横田城(よこたじょう)

横田城の基本情報

通称・別名

会の館、会館

所在地

長野県長野市篠ノ井会185他

旧国名

信濃国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

不明

築城年

平安時代後期

主な改修者

主な城主

木曽氏?、小笠原氏?、原氏?

廃城年

遺構

曲輪、土塁

指定文化財

市史跡

再建造物

碑、説明板

周辺の城

松代城(長野県長野市)[4.5km]
屋代城(長野県千曲市)[4.8km]
吉窪城(長野県長野市)[6.1km]
尼厳城(長野県長野市)[6.8km]
霞城(長野県長野市)[7.1km]
松田家館(長野県千曲市)[7.4km]
旭山城(長野県長野市)[9.0km]
横山城(長野県長野市)[10.5km]
荒砥城(長野県千曲市)[10.6km]
葛山城(長野県長野市)[10.9km]

横田城の解説文



横田城(よこたじょう)は、長野県長野市横田にあった日本の城。

概要 

築城時期は平安時代末と伝えられる。

養和元年(1181年)に木曾義仲の旗揚げを鎮圧するため越後から圧倒的な大軍を率いて城氏が入城したとされている。しかし寡兵の木曾側の奇策によって敗走したとされている。ここ横田河原の戦いで勢いを得たことによって木曾方は倶利伽羅峠の戦いにおける大勝の足掛かりを得ることとなった。

応永7年(1400年)信濃守護小笠原長秀が大塔合戦で根拠地とした。室町幕府の命によって信濃国の守護として乗り込んだ小笠原氏に対して国人領主の村上氏が強訴。井上氏や高梨氏、海野氏、仁科氏等大文字一揆もが抵抗した。この鎮圧のため守護方は善光寺から横田城に押出したものの圧倒的多数の敵に包囲された。このため横田城を捨てて味方の塩崎城に合流して体勢の立て直しを図ろうと夜陰秘かに移動。しかし途中で発見分断されて長秀ら150騎余は辛うじて塩崎城に逃げ延びている。しかし逃げ遅れた300騎余は途中の大塔の古城に逃げ込んだ。だが兵糧も武器の備えも不十分なまま20日を超える篭城は乗っていた馬を殺して血を啜り生肉を食う凄惨なものであったと伝えられる。しかし救援は叶わず大塔の篭城軍は撃って出て全滅した。守護方は縁戚関係にあった大井氏の仲立ちで和睦して都へ逃げ帰ることとなった。

なお12年に及び5度も繰り返されたとされる甲越両軍による川中島の戦いはこの周辺で行われた。しかし雨宮の渡しの対岸にあって、両軍が通過せぬ筈のない重要な位置にあるこの城に関して甲陽軍鑑は何の記述もない。 ただし武田信玄に切りかかった上杉謙信と見られた武将に対して槍を繰り出して主君の危急を救った、との伝説にある原大隅守虎吉がこの城に篭ったと伝えられている。近くの地蔵寺にはこの原大隅守のものと伝えられる墓がある。

現在は古殿稲荷社のあたりに土塁跡がのこる。かつては丸馬出し等の甲州流築城術の特徴を示す遺構が南側にあったと伝えられる。このことから定説とはなっているが、横田河原の合戦や大塔合戦の頃の城地は現在の横田城跡を否定するむきもあって、そこよりは2キロほど南で千曲川岸に近い自然堤防上に位置する「横田砦跡」と伝えられている現在の観音寺(大正時代に千曲川の築堤工事に伴い河川敷地域内から現在地に移転)の辺りとする説がある。

参考文献 

  • 南原公平 著『信州の城と古戦場』 しなのき書房 2009年

横田城の口コミ情報

2024年04月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
横田城



横田城は千曲川北岸(左岸)、標高約355mの平野部平場に立地した居館城の類いです。該地は第四次川中島の戦い、通称、「八幡原の戦い」で上杉勢が渡渉した雨宮の渡しの対岸に当たるが、周辺における現在の千曲川の川筋は往時と異なり北方へ約0.9km移動している。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。Googleマップが示すピンの位置はお城の説明板が立つ古殿稲荷社が鎮座する土塁の残欠上である。

