※この城郭は2025年4月6日に名称と位置が変更となりました。
与論城(よろんじょう)は、鹿児島県大島郡与論町立長にあった城。
鹿児島最南端の与論島の南側にある城集落に造られた。伝承では、琉球国山北王の三男・王舅(おうしゃん)や、尚真王の頃の人物とされる花城真三郎(はなぐすくまさぶろう)によって築かれたという。グスクの北限を成す城跡である。
規模
石垣で囲まれた範囲で23,000 ㎡もの面積があり、斜面部分や入口への通路周辺まで含めると30,000 ㎡に及ぶと考えられる。この規模は、琉球国の中心であった沖縄本島以外のグスクでは最大規模となる。
また、城の中心部分と考えられる神社を中心に石垣の区画がとりまく構造も沖縄の大規模なグスクにみられる中心性をもった構造をしている。
歴史
発掘調査の結果、14世紀前半頃から築城が始まり、14世紀後半から15世紀中頃にかけて崖下の整備や出土品の種類・量ともに豊富になり、最盛期を迎えている。しかし、15世紀後半以降は利用が低調となる。
この遺跡の動向は、沖縄本島におけるグスクや王舅の後ろ盾となる沖縄北部に勢力を持った琉球国山北(いわゆる北山)の隆盛と滅亡の時期ともおおよそ一致する。また、この時期は琉球・日本・朝鮮・明といった東アジアの様々な勢力が、東シナ海を通じて競いあった時代にあたり、与論島を含めた奄美群島も勢力を北に伸ばす琉球と南に勢力を伸ばす日本(島津氏)の境目の地域でもあった。
与論城跡は当時の与論島をとりまいていた東アジアの歴史的な動向を示す城跡と考えられる。
特徴
与論城跡は断層崖の急峻な地形の特徴や、産出する石灰岩を用いて石垣を作るなど地形を十二分に活かしている。また、城内に平坦面を作るため岩の高まりや谷に盛土を行って平場をつくるなど、大規模な土木工事が行われていることがわかってきた。この土木技術は沖縄のグスクにもみられる技法で、沖縄からの技術導入があったと考えられる。
ただ、この工事による環境変化によって姿を消したカタツムリもいたこともわかってきており、城跡の発掘調査によって、城造りの方法や城造りに伴う環境変化もわかってきた。
石垣
琉球石灰岩の崖や岩盤、転石を防壁として利用しつつ、そこから産出する石灰岩を粗加工して積み上げて石垣を作っていた(野面積み)。
積み上げる際は外面の面が揃うようにして、内側に裏込めを入れる技法が用いられており、石垣は建物を建てるための平坦面を作る際の土留めの役割もあったと考えられる。
発掘調査
城跡としての考古学的な特徴を把握するため、令和2年(2020)から令和4年(2022)にかけて実施した発掘調査では、城を造る際の盛土工事の様子や石垣の構造、建物の柱跡が確認された。
出土した焼き物の年代や柱跡を埋めた土の科学分析から、約700年前(14世紀前半)から築城が始まり、約600~650年前(14世紀後半~15世紀中頃)に主に利用されていたことがわかった。
城跡は未完成だったという伝承もあるが、発掘調査では城跡が使われていた様子がみえた(完成していたかはわからない)。
情報提供:与論町教育委員会