島津氏が薩摩を治め続けられた要因とは?(2014/12/15)
仙巌園〔島津氏別邸跡・庭園〕
鎌倉時代から明治まで同一国を治め続けた稀有な存在である薩摩島津氏。様々な要因が考えられるが、その一番の理由として挙げられるのは?
[投票実施期間]2014年12月15日~2014年12月27日
1.周囲に強国が少なく、領地を脅かされることがなかったため。 |
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2.南端という地勢上、中央政府の介入を受けにくかったため。 |
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3.琉球や諸外国との交易もあり、物資が豊富であったため。 |
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4.本家・分家から有能な当主を輩出し続けることができたため。 |
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5.薩摩隼人と称されるように勇猛な気質の土地柄であったため。 |
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6.その他 |
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「ニッポン城めぐり」利用者のコメント
伊豆守やっし(4を選択)
人の力だと思うな。
黒猫くん上総介(2を選択)
地勢最重要。日本がそんなに侵攻受けてないのも地勢のおかげ
iCastle周防守SE2(1を選択)
「2」とも被りますが、背後を突かれる恐れが無いというのは大きな利点でしょう。特に信◯の野望をプレイするとよ〜くわかります(笑。
かわうそ(2を選択)
その時代時代によって要因が異なる気もするが、結果的には、琉球外交ができたのも、勇猛な気質なのも南端ゆえな気がする。
天方民部少輔某(4を選択)
結局はこれ。中央から遠いのは決して理だけでは無いし、他国貿易等もその必要があったからでそれを推進した当主の優秀さが全てだと思う。
征夷大将軍ひとりもん(6を選択)
桜島
玄蕃頭晴信(3を選択)
琉球
語りイタチ(4を選択)
これで、おうとると。
龍胆振守上海(2を選択)
薩摩飛脚って言葉もあるくらいですからね。
はやゆうけん上野介(6を選択)
運が良かっただけ。
ノコノコパパ刑部卿(2を選択)
この国は島津が治めるのが無難という判断を中央政府がしてきたからでしょう。
津軽宮内大輔藤原信建朝臣(4を選択)
地理的な要因は大きいと思うので迷いましたが、やはり、当主が有能でなければ長く統治することはできないと思います。
宮内卿あさよし(5を選択)
薩摩の政治・統治が素晴らしかったみたいです。結束力が高く、他国(他藩)の人は入れなかったそうです。何より言葉が通じなかったと思います。
築木原弾正少弼(2を選択)
明治まで続いたのは島津氏と陸奥の南部氏だけらしいので、共通点は都から遠いことかと。
かな(4を選択)
やはり、当主の家の人が外れなしなのがスゴいです。昔から同じ所領を守って幕末まで至ったのは薩摩と相馬くらいだと聞きました。
左近衛大将忠三郎(4を選択)
島津に暗君なし!
飛騨守P助(6を選択)
伊達、上杉、毛利など旧族大名は明治維新まで残った。織豊政権や徳川政権も
これらの名族は半独立した勢力と認めていたし潰すとなると他大名の同意がいるのかな?
徳川だけではなかなか攻められないでしょう
鎌倉木工頭鬼武丸(2を選択)
地の利は多分に考えられる。
愚右兵衛督某(2を選択)
当時の交通手段の基準もさることながら、鎌倉から続いていたし今更、別の家を送りこむのは難しかったのでは?
井伊兵部少輔直政(2を選択)
戦国時代に歴史が激しく動いた相模〜安芸の地域に比べ、やはり日本の端って感じであまり相手にされなかったからでは…。(笑)
明石右大臣則実(2を選択)
関が原後の生き残り策を見てもそうだし、幕末における薩摩藩の処し方もそう。易々と中央からの討伐を受けにくい土地だったからこそ。
きょんた右近衛少将(6を選択)
四兄弟の結束!
ふばこ左馬頭(4を選択)
一族の中でミニチュア易姓革命が行われ、新陳代謝が行われたことがかくも長き政権の理由として大きいように思います。かつての自民党もそうでしたし。無論、地理的な要因も無視できませんが。
三河守ろく(2を選択)
1〜3かな
トイスじょう(6を選択)
2〜5の複合
一夢庵雅楽頭源内(2を選択)
鳥無き島の蝙蝠 長曽我部ではなく島津
誠之亮中務少輔(5を選択)
日本男子のルーツ!薩摩隼人ってある意味ブランド??