築城年代、築城者は不明です。該地周辺は古来からの交通の要衝、律令制下で整備された東山道支道の道筋ははっきりしないが、麻績の宿家と犀川を渡る亘理の宿家の中間点に当たる。治承五年(西暦1181年)六月十四日には木曾義仲と城助茂が戦った「横田河原の戦い」が発生し、応永七年(西暦1400年)の「大塔合戦」の際には、善光寺を発った信濃守護、小笠原長秀が同地に陣を進めている。双方の時代に横田城が存在していたのかは不明だが、少なくともそれに比定されるような何某かの目的を持った城館が存在していた事は確実なところだと考える。又、第四次川中島の戦い、通称、「八幡原の戦い」では、武田氏家臣の原大隅守虎吉が籠ったとの伝承が残るが、戦いの状況からすると現実的だとはとても言い難い。

横田城は外堀を周囲に巡らせた環濠集落となっており、西半分を「宮内(くねうち〜郭内を表す。)」、東半分を「古町」と呼ぶ。この宮内にある「殿屋敷」と呼ばれる部分が城館の位置となり、その西北隅に前述の土塁の残欠、古殿稲荷社が鎮座する。この土塁の北側には近年まで幅6m以上の堀が残っていたんだそう。又、周辺には、「馬出し」、「土居沢」と呼ばれる場所がある。

リア攻めは街中遺構ハントて感じ…該地は舗装道路が縦横無尽に走り、用水路が複雑に巡らされ、単純に堀形を追う事が極めて困難、城域をトレースする事さえ途方も無い作業となる。一応、概略図を参考にして廻ってみたけど、道形や用水路は必ずしも堀形を踏襲している訳ではないので尚更だ。ちなみに城域外東側に建つ地蔵寺には、前述の原大隅守虎吉の物と伝わる墓塔が残る。「八幡原の戦い」で実際に詰めたのか知らんけど、一時期において在城、在番していたて事実はあるのかもしれない。

個人的には街中遺構ハントを最も苦手としている。最近では長野市市街地中心部なんかにも出没してるんだけど、おいらにとっては山中をふる◯んでリア攻めするより恥ずかしい事なんす。又、リア攻めの終了には本人の納得がどうしても必要になってくると思うんすけど、物件が物件だけにそれがなかなか出来なくて結構な時間を要したりもする。住宅地の中をカメラ片手に1時間も2時間も彷徨い続ける美少年を見掛けたら皆さんはどう感じます?人目が気になるお年頃なんすかねぇ…

…横田城の西方に位置する石川条理遺跡では古代の水田跡、溝遺構が検出されている。ちょと面白いのは洪水による土砂の堆積土層の上に中世以降の畑地跡が検出されている事、大小河川の洪水、氾濫等により水田としての土地の再利用が放棄され、より簡易な畑地としての開発が選ばれたらしい。河岸に定住する事の難しさもあるが、氾濫原故の肥沃な土地を容易に諦め切れない往時の人々の逞しさも感じる。

※横田城の南方約1.4kmに建つ浄土宗の寺院、観音寺は横田砦の旧地と推測されており、戦国時代以前の要害として利用されたのはこの横田砦であるとする説がある。ちなみに未把握だったんで今度行ってみる。

※原大隅守虎吉は決して有名な人物ではないんだけど、川中島古戦場跡に鎮座する八幡社には虎吉に纏わる色物伝承物件、「執念の石」が伝えられている。ちなみに事の真偽は当然不明なるも、武田信玄に斬り掛かる上杉政虎の乗馬を槍の柄で突いたのが虎吉なんだそう。

※本当にふる◯んで山中をリア攻めしているかについては謎なところだが、例え誰かに見付かって通報されても逃げ果せる自信だけはある。

※写真⑥は「馬出し」と呼ばれる場所っす。

※信濃⑧は隣接する可毛羽神社、横田城の裏鬼門に当たる。

2024年04月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
木曽義仲墓所[横田城  寺社・史跡]



⭐︎⭐︎「義仲・巴の〜伝承、伝説地探訪!」⭐︎⭐︎

帰って来たかずりの自己満足口コミシリーズ、おいらの推し武将である木曽義仲関連の伝承、伝説地を丁寧に御紹介〜ちなみに全国約600箇所に及ぶので終わるまで付き合ってもらいやす…

木曽義仲墓所はアプリの登録城、横田城の城域内に建立された墓所、先週に訪ねたんすけど、義仲様関連物件だけでも100件を優に超えるネタを抱え込みながら急いで口コミする理由は…時が経ったら記憶に残っていないだろうと踏んだから。忘れない内に作成しとこう…

