佐敷城跡は、織豊期から近世初頭にかけて、肥後国の大名加藤清正が肥薩国境防備のために築いた城跡である。
概要
城跡は九州山地から延びる丘陵末端部の通称
城山と呼ぶ標高84.5mの丘陵上および麓一帯に立地し、東から流れてきた佐敷川が
城山北側に沿って屈曲して佐敷湾に注ぐ。
城山は後代の干拓のため今は内陸に所在するが、当時は佐敷湾に突き出た半島状の丘陵であったらしい。佐敷川を挟む
城山の向かい側の丘陵には中世相良氏時代の佐敷城があったと考えられている。
歴史
佐敷城跡は、豊臣秀吉の九州平定に伴い天正16年(1588)に芦北を含む肥後半国19万石の領主となった加藤清正が、島津氏に備えるべく薩摩国境に近いこの地に「境目の城」として築城したものである。
文禄元年(1592)の梅北一揆において、朝鮮出兵のため肥前名護屋に向かう島津家家臣梅北国兼により佐敷城が一時占拠された際の資料には、「本丸」「追手之門」「座敷一間」等、築城当時の佐敷城の様子をうかがえる記述が見える。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦に際しても西軍島津氏の攻撃を受けた。
戦後、清正は肥後一国51万石の領主となり、佐敷城は肥後国内の有力支城として整備されたが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城された。
加藤氏改易後の寛永15年(1638)、幕府は天草・島原の乱の後処理として、九州の各大名に古城の調査と破却を命じた。その際の細川忠利書状によれば、前領主加藤氏の破城が不十分であるため、改めて佐敷城の石垣を取り除いたとある。
遺構
芦北町教育委員会は、昭和53年に公園整備に伴い佐敷城跡の発掘調査を、平成5~13年度に史跡整備に伴う発掘調査を行った。城の縄張りは、本丸を中心に、その南に階段状に二の丸及び三の丸郭を構え、三方の尾根に出丸郭を設け、枡形虎口を備えた城門を三つ連続させ、城下町と薩摩街道が走る
城山東側を大手としていた。本丸、二の丸、三の丸は総石垣造であり、大手側には高石垣を築造する。
石垣は三期に区分され、築城時のⅠ期石垣は石灰岩やチャートを用い、矢穴痕はなく大きさも不揃いである。Ⅱ期の石垣は上記のほかに安山岩の粗割石を用い、一部には控えが20㎝前後の薄い石を用いた鏡積みが見られる。Ⅲ期石垣は安山岩割石を用い、ほぼ均一の大きさで、目地の通った布目積みを施し、隅角部は完成された算木積みである。本丸南側や二の丸南側等ではⅠ・Ⅱ期石垣を埋めその外側にⅢ期石垣を築造し、曲輪や通路を拡張していた。Ⅱ期石垣は文禄・慶長の役ころ、Ⅲ期石垣は慶長12年ころと推定される。二の丸では素掘板壁構造と思われる地下倉庫跡も見つかった。
遺物として、「天下泰平国土安穏」銘や桐紋入の鬼瓦、「慶長十二年」銘軒平瓦をはじめ多量の瓦が出土した。また、滴水瓦や布目、たたき痕をもつ朝鮮半島系瓦がⅡ期石垣に沿って出土し、これらの中には「壬午」文様の瓦があり、文禄・慶長の役時に持ち帰った瓦と推定されるほか、朝鮮人瓦工との関係も推定される日本的な文様を持つ瓦も出土した。
城破りの実態として、石垣隅角部等での破壊が見られ、通路や城門部分では崩した石垣の石材と栗石によって埋められ、石段の踏み石が途中で外される等の状況が確認できた。追手門では「天下泰平」銘鬼瓦が瓦溜最下層から丁寧に据えられた状態で出土したが、その手前の石段踏み石が一個外されており、廃城時の儀礼も想定される。二の丸東門下石垣の通路を埋めた栗石層から寛永13年以降に鋳造された寛永通宝(古寛永)が出土し、寛永時の細川氏による本格的な破城が推測されよう。
佐敷城跡は、肥後の大名となった加藤清正が、南の島津氏に備えるべく薩摩・肥後国境防備のために築城したものであり、島津・加藤両氏の戦いの場となった。城郭遺構も良好に残存し、銘文入鬼瓦をはじめ注目される遺物が出土し、城破りの状況も注目される。近世初頭ころの政治・軍事を理解するうえで貴重な遺跡である。
参考文献
・『月刊文化財 平成20年2月号』
情報提供:芦北町教育委員会