西原城(にしはらじょう)

西原城 投稿者:薩摩守kanipyonさん

城郭基本情報

名称(よみ) 西原城(にしはらじょう)
通称・別名 舞天城
所在地 鹿児島県鹿屋市輝北町上百引一番郷
天気情報

11/22(金) 降水確率:10%
20℃[±0]13℃[-1] 詳細

地図 マップ周辺の城NaviConYahoo!カーナビ
分類・構造 山城
築城主 図師祐貞
築城年 養和元年(1181)
主な城主 図師氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建建造物 碑、説明板
西原城(にしはらじょう)は、鹿児島県鹿屋市輝北町にあった城である。

町役場後ろの小高い丘を城山と呼んでいるが、通称「西原城」で別名「舞天城」ともいう。

概要 

築城者および時代は判明しないが、左近正助良が居をかまえた以後何代目かの領主が築城したものと考えられる。

城は雌雄に分かれ、武士達の馬乗馬場の面影がわずかに残っている。

歴史 

図師家累代20世、434年間の居城であった。図師は養和元年(1181)、百引の内の西原・堀切村を、強弓で名高い図師豊前守祐貞が拝領し、船隈村(現在の鹿屋市田崎町)から着任。その子祐澄が堀切村に居をかまえた。

その後現在の役場敷地に永明庵(後の恵日山般若寺)を建立して百引探題職左近将竪物亮の要職と百引6か村を知行した。寛正元年(1460)左近正助良のとき西原村城麓に居を移した。

図師家は元来肝付氏に仕えた。この城は北朝系(島津勢)や外敵の襲撃を監視し、万一の時は高山の肝付本城に狼煙で通報する北方監視に重要な城であった。図師家は後世に至り島津に帰服(降参)している。

西南戦争の折は西郷軍と官軍が激戦を展開し官軍が大敗を喫したところでもあり、太平洋戦争のときは敵機襲来の監視所が設けられるなど度重なる古戦場の跡である。

現在、明治百年記念公園として生まれ変わり町民の憩いの場として親しまれている。

情報提供:鹿屋市文化財センター



城郭口コミ


2024/03/06 17:41RED副将軍
高隈城:激ヤブの先にある巨大垂直堀切が特徴的な肝付氏の支城🏯⁡オススメ度 ★★★★★⁡築城年代は不詳。南北朝時代に楡井頼仲によって築かれたとも云われます。楡井頼仲は南朝方に属しており、1351年には北朝方の畠山直顕の命を受けた禰寝清成が高隈城を攻め寄せて落としたとされます。戦国時代には肝付氏の属城となっていたとされ、1538年から1542年にかけて新納氏、禰寝氏との攻防戦が行われています。1578年に肝付氏が没落すると島津氏重臣である伊集院忠棟の属城となり、その後の江戸時代には外城として高隈麓が置かれました。⁡見所湾曲した串良川に三方を囲まれた標高163mの丘陵上に築かれています。西側の主郭部と東側の...

2024/01/18 17:28徳にぃ図書頭銀座のすずめ
西原城:駐車場について霧島市と鹿屋市を結ぶ504号線輝北町内に「大隅肝付地区消防組合輝北分署」の横に「西原城跡⇒」の看板がありますので登って下さい。途中突き当りは右手に更に突き当りを左手に行けばもう頂上!斜面に遺構がありそうですが探せません。遠く見渡せる景色を見て当時に思いを馳せて下さい。写真は今は道路、昔は空堀のよくあるパターンの遺構です。

城郭攻略情報


2024/08/08 16:18
モモコ
国道220を鹿児島に向かって走行。牛根の信号付近、距離8.32キロ。
2022/05/13 15:07
泣かないで僕の天塩守四郎
東九州自動車道にて安定攻略だワン
2022/05/13 14:24
征夷大将軍クララ姫
県道71号線鹿屋市上高隈町から安定攻略
2021/12/27 12:50
"征夷大将軍"小野の妹の子
【公共交通機関情報】鹿屋鹿児島空港線のバス停高隈で攻城。高隈小学校の前で落ちました。
2018/05/01 03:46
みや☆副将軍
海沿い国道220号、鹿児島県垂水市二川、鹿児島交通の浮津湊バス停付近でgetしました。

城主争い

来月度の城主争い戦況

 1位 戊之頭日向大隅守さん 6

 2位 どうする侍従家安!さん 4

 3位 Tataさん 4

西原城の周辺スポット情報

 古石塔群(遺構・復元物)

 説明板(碑・説明板)

 高隈城(周辺城郭)

 加瀬田城(周辺城郭)

 

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