義仲様の墓所といえば、滋賀県大津市馬場の義仲寺と長野県木曽郡木曽町日義の徳音寺が有名だけど、長野県長野市篠ノ井会にもあるのれすっ!え、何故かって?…

…出直して来いやーっ!ヾ(。`Д´。)ノ

…出直されても困るので一応説明しとく。該地周辺は無位無官の義仲様が中央にまでその名を一気に轟かせる事になる、治承五年(西暦1181年)六月に行われた「横田河原の戦い」の舞台、義仲様は越後桓武平氏、城助茂の追討を受けて同地で激突、数に劣る義仲様だったけど、天才的な奇襲に打って出て助茂をぼこぼこに…そう、義仲様は強え〜んすわ。頼朝だったら態勢を立て直そうかな…とか尻込みして鎌倉に馬を返すと思うんだけど、義仲様は脳筋なんで躊躇せず殴り込み。やっぱし中二病的キーワードが付き纏う武士はかっちょよいっす。「寡兵」と「奇襲」には永遠の浪漫が詰まっちょる。

但し、戦いの舞台だっただけでは墓所が存在する理由にはならない。実は墓所を建立したのは木曽義仲の子孫を称する久保田さんで、先祖の霊を弔うために自宅敷地の一角に墓塔を建てたらしい。当然、埋物は何も無い訳だから正式には供養塔である。写真を見れば判るように墓塔自体は昭和に入ってからの物と思われ、説明板の年月日も昭和四十五年正月二十日となっている。なんで義仲様の子孫が此処にお住まいなのかは知らんけど…

墓所があるのは知っていたけれど、探し出すのには苦労した。墓塔に対する大体のイメージてものは誰でも持っていると思うんだけど、この墓塔はおいらの想像とは見事にかけ離れていた。2回眼前を通り過ぎて、もしかしてこりかな?て思ったらやっぱしこりだった…てな感じ。墓塔は控え目な方が味があるなぁ…

※「横田河原の戦い」が行われた年月には諸説ある。口コミは「玉葉」に準じた。

※義仲様の墓塔は黒光りするなんちゃら石で見事なまでに悪魔チックだった…普通の地味な宝篋印塔であって欲しかったぜ…

※正直、史跡にもならないと思う。

※最近のおいらが萌えるキーワードは「出家」と「帰農」っす。

※この薄過ぎる物件の口コミに添削含めて1時間40分、阿保なんでしょか。

2024年04月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
大塔城(大塔の古要害)[横田城  周辺城郭]



大塔城(大塔の古要害)は横田城の南西約1.5km、岡田川東岸(左岸)、千曲川北岸(左岸)、標高約355mの平野部平場に立地したと推測される要害です。岡田川はかつて御幣川と呼ばれ、現在は長野県道383号、犀口下居返線とぶつかる場所で急にその向きを南へと変えて千曲川に流れ込むが、この川筋の変化は近世の灌漑事業に伴うものである。これ等に代表される灌漑事業、もしくは治水事業等により、岡田川、千曲川の流れ自体が大塔城の在りし頃と現在では大きく異なっている。往時の川筋は知るべくもないが、何れにせよ該地周辺は古来より大小河川が集中する場所であり、氾濫を繰り返した両河川と聖川等により往時が低湿地帯であった事は現地に赴けば容易に想像が付く。

行き方はGoogleマップに「大塔の古要害跡」の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、大塔城は応永七年(西暦1400年)の「大塔合戦」を書いた「大塔物語」に登場する文献上の要害であり、その正確な位置は不明である。更に言えばこれに比定される要害も別に2箇所が存在し、そもそも論で存在自体を疑問視する向きもある。よって該地は推測地にしか過ぎず、Googleマップが示すピンの位置はお城の説明板が立つ大当公民館となっている。

築城年代、築城者は不明です。てか説明する事が出来ねぃ…

…おいらの口コミには「大塔合戦」がよく登場するんだけど、よい機会なんで改めて簡略的に説明しようと思う。信濃の中世を語る上では避けては通れない戦い。前述の「大塔物語」は史料批判が進まない(たぶん比べ得る物が存在しない。)二次史料ではあるが、他に史料等無く貴重である。

…鎌倉時代に信濃守護職を独占したのは北条氏であり、建武二年(西暦1335年)七月の「中先代の乱」では御内人であった多くの信濃の国人が北条時行の挙兵に応じ国内は騒乱した。更に南北朝時代には南朝方と北朝方に二分し、続く「観応の擾乱」では尊氏方と直義方に二分、乱後も中央の威令が及ばない土壌が形成され、公然と守護権力に抗する等、幕府は事態の収拾に困難を極めている。

