名称(よみ) | 都城(みやこのじょう) |
通称・別名 | 都之城、都城城、鶴丸城 |
所在地 | 宮崎県都城市都島町 |
天気情報 |
04/02(水) 降水確率:50% |
地図 | マップ/周辺の城/NaviCon |
問い合わせ | 都城市教育委員会事務局文化財課[電話] |
分類・構造 | 連郭式山城 |
築城主 | 北郷義久 |
築城年 | 天授元年〔南朝〕/永和元年〔北朝〕(1375) |
主な城主 | 北郷氏、伊集院忠棟 |
廃城年 |
元和元年(1615) |
遺構 | 曲輪、横堀(空堀) |
再建建造物 | 説明板、櫓門、城郭風建造物(資料館) |
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都之城(みやこのじょう)は、宮崎県都城市都島町にあった日本の城(山城)。都城市指定史跡[1]。都城とも表記する。別名鶴丸城。
概要
天授元年/永和元年(1375年)、島津氏の支族である北郷氏(都城島津氏)第2代当主北郷義久が築城し、以後北郷氏の本城となった。
都島に築城されたために都之城と名付けられ、後に一帯の地名の由来となった。『庄内十二外城[2]』と呼ばれる支城群を備え、都城盆地全体を守る構えとなっていた。
築城後の天授5年/永和5年(1379年)、宗家で従兄の島津氏久が室町幕府の九州探題今川了俊と争い、北朝から南朝方についたため、了俊の5男満範が率いる南九州の国人衆の大軍(南九州国人一揆)を迎え撃つこととなるが、辛くもこれを撃退している(蓑原の合戦)。
伊集院氏が支配していた慶長4年(1599年)には庄内の乱の本拠地となった。庄内の乱後、再び北郷氏支配となるが、元和元年(1615年)、一国一城令により廃城となり、北郷氏は現在の都城市役所敷地内にあった領主館に移る。
現在の城址は城山公園として整備され、本丸跡には城郭風建築の都城歴史資料館が建てられている。また、本丸から掘割を渡った西城跡地には、神武天皇を祭る狭野神社が建立されている。なお、南側は日豊本線により分断されており、さらに南まで城域を有していたが、現在では住宅地となっている。
都之城は大淀川の突き出す台地にあり、壮大な空堀と水堀で多数の曲輪を作り出す、いわゆる南九州タイプの典型例である 。また、城の北西に「取添」と呼ばれる外郭があるが、伊集院氏が取添をつくった時期は文禄4年(1596年)から慶長5年(1600年)に限定され、その早い時期に島津氏との抗争がありうるとの判断で、城郭本体部の外で最も危険な場所に最前線の曲輪をつくったと考えられる。
参考文献
- 【書籍】「都城」
- 【書籍】「梶山城と庄内合戦」
2024/04/15 17:32 気分爽快根室守
都城:前々から切妻破風だらけの不思議な資料館が気になっていた都城に登城してきました。メインとなる本丸と西城の紹介が多いのですが、せっかくなので中尾之城と池之上城にも行ってきました。ただ、立入禁止と竹藪だらけのため、ほぼ通過するだけに終わりましたので、大手門と資料館を見学しておくのが無難ですね。①平成6年の9500万円は、今だとおいくら?②西城と本丸との間の空堀③門趾と空堀にかかる橋④茶室 静山亭⑤物見櫓らしき建物跡⑥幾何学模様のような資料館⑦中尾之城西の空堀⑧池之上城の内部
2024/03/03 17:18 ʀᴇᴅ副将軍
都城:240年間に渡り一度も落城したことが無いとされる本郷氏の居城🏯オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎1375年に北郷義久により築城。北郷氏は島津氏の庶流であり、4代当主の島津忠宗の六男である島津資忠が南朝方との転戦による戦功として北郷を所領し、北郷氏を称したのが始まりとされます。嫡男で2代当主の本郷義久が都之城を築いて居城としました。この城名が都城という一帯の地名となり現在の都城市に至ります。1587年に豊臣秀吉による九州征伐において島津氏が降伏すると薩摩・大隅・日向の所領は安堵されるも領内の国替えが行われ、都之城には伊集院忠棟が入城。豊臣秀吉との和睦交渉の窓口であり、急速に豊臣方に接近していた伊集院...
来月度の城主争い戦況
1位 明智日向守蕃爽さん 10回
2位 薩摩守帰蝶さん 10回
3位 明石淡路守久寛さん 9回
攻略数:城 家臣団:人 |
異名:個 官位:個 |
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