリア攻めマップにある左京屋敷とは一街区を挟んだ西方の御近所さん。左京屋敷の主も若宮八幡宮の神官職だけど、この若宮の館の主もアルバイト的だがそうだという事になる。もはや何が事実なのかをはっきりさせる事は難しいが、時代的にも存続時期がほぼ同一だったりするので非常に悩ましかったりする。

2022年12月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
左京屋敷[荒砥城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

左京屋敷は荒砥城の北東約1.0km、千曲川西岸(左岸)、標高約374mの河岸台地上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている東方の佐良志奈神社を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップで位置を確認しましょう。該地は長野県道77号線、長野上田線から一本南へ入った舗装道路沿いの住宅地です。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは宮原左京です。戸倉町誌によると宮原氏は「…代々ここで神主を務めてきた家筋である。」とある。前述の佐良志奈神社は若宮八幡宮でもあり、宮原氏はこの若宮八幡宮の祭祀を一手に握っていたんだそう。

若宮八幡宮の北西約5.0km、長野県千曲市八幡に存する武水別神社(八幡宮)は、一帯が岩清水八幡宮の荘園であった事から安和年間(西暦968年〜970年)に八幡神(源氏の氏神でもある。)が勧請され、信濃随一の八幡宮として武士等の尊崇を受けていました。アプリ登録城である松田家館はその神官家である松田氏の居館、松田氏は天正十二年(西暦1584年)六月に上杉氏被官の日岐盛直が松田民部之助の後嗣として入り、稲荷山城在番、松田織部亮盛直を称して七百六十石を給地としました(別当職て事になる。)。同氏はこの地域における八幡宮を統括する役割を担っていたらしく、若宮八幡宮の宮原氏もその下風に立たざるを得なかったと推測されています。

居館の現況は正しく住宅地等となっていて往時を偲ぶには難し過ぎると思います。うろちょろしてると通報されるだけなので写真だけ撮って陣払い…若宮八幡宮の参道沿いである事は間違い無いと思うけど、今に残る道筋を是とするならば参道は直線ではなく曲げられていた事になる。

左京て素敵な名乗りっすよね、まさか武家に大人気だった左京大夫じゃないだろうけど、左京職職制の中の何かを気取ったんだろう。左京職は本来、都の行政、治安を司る役職なので、宮原氏は神官職とはいえ中世においては在地支配層の一端を担っていた事を自負していたて事なのかな。

2022年11月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
堂城山砦[荒砥城  周辺城郭]



堂城山砦は荒砥城の西北約3.1km、雄沢川北岸(左岸)、標高461mの河岸台地丘陵頂部に主郭が存します。南麓の明徳寺からの比高は45m位でしょか。ちなみに砦の存する堂城山は完全無欠の独立丘陵、集落の中の可愛い小山です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。比高もそんなに無いので事前情報をろくすっぽ確認しなかったのですが、周囲に擬態しちゃって取り付きが非常に判り難い。直登しよかなとか思ったけど、東麓に鎮座する瘡守神社の鳥居の手前から消えそうな道が付いてました。

築城年代、築城者は不明です。同じ荒砥城のリア攻めマップにある明徳寺館と関係がある事はほぼ間違いの無いところでしょう。明徳寺館は堂城山砦の南麓、約0.3kmに位置します。が、要害や詰城の類いではない事は明白で、居館より高所に設けられた物見台てのが精一杯の実態でしょう。

主郭には古墳が残る。正確には石室を利用して経塚が造られていたのを主郭に取り込んだらしい。縄張図を見ると主郭(石積みが残ってるらしいが…)を中心とした概ね3つの郭で構成されており、主郭と通称3郭の間には堀形が残るとされている。ちなみに通称2郭は削平地を確認する事が出来たが他にあっては遺構も含めて未確認、とてもじゃないけど無理っすわ…

小山だと思って舐めてたら主郭から西側には高さ約1.5m位の凄まじい熊笹藪が待ち構えていました。当然堀形とか確認してみよかなとか思って突入するじゃないすか、ところが熊笹+蔦植物+ちくちくする草木の混合藪で流石に阿保でも諦めざるを得なかったです。写真見返しても何を撮ったのか自分でもよく判らん…

このレベルの砦にダイハードな藪漕ぎは割に合わないっす。苦労対効果が非常に悪いので通称2郭で食事でもしてとっとと帰りましょう。おいらもアウターに刺さった棘を抜き取りながらおにぎり3個+春巻2本喰いして帰りました。腹ぺこの1日だったよ…

※写真8枚目がさらしなの里マレットパーク付近から撮影した遠景となります。同じ荒砥城のリア攻めマップにある明徳寺館、羽尾本田の屋敷群、築地御所を加えた計4箇所のスポットが1枚に収まります…

2022年08月13日 今川党山県右兵衛尉ニャン八
荒砥城



本曲輪、二曲輪が復元された城です。算木積みの石垣や、兵舎、見張り台などがあり、連郭式の構造も面白いです。全てを廻るのに一時間くらい掛かります。でも見晴らしも良いし、見所が多い、汗をかいたら近くに戸倉上山田温泉街があるので、大丈夫です。駐車場の心配もいりません!是非おすすめします。

2022年07月22日 ねこじる武蔵守
荒砥城



よく整備された山城です。山の途中の駐車場🅿️🚗からでしたら革靴でも行けそうです。しかし、この、駐車場まで先人さんも書かれていますが細い急坂。直前に雨に降られたので落ち葉が道にびっしり、二輪だと登るのは厳しいかと思います。眺めは最高です。規模は小さく30分で満喫できます

2022年06月29日 エムサカ陸奥守
荒砥城



2度目の登城、埼玉のジメっとした暑さを逃れて暑くてもサラッとした空気の山城へ。本郭と二の郭には櫓や門が復元整備されていて戦国期の砦の雰囲気にひたれます。櫓上からの景色も抜群で北は千曲市街から南は上田市街まで一望できます。

2022年05月18日 しげしげ主税頭信繁
荒砥城



大河ドラマ『風林火山』などでロケが行われた名所。独特な石積みでしたが中々の雰囲気でした。

2022年03月26日 RED副将軍
荒砥城



有料の城山史跡公園として整備され戦国時代の山城が再現されています✨

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

1524年に村上氏の支族にあたる山田越中守二郎により築城。山田氏の居城で、村上氏の本拠地である葛尾城の支城として機能。
1553年に武田信玄により葛尾城が落城すると、村上氏を裏切り武田氏に従った屋代政国が荒砥城に入城。
1582年、武田氏が滅亡後は、屋代秀正は上杉氏に従い海津城の副将に遇されるも、村上氏一族の中で最初に武田氏に寝返った経緯より上杉景勝は稲荷山城を築いて監視していました。
1584年、屋代秀正は徳川家康に通じたため、上杉景勝は荒砥城を攻め、以降は廃城になりました。

見所
櫓門を潜って直ぐの石垣と復元された井楼櫓。石垣は小笠原系の布積みでの再現。
主郭からの眺望は、二の丸に復元された井楼櫓、兵舎越しに城下に千曲川、対岸に葛尾城を見渡す事が出来ます。
まず熊は出ない平和な山城です。

2021年09月21日 出雲大介
荒砥城

開園時間午前9時から午後5時。入園料金一般300円。JAF会員証提示で割り引きがありました。道中は車で登れますが、急坂です。

2021年08月01日 織田上総介晃司
荒砥城

麓の戸倉・上山田温泉から急勾配の舗装道を登ると城山史跡公園(荒砥城)の駐車場があります。

ホントにかなりの急勾配で久々にATをスポーツモードに入れました。シャコタン車や雪が降るとちょっと無理でしょうね。

駐車場は無料ですが入園は¥300です。荒砥城は大河ドラマ「風林火山」と「江〜姫たちの戦国〜」のロケ地になりました。

2019年04月28日 若狭守きこりん
證城[荒砥城  周辺城郭]



冠着山(姨捨山)へと続く尾根の、893mピーク一帯が、荒砥城跡群最高所の證城(しょうじょう)です。

かなり多くの石積が見られ、公園化以前の観光開発で破壊された荒砥城の姿をちょっと偲べるような気がします。

また、虚空蔵山城(村上連珠砦)や葛尾城、三水城や出浦城など千曲川両岸の数多の山城を眺められる眺望は最高で、信濃の歴史や山城に関心のある人には絶対のオススメです!

ただ登るのは決して楽ではなく、若宮入山城の先で明瞭な道が無くなる尾根を辿りながら、ピークを目指しての直登となります。地形図を表示できるGPSアプリがあった方がいいと思います。

なお、尾根をさらに登った標高1252mの冠着山も山城です(笑)

2019年04月28日 若狭守きこりん
若宮入山城[荒砥城  周辺城郭]



荒砥小城と最高所の證城の間には若宮入山城があります。個人的には自然地形以上のものを見出だせないのですが、竪堀っぽいものや、虎口に見立てられそうな自然石など、雰囲気はあります。
荒砥小城からそのまま尾根を登ってくれば来れます。

2019年04月28日 若狭守きこりん
荒砥小城[荒砥城  周辺城郭]