南北朝合一後の応永六年(西暦1399年)、信濃守護に小笠原長秀が補任される。応永七年(西暦1400年)三月十六日、小笠原信濃守宛、足利義持御教書には、「海蔵寺雑掌申、信濃國太田庄領家職事、訴状、具書如比、早退押領人、可被全雑掌所務之由、所被仰下也、仍執達如件、」とあり、長秀は太田庄の領家である海蔵寺から幕府へ訴えのあった同庄の押領を速やかに退けるよう求められている。守護権力を基に各種事態の正常化を図ろうと画策する幕府の期待も当然大きかった筈だ。

七月三日、京を出立した長秀は煌びやかに一族郎党二百余騎を従えて善光寺に入り信濃の国人領主等に対面するが極めて高圧的だったとされる。戦いに至った直接の要因は、川中島において国人領主等が押領する土地での租税の徴収を強引に推し進めた事にある。

長秀は横田河原に八百余騎を集めるが、大文字一揆衆を加えた反守護方勢は四千余騎に膨れ上がり数の上でこれを圧倒する。防ぎ切れないと判断した守護方勢は逃れるが、退き際を追い討ちされて坂西次郎長国以下の三百余騎は「大塔の古砦」に逃げ込み籠城する。籠城の備えの無い戦いは馬を殺して糧食に充てる等、凄惨を極めたらしく、二十日余りの戦いでその殆どが討死もしくは自害した。又、松田家館のリア攻めマップにある塩崎城に逃れた長秀も反守護方勢に攻囲されるが、同族の信濃守護代、大井光矩の仲介で和議に及び辛くも京に逃れた。後の応永八年(西暦1401年)には信濃守護職を解かれている。長秀は失敗した訳だ。

…長くなったけど「大塔合戦」の一連の流れを説明してみた。最後の方にちょろて登場する「大塔の古砦」がこの口コミの大塔城を示しており、同城が存在したていう不確実な根拠となっている。明確な城郭遺構が確認出来ない以上、該地が推測地であり続ける理由もこれにある。近年まで堀形と土塁様の地形が残っていたとされるが、信濃のお城の神が示す城域も聞き込みと現況から判断した推測地に過ぎない。但し、周辺を途方も無く彷徨ってみた結果、あながち根拠の無い推測でもないように思える。

「大塔の古砦」における凄惨な戦いは攻囲側の一部にも衝撃を与えたようで、大文字一揆衆を構成した香坂氏当主、香坂左馬亮入道宗継は厭世と無常の念を抱き、後に窪寺観音堂に三七日籠をもって出家した。今で言う、心的外傷、PTSDて感じでしょか。

※「大塔の古要害」とあるように既に当時も廃城である。

※長野県立博物館には大文字一揆衆が用いたとされる旗が収蔵されている。「大」の一文字のみをデザインした旗は単純にかっちょよいっす。

2022年07月22日 壱岐守kangcheng
今井四郎兼平の墓[横田城  碑・説明板]

横田河原の合戦時、今井四郎兼平が陣取った場所と伝わる場所。
粟津の浜に散った兼平を弔うため家臣が建てた五輪塔が残る。
以前は農免道路沿いに看板があったが既に撤去されているので、隣接する今井神社を目印にするのが良いでしょう。

2022年07月19日 Yana中務大輔
横田城



北側の道路側からは城跡とわかり辛く、この季節のせいか草が生い茂っていてちょっと残念。

2022年01月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
布施氏布施高田館(布施城)[横田城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

布施氏布施高田館(布施城)は横田城の北西約0.6km、標高約356mの平野部平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。居館の敷地内には駐車場がありますが月極なので注意です。居館の存した場所は「内堀」、「佃(荘園制度において領主が直接経営する田を言う。)」の地名が残っています。

築城年代、築城者は不明ですが、伝承から布施氏の名が伝わります。この布施氏の出自が曲者でして、系図には「鳥羽院北面下総左衛門大夫正弘、有旅に居住し、岡田茶臼山に城を築き、その子左衛門大夫家弘、布施三郎惟俊共に居住する」、「佐久郡望月郷の望月三郎重俊の七代の孫の左衛門尉重盛の二男次郎助重布施郷に居住し、布施をもって氏とし、その孫布施八郎頼重岡田に城を築く」とかあるんですが、これにプラスして他説も二つあり、複雑過ぎて阿保には理解不能、布施の地名も佐久郡、更科郡に残っているので結局のところどうなんだみたいな感じです。

