概要
黒木バス停より東をのぞむ。国道442号線上にまたがる、小冨士山形の山が、猫尾城(黒木城)跡である。
「黒木のフジ」棚下をすぎ、調麓橋(ちょうろくばし)を渡ると、中世の侍小路小字陣の内で、城主や重臣の居館があった所である。(現在は黒木中学校や民家がある)
城跡は矢部川と同支流笠原川との合流する処で、東より西へ半島状に突き出た猫山にある。
本丸は標高240メートルの山頂にあり、南北56メートル、東西28メートルの広さをもつ。周囲は石垣と土塁で、武者走り、馬踏、犬走り等も認められる。本丸の東一帯は1メートル余の高処となり、中央に戦闘中の城主の居館跡(現彦山神社)南に政所あと、南端と北端に櫓跡がある。本丸の正面入口(西)には頑丈な門もあったと思われ、下左の石垣は、厚さ40センチ長さ60センチ余の粘板岩(ねんばんがん)の算木積の野面積(占い用の角棒状になっている自然石で積んだ石垣)この左上に、最も高い重要な櫓跡がある。古書に記す「3台の櫓跡今なお存す」の確認できる。
二の丸は本丸の西下81メートルの所にあり、南北30メートル、東西30メートルの広さで、現在、薬師堂・十三佛など信仰の場となっている。
馬場は、本丸と二の丸の間にあり、南北18メートル、東西40メートルで、駐車場等になっている。
三の丸は、本丸の東(裏側)下の空堀(大堀切―南北200メートル、東西7メートル)それより更に東10メートルの林の中にある。南北18メートル、東西40メートル。
二の丸から西、山麓(陣の内・黒木中学校)に通ずる大きく高い土塁(曲輪)が、40メートル以上現存している。これは直線の土塁で、戦闘準備(武器弾薬、食糧など)のとき上下する通路である。二間長屋跡は不明。他に勢揃いする馬場、軍馬を走らせるコース、井戸などは現存する。
現存する城跡は、天正12年(1584)9月こけら落成後、約400数年後の山城跡である。山城は「結の城」で、守勢の城、最後は篭城(敵に囲まれて城にたてこもる)の場となる。
由来
猫尾城の鼻祖、黒木大蔵大輔源助能が、大隅国根占(鹿児島県肝付郡大根占町)から、筑後国上妻郡黒木郷に移ったと伝えられるが、時期は正確にされていない。
しかし、大根占町の古文書、徳大寺文書、桧室文書、黒木氏、木屋氏家譜により、仁安2年(1167)と推考される。
大根占町、最古の文献に「治暦5年(1069)正月9日、藤原頼光所領を子頼経に与えた分配帳案文」がある。次に「藤原鎌足を祖とする名門富田義光、仁安1年(1166)大根寝院の弁済使(税としての納米を清算する役人)になり、島浜の
高城を居城とす」との文献がある。藤原頼光と富田義光との間、約100年、文献なしとされている。この不明の100か年間の
高城城主は、源助能の祖先三代である。
(一)天承1年(1131)山門郡瀬高荘が上・下二荘となる。太宰師藤原俊忠の家領となる。
(二)仁安2年(1167)このころ高瀬荘、預所職(あずかりしょしき)(代官職)につき争論する。後徳大寺家これを預る。(一)(二)は正史。
このとき、助能の祖、源高能が京都御所に仕え、徳大寺家と関係があったので、この縁により、頼まれて代官となり、大根占から矢部川の上流、上妻郡黒木郷に移ったと推考される。
助能は父源根占藤四郎能永と黒木郷に移り、治水、産業につとめ住民の信頼を受ける代官となった。
文永11年(1274)元軍、博多・今津に侵攻したとき黒木・星野・川崎軍らとこれを迎え討ち、建治2年(1276)元軍の上陸を阻止するため、箱崎海岸に石塁を築きに出る。弘安4年(1281)7月5日、木屋地頭香西小太郎度景、弟広度、元軍の兵船に乗り移り奮闘する。広度は元軍と組み合い海中に入る。親類、家臣、郎従も多く戦死する。
南北朝時代は、延元元年(1336)8月、後醍醐天皇の綸旨をいただき、天皇方(南朝)につき終始一貫、懐良親王良成親王を奉じ、五條氏と共に誠忠をつくす。この間、猫尾城は、延元元年3月17日、文中3年(1374)11月16日、天授4年(1378)9月8日、元中8年(1391)10月、一時北朝方に攻め落とされ敵の城となる。
戦国時代は、大たい大友氏に属していたが、天正7年(1579)佐賀の龍造寺氏に攻略される。天正12年(1584)9月5日大分の大友氏に攻められ、黒木兵庫頭家永は本丸居館の2階で切腹し落城となる。慶長6年(1601)辻勘兵衛尉黒木城代となる。元和元年(1615)一国一城令で、長い歴史を秘める猫尾城、城主のいない廃城となる。
情報提供:八女市教育委員会教育部文化課