新田目城跡は、酒田市の北東約7キロメートル、羽越本線本楯駅から東へ500メートルに位置し、大物忌神社及び酒田市北部農民センター敷地となっている。敷地は、一辺130メートル前後の不整方形を呈しており、主郭に相当するものと思われる。また、その縁辺には、土塁や水堀の一部が遺存していたため、古くから注目されてきた。
安倍親任が慶応2年に記した『筆濃飫理』巻9から13の「庄内廃城考」の中でも取り上げられ、「古来留守ノ館と称ス」と記している。さらに、文部省が昭和13年に発行した『史蹟精査報告』第3の中で、
城輪柵白鍵に多大な功績があった上田三平先生は「中世において、出羽国の留守所を此処に」置いた遺跡とみている。このようなことから、土塁や水堀の残存状況が良い大物忌神社境内地は、昭和32年8月16日付で山形県指定史跡となった。
新田目城跡は、明治17年に調整された一番古い字限図で見ると、主郭に相当する大物忌神社及び酒田市北部農民センター敷地のほかに、東側に隣接する3寺院(正伝寺、悦岩寺、梵照寺)の境内地もかつて堀で囲まれていたのが確認でき、土塁も一部残っていることから、副郭に相当するものと考えられる。さらに、明治28年に作図された地籍図では、従来の新田目城周辺に、東西及び南北方向の細長い字地番が連なる部分を読み取ることができ、その字地番がたどれる範囲は、東西約600メートル、南北約200メートルをはかり、東西に長い不整長方形を呈し、一部に湿地帯として残っている所も見受けられることから、おそらくこの範囲が新田目城の外郭をなしていたものとみられる。
新田目城の成立年代については諸説があるが、昭和57年及び58年の2年にわたり、酒田市北部農民センター建設にともなう発掘調査が酒田市教育委員会により行われた。調査面積は720平方メートルたらずであったが、発見された遺構は溝状遺構12条、掘込み遺構1基、埋桶遺構4基、小柱穴28基であった。年代を比定できる遺物としては、土器や陶器があり、古代まで遡ることが出来る須恵器や土師器といった土器や中世陶器として玖珠系陶器や越前陶器・信楽陶器などがある。そのほか、緑釉陶器、瀬戸・美濃系の施釉陶器や伊万里系の染付に加え、白磁や中国産の青磁や明代の染付などが出土した。特に須恵器は9世紀初期まで遡れるものがあり、さらに、1点だけではあったが8世紀半ば頃まで遡り得るものがあったことは特筆される。また、出土した土器の大半を占める赤焼土器は11世紀代に比定できる。その他、北宋銭を含む古銭や石製品、木製品、鉄製品があり、出土したこれらの遺物から明らかになった年代は、8世紀中頃から11世紀代、14世紀代、15世紀から16世紀、19世紀前後となっている。
しかし、発掘の結果は結果として受け止めなければならないが、成立年代を特定するまで至っていないのが実情であり、今後、新田目城内外の調査を進める中で解決する必要があろう。
情報提供:山形県教育委員会