奥州仕置が遅れていたら羽後情勢はどうなった?(2015/10/20)
脇本城(秋田県男鹿市)空撮(提供:男鹿市教育委員会)
天正15年(1587)の安東(秋田)愛季の死によって羽後は再び混迷の様相を呈していた。もし豊臣氏による奥州仕置が遅れていたら、羽後の情勢はどうなっていたか?
[投票実施期間]2015年10月20日~2015年11月05日
1.一時安東氏に押し込まれていた戸沢盛安が拡大し、羽後を席巻した。 |
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2.愛季死後の内紛を制した子の実季が、父の代を超える版図を築いた。 |
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3.最上義光が北方へ目を転じ、出羽一円を掌握する大大名へ成長した。 |
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4.津軽地方を制した大浦為信が南進策を採り、次第に羽後を侵食した。 |
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5.宗家の勢力拡大を狙う南部信直が介入し、北出羽は南部領となった。 |
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6.由利十二頭のように、各地で小規模な国人が割拠する状態となった。 |
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7.その他 |
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「ニッポン城めぐり」利用者のコメント
京極弾正大弼ぽて丸(7を選択)
基本的に②。でも南部との緊張度合いによっては北の為信が大人しくしているとは思えず④、戸沢氏も勢力を盛り返す①だがそれも奥州仕置きまでの話だが。
黒猫くん上総介(3を選択)
秀吉が来ないならこれが一番ありそうだな。出羽を最上、陸奥が伊達の2強体制。因みに羽後は明治以降に出来た呼び名で戦国時代には羽後国という国は無い。言うならば北出羽。5の選択肢では出来てるのに何故…
しんぺー(7を選択)
どの勢力も圧倒的な力を持っているわけでもなく、各地で小競り合いを続けながら、遅れた奥州仕置を待つしかないかと。
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