居館の現況は市街地、縄張図を見ると概ねで堀に囲われた方形居館だったようです。実はJR篠ノ井駅から東北に約0.3kmの駅近物件でして遺構が残っている方が奇跡でしょう。堀跡は部分で水路に変わっていますが、堀幅が全く狭まっている(確かに水路ではあるけど謂わゆる側溝っす。)し、暗渠になっている場所の方が多いので追う気になれません。居館なんで守る気も大して無かったとは思うんですが、周辺は千曲川に注ぐ御幣川、聖川の合流点に近く、往時は洪水の多発する低湿地帯だったそうです。又、居館の成立は鎌倉時代以前に遡ると思われるのですが、木曽義仲と城長茂による横田河原の戦い、信濃守護小笠原長秀と大文字一揆勢による大塔合戦、そして川中島の戦いではその存在時期も含めてどのように機能していたんでしょかね。

びっくりする事に居館の中心部付近に簡易な縄張図の付いた説明板が建っています。目標が不明確な事で悩んだりする事が多いこの手の居館跡ですが、これはとても優しい配慮だと考えます。行政側のこうした試みはただの市街地に重みを与えると同時にその地に連綿と脈づく歴史を証明してくれる物だと思います。マニア向け。

2020年05月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
湯ノ入神社城[横田城  周辺城郭]



湯ノ入神社城は横田城の西南約2.9km、標高約410mの台地状緩斜面上平場に主郭が存します。南麓からの比高は25m位でしょか。名前のとおり現在は湯ノ入神社が鎮座していますが、少なくとも室町時代には村上氏の庶流、夏目氏の要害がありました。お城の跡地系の神社っすね。

応永七年(西暦1400年)、赴任して来た信濃守護小笠原長秀の横暴にぶち切れまくった信濃の国人衆は、大文字一揆衆に呼応して守護方をこの近辺でフルボッコしていますが、大塔物語にある守護方が逃げ込んだとされる大塔古城の一つにお城は比定されていました。しかし発掘調査の結果、この頃には既に廃城されていたそうです。ちなみに真田氏の文書上の初見はこの大塔物語であり、大塔古城大手門攻めの禰津遠光配下に「実田」として記録されているのがそうなんじゃないかなとする説があるそうです。

三方ヶ原の合戦で徳川家康を無理矢理逃し、25騎を率いて奮戦、身代わりとなって討死した夏目吉信はこの夏目氏の出身です。吉信の直系は無跡断絶しましたが、二人の男子の家系は旗本として存続しました。旧制中学の生徒が数学教師の眠る蚊帳の中にイナゴを投げ入れる小説、坊っちゃんで有名な、自分でも知ってる夏目漱石はこの旗本の子孫ということになりますね。

お城はただの神社かと思っていたら、意外にもお城っぽくて楽しめました。主殿のある削平地には小郭だったと考えられる大きな盛土があり、これには改変でなければ土塁のような高まりも確認出来ます。周辺には堀を想起させる窪みもいくつかあったりなんかして、思わぬ探索魂に突然火を付けることになるかもしれません。が、自分が訪城した時は雨が降って来たので一気に鎮火しました。

色んなお城にもそれぞれの歴史あり…物語があることで興味は数倍にもなりますね!たぶん誰も行かないとは思いますが、行き方はGoogleマップに位置登録されている湯入神社を目標に設定して下さい。ちなみに二柳神社と入力するともう一つ似たようなお城に辿り着きます。

2012年02月23日 赤いRVR甲斐守@松本
横田城

篠ノ井市の住宅地にある。駅から東へ600メートルほど、駐車場はない。小さな塚状の盛り土があるので、土塁痕跡か。

横田城の周辺スポット情報

 今井四郎兼平の墓(碑・説明板)

 湯ノ入神社城(周辺城郭)

 布施氏布施高田館(布施城)(周辺城郭)

 篠の城(岳の城・御座平)(周辺城郭)

 茶臼山陣場(周辺城郭)

 二ッ柳神社城(二ッ柳城)(周辺城郭)

 大塔城(大塔の古要害)(周辺城郭)

 小森氏館(周辺城郭)

 杵渕館(殿屋敷)(周辺城郭)

 荒堀内記屋敷(周辺城郭)

 水沢氏屋敷(周辺城郭)

 戸部城(蔵屋敷)(周辺城郭)

 鍛冶屋敷(周辺城郭)

 広田城(広田の砦)(周辺城郭)

 真島氏館(周辺城郭)

 大堀之館(町田氏屋敷)(周辺城郭)

 町田氏屋敷(周辺城郭)

 横田砦(周辺城郭)

 木曽義仲墓所(寺社・史跡)

 原大隅守の墓(寺社・史跡)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore