高鳥居城(たかとりいじょう)は福岡県糟屋郡須恵町と篠栗町にあった城。
概要
高鳥居城は、糟屋郡須恵町と篠栗町の境にある岳
城山(高さ381.4m)山頂部一帯に築かれた山城です。元寇後の永仁元(1293)年、河津筑後守貞重が築城したといわれ、戦国時代まで使われました。
現在、城跡には曲輪(平坦面)、土塁、畝状竪堀群(敵兵の横への移動を妨げる)、堀切(移動しやすい尾根を遮断するための堀)などの遺構がよく残っています。
筑前国の守護所が置かれる
室町時代になると高鳥居城は、筑前国を支配していた大内氏の守護代(代理人)である杉氏の居城(守護所、今でいう福岡県庁)となりました。大内氏が滅亡すると、高鳥居城は史料上に登場しなくなります。杉氏の子孫は、高鳥居城を支配し続けましたが、天正年間(1573年~1592年)頃に秋月氏によって攻略されたといわれます。
高鳥居城の戦い(天正14年(1586)8月25日)
今から約400年前の戦国時代、天正14年(1586)8月25日に高鳥居城で戦いが行われました。高鳥居城に立て籠もった島津方の星野兄弟の軍勢に対し、立花山城から打って出た立花統虎(高橋紹運の子、後の柳川藩主)の軍勢が攻め、城は一日で落城しました。
この頃、北部九州では、豊臣秀吉と島津氏との間で何度も戦闘が行われました。同年7月の
岩屋城(四王寺山中腹)の戦いは有名です。大友方の高橋紹運763名は、島津氏数万人の前に徹底抗戦して玉砕しました。その後、島津氏は、立花統虎が守る立花山城を包囲しましたが、秀吉の軍勢が九州に上陸した報が入り、博多の町を焼き払って退却しました。この時、高鳥居城にしんがりとして籠ったのが星野兄弟です。
「吉塚」の地名は一説によると、高鳥居城落城の際に、星野吉実・吉兼兄弟の首がその地に埋葬されたことから起こったとされています。
城の特長
① 南側に向けて土塁や畝状竪堀群を配することから、南側の敵を意識した防塁ラインとなっている。
② 企画性のある畝状竪堀群で防衛ラインを築く手法は、当時この地域に一大勢力を築いた秋月氏の城郭にみられる。
③ 山頂部にみられる曲橋を囲い込むように土塁を築く手法は、星野氏の城郭にみられる。
指定
守母神社の伝承(町指定無形民俗文化財)。
落城に伴う乳母と若君の悲話が地元甲植木区に伝わっています。
参考文献
・文化財紹介パネル
情報提供:須恵町役場まちづくり課