立谷沢城(たちやざわじょう)は山形県東田川郡庄内町科沢にあった城である。
遺構
月山を水源とし羽黒山の東を流れる最上川の支流、立谷沢川沿いに位置する。
ただし、『日本城郭大系』によるとその所在地は「科沢説」「木ノ沢説」など複数あり、いずれの地にも空堀や土塁の遺構が残るという。
『日本城郭大系』の「山形県城郭分布図」では、立谷沢城の他に立谷沢川流域には尼公館を記すのみであるが、『山形県遺跡地図』では木の沢城や中嶋館など約5箇所の城館を認めており、これらは『日本城郭大系』のいう各地に残る遺構が近年になって別の城館に比定されたか、または便宜上の名称を付与されたものと考えられる。なお『山形県遺跡地図』では、庄内町科沢滝ノ沢の立谷沢川右岸丘陵部を立谷沢城の所在地としている。
他に『日本城郭大系』では、立谷沢川流域の地形が築城条件に恵まれているため、それぞれの城館の集合体を“立谷沢城”と総称したのではないかとする説も紹介されている。
歴史
南北朝争乱の只中にあった貞和3年(正平2、1347)、奥州を追われた南朝方の北畠顕信(北畠顕家の弟)が守永親王を奉じて出羽国へ入り、羽黒山富田坊衆徒が固めていた立谷沢城に拠った。
翌貞和4年(正平3、1348)になると、北朝方である結城氏らが大軍をもって立谷沢城へと攻め寄せた。顕信は天険を活かしてよく戦ったが最後は力及ばず、城は北朝方によって攻略された。
落城後、顕信は城から落ち延び、延文元年(正平11、1356)
藤島城(山形県鶴岡市)で再び挙兵するも敗れ、これにより庄内地方の南朝方勢力は壊滅したという。
交通
・JR東日本陸羽西線(奥の細道最上川ライン)清川駅から車で約30分
参考文献
・『山形県埋蔵文化財調査報告書 第25集 庄内
藤島城跡』山形県教育委員会、1979年10月。
・『日本城郭大系 第3巻』新人物往来社、1980年。
・『山形県遺跡地図』山形県教育庁文化財保護推進課、2010年3月。