松山城(まつやまじょう)は、現在の山形県酒田市松山地区にあたる出羽国遊佐郡(のち羽後国飽海郡)松山にあった日本の城。江戸時代には、庄内藩の支藩松山藩の藩庁が置かれた。出羽松山城とも称した。明治以降は松嶺城(まつみねじょう)とも呼ばれるようになった。
概要
初代藩主酒井忠恒に、兄の庄内藩2代藩主酒井忠当より父忠勝の遺領の内、遊佐郡(後の飽海郡)中山村を含む2万石が分与され、寛文元年(1662年)、中山村に、壕をめぐらせた4,567坪の屋敷が建てられた。これを中山御屋形、中山御屋敷あるいは中山陣屋といい、藩主入部後、村名改称で地域が松山と呼ばれるようになると、松山御屋敷あるいは松山陣屋とも呼ばれるようになる。
安永8年(1779年)12月15日に、松山藩第3代藩主酒井忠休は、数十年にわたり幕府若年寄を勤めた功を認められ、5,000石の加増とともに築城を許されたので、庄内藩の軍師長坂十太夫の設計を元に、天明元年(1781年)より松山城築城工事を始め、天明2年(1782年)9月26日には大手門が完成し、天明6年(1786年)6月には、会所が完成して諸役人が初出仕するが、藩主忠休が翌天明7年(1786年)4月に死去し、新藩主忠崇のための仮御殿として旧館を門内の本丸建設予定地に移した後、天守あるいは本御殿は造設されず、当初計画のうち大手門と本丸・三の丸の囲いはほぼ完成し、天守(本御殿)と二の丸のほとんどは未完成のまま終わったと考えられる。
その後、寛政2年(1789年)に大手門が落雷で焼失するが、本間四郎三郎の出資により、寛政4年(1791年)6月30日に屋上の銅製の鯱と共に大手門は再建された。
戊辰戦争では、松山藩は宗家の鶴岡藩と行動を共にして奥羽越列藩同盟に加わり、庄内軍の一部隊として官軍側諸藩へ攻め入ったが、最終的に押し返され、慶応4年(1868年)9月27日に降伏して松山城を引き渡した。廃藩後、敷地は民間に払い下げられ、大手門を除き多くの建物は取り壊された。
明治12年(1979年)、大手門近くの松山城跡地に旧藩校「里仁館」の後継で、旧藩主の酒井忠匡が校長を務める「私立開進変則中学校」の校舎が旧藩邸長屋から移転した。その後、同校舎敷地は「正心学校」、「酒田第一高等学校分校」、「松嶺高等学校」、「松山里仁館高等学校」に引き継がれた。
大手門は、1970年2月4日に「庄内松山城大手門」として山形県指定文化財建造物に登録されている。また、1982年5月に松山城跡を整備して松山歴史公園が開園している。
構造
本丸を中心に、東部から南北を囲むようにして二の丸が位置しており、それらの郭の西部から南北を囲むように三の丸があったが、三の丸の大手側と二の丸の一部と本丸の一部のみしか完成しなかった。
天守や櫓は築城当初から築かれなかったが、当初の計画では本丸に二重櫓(3間×4間平面)を置く予定であった。本丸には中山陣屋から移築した御殿があり、本丸の隅には物見櫓のほか、現在残っている大手門があった。
遺構
現在、城跡の中心は松山歴史公園として整備され、大手門のほか、土塁および堀の一部が残っている。付近の松山文化伝承館では藩政時代の歴史と文化を展示。
大手門は一度落雷で焼失し、現在のものは酒田の豪商本間重利が寛政4年(1792年)に寄進して再建されたものである。梁間3間、桁行5間平面の櫓門で、棟上には1.14メートルの鯱が上げられている。松山城大手門は、山形県内で唯一の現存する城郭建築である。山形県指定有形文化財に指定されている。
参考文献
- 【書籍】「松山町史」
- 【書籍】「松山町史」
- 【書籍】「飽海郡誌」