太政大臣dougen(4を選択)
やっぱり、有能な人物が多かったからに尽きるのでは。
ドリフター右衛門督(4を選択)
島津に暗君なし!
運も相当に良いはずですが、随所で現れる名君が家臣団をまとめ上げたのでしょう。
せしえもん中務大輔(2を選択)
中央政府の介入だけでなく、近隣に対する攻守においても地勢的優位があったことから文化形成や人材育成にも繋がり、総合的な地盤を高くキープできたと考えられる。
木工允ぼくぜん(2を選択)
当然、優秀な人材、貿易による経済力、気質はありますが、やはり地理的、地勢学的要素は高いと思います。その分当時天下を穫るのは難しいかと。
前中務少輔スマイルザムライ(6を選択)
1、2、3、4の複合だと思います。あとは、南北朝動乱でうまく立ち回れたことかな。
【麒麟】大宰帥しらいとはま(2を選択)
辺境の田舎の土地故に
他国からの侵入さえ
受けなかった
近江守Silvine(2を選択)
関ケ原の敗戦後も改易を免れたのは、中央から遠かったのが理由だと思います。
筑前守ぱるさあ(4を選択)
地勢は大きなポイントではあるけど、日新斎から始まる教え、そこに尽きるのでは。
雲黒斎(6を選択)
単に地勢。例えば蝦夷も。蝦夷と比べ海流の恩恵によって外国文化の伝来があり、資源も豊富だった。①地勢があるからこそ②文化(鉄砲含む)、③資源。その上で、④教育、⑤気質に繋がった。2.とは少し違う⁉︎
ベテラン近江守(1を選択)
「信長の野望」でも、初心者は島津!ですし
…
いちごう(2を選択)
当時の日本最南端。守るに易し、攻めるに易し。壁を背にしたデューク東郷ばりではないでしょうか?
能登守あるて(6を選択)
4番が正解なのでしょうけど、所謂『御家争い』が起こらなかったことが最大の要因ではないでしょうか?(大きな争いもありましたが、その際に乗り切ることができた自力というか…)
朧西市佑秀真(3を選択)
島津を攻め落とそうとしたものの関ヶ原で殆ど戦力を削がれなかった島津は精強で戦えば危ういと感じた家康は九州を条件に和睦を申し出た。
家康は生涯その事を悔やんでいたらしい。
アンパンマン(2を選択)
島津家だって中央に近かったら無傷ではいられなかったハズ。やはり辺境の地である事が大きかったと思う。
但馬守さすけ(5を選択)
捨て奸をする人達を他国者が使いこなすのは相当だと…
課長大和守Ver.B(6を選択)
最先端の武器にいち早く接していたからじゃないですかね。地の利も大きいでしょうが…
しもししゃも(2を選択)
大友いたし、周囲に強国がないといったら可哀想。
上の国にしか攻められる心配がないということが要因じゃないかと
各務野美濃守ケケン(2を選択)
誰が、いても一緒のこと。
安定を求めてたのでしょう。余裕が出たから、遅ればせながら、北上しただけのこと…
考えなんかないよ❗
駿河守hiro(6を選択)
貴久の代で、バラバラになっていた島津家が一つになり・・・島津四兄弟の躍進、関ヶ原の敵中突破を経て「島津に暗君なし」といわれるしたたかさをみせたため
ひで(4を選択)
地理的な要因もあるが、戦国期の義久、義弘や幕末の斉彬等、明君が多かったから、領地を保てたのだと思う
SLmaster(3を選択)
2と3の複合ですが、どちらか、といえば2。
貿易で得られる利益は莫大ですからねぇ
淡路守いな(2を選択)
遠いし、海に隔てられてるし。
【隠者】史学会帰新参(2を選択)
島津は戦国時代に本宗家の奥州家が衰退して島津勝久から分家の相州家の島津貴久に家督が移って続いています。
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