城山史跡公園として整備されている荒砥城の背後の尾根筋に3つの支城があり、ひっくるめて荒砥城跡群として市の史跡になっています。
一番下にあるのが荒砥小城で、城山史跡公園ができる以前の観光開発の痕跡が残っていて少し不気味ですが、土塁を伴う郭が見られます。荒砥城の券売所の手前を左に入っていく道から行けます。

2017年09月16日 不発の核弾頭信濃守
荒砥城

荒砥城は平成2年から5年の歳月をかけて復元されました
かつて荒砥城のある場所は遊園地などがあり、その遺構は破壊されていました

そこで史料を集め愛知県豊田市足助城に視察に赴き、工法や材料にこだわって作られました
同じ地域の更埴地方(更級郡と埴科郡)の山城の要素も取り込んでいます

なので荒砥城がこういう姿だったというより、戦国時代の山城のスタンダードな姿を再現したものです

だからこそ戦国の息吹が感じられます
荒砥城は千曲市上山田の第一級の史跡と言えます

2016年11月26日 まるき〜出雲守
荒砥城

現在の荒砥城の石垣が変わった形をしていたので料金所のおじさんに聞いてみたら、ふるさと創生一億円事業によりこの城が再現されたとの事、
長野県 佐久市 望月辺りでよく採れる鉄平石が使われているのでこのような石垣になったらしいです。
なので雰囲気は出てる?なんの…?知らない人が初めて来たら誤解を招くような造りとなっていました。


いや、こんな事せずに土のまんまの方が良いのにね…


大河ドラマの撮影地でもあるようでパネルなんかも展示されています。
風林火山、お江〜姫たちの戦国〜等
駐車場無料、入城に300円
駐車場から歩いて5〜10分で右は上田、左は白馬まで見渡せる眺望の良い所まで行けます。



2016年04月30日 tossy
荒砥城

復元井楼の上から、山麓の居館跡や千曲川対岸の葛尾城などが一望できました。
十数台ほどの駐車場とトイレ完備です。

2015年07月11日 SSRB主税頭
荒砥城

俺も行きました。山本勘助の大河のロケ地です。中々の急勾配の上ですが、成る程、村上義清の息吹も感じながらの上田平を遠くに望み…お勧めですよ^ ^

2015年07月10日 摩虎羅**
荒砥城

物見櫓は現在工事中
頑張って登っても少々ガッカリしますので
心して下さい。
工期期間は9月1日までとなっています。
しかし受付のお姉さんは
お盆前には終了する予定と言っていました。

入園料300円


2014年11月16日 石畳治部少輔三成
荒砥城

現在、修復中のため櫓には登れません。
また、映像を見る装置も調子が悪く、映像が流れませんでした。

2011年06月05日 琉千秋
荒砥城

かなりの勾配&入口に段差があるのであまりの車高短車はキツいかも

2010年06月08日 傾奇揚げ仙兵衛
荒砥城

NHKの大河ドラマのロケ地

荒砥城の周辺スポット情報

 二の郭門(遺構・復元物)

 (遺構・復元物)

 兵舎(遺構・復元物)

 本郭門(遺構・復元物)

 兵舎(遺構・復元物)

 (遺構・復元物)

 三の郭(遺構・復元物)

 四の郭(遺構・復元物)

 荒砥小城(周辺城郭)

 若宮入山城(周辺城郭)

 證城(周辺城郭)

 堂城山砦(周辺城郭)

 中院林城(周辺城郭)

 城腰の大下館(周辺城郭)

 屋代氏館(周辺城郭)

 山田氏館(周辺城郭)

 左京屋敷(周辺城郭)

 若宮の館(周辺城郭)

 金比羅山砦(越道山)(周辺城郭)

 冠着山砦(坊城・望城・帽城)(周辺城郭)

 福沢氏館(周辺城郭)

 村上氏島館(周辺城郭)

 出浦城(自在山烽火台)(周辺城郭)

 寄合氏館(周辺城郭)

 横山氏館(周辺城郭)

 安藤氏館(御屋敷)(周辺城郭)

 入山氏館(太郎様)(周辺城郭)

 漆原の大下館(周辺城郭)

 構屋敷(釜屋のタテ)(周辺城郭)

 丸山城(小丸山)(周辺城郭)

 入山城(新山城)(周辺城郭)

 三水城(福沢城)(周辺城郭)

 八王子山砦(周辺城郭)

 若宮八幡宮館(周辺城郭)

 明徳寺館(周辺城郭)

 羽尾本田の屋敷群B(周辺城郭)

 羽尾本田の屋敷群A(周辺城郭)

 羽尾本田の屋敷群C(周辺城郭)

 羽尾本田の屋敷群D(周辺城郭)

 羽尾本田の屋敷群E(周辺城郭)

 築地御所(周辺城郭)

 狐落城(狐落しの城・あみかけ小屋)(周辺城郭)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

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