上関城(かみのせきじょう)は、山口県熊毛郡上関町大字長島字上関にある山城。
歴史
16世紀後半に村上武満が在城した、村上海賊の城だ。村上武満は南北朝時代から戦国時代にかけて活躍した村上海賊の一家、能島村上氏の系譜を引く村上義顕の子孫とされる。江戸時代に書かれた文献の記述であるため確証はないが、上関城は15世紀半ばには築城され、義顕・吉敏・武満の3代が在城したとされる。
上関城から眼下に望める上関海峡は古くから瀬戸内海の海上交通の要衝だ。16世紀中頃までは、村上氏が上関での通行税や警固料の徴収権を大内氏から保証されていたとみられ、上関城は上関海峡を監視する城だったと思われる。
大内氏支配期には比較的安定した経済基盤を確立していたようだが、天文20年(1551)に大内義隆が陶晴賢によって滅ぼされると情勢の変動に巻き込まれた。弘治元年(1555)の厳島の戦いで村上武吉が毛利方に味方して以降は、毛利氏との関係を強めた能島村上氏が支配権を持ったようだ。しかし、永禄12年(1569)の大友氏攻めで協力しなかったため、天正元年(1573)頃までは毛利氏との関係が悪化。この時期には、来島村上家が上関に在番していたとみられる。天正2年(1574)には能島村上氏と毛利氏の関係が修復したようで、『佐甲家文書』に村上武満の上関在城が確認できる。
天正12年(1585)に能島村上氏は毛利氏の傘下に入った。しかし天正16年(1588)に豊臣秀吉の海賊禁止令により、上関城は実質的な終焉を迎えたと考えられる。
遺構
上関海峡を眼下に望む、標高約58mの
城山に築かれている。海に突き出す、半島状の独立した丘陵上にある城だ。陸上交通より海上交通が発達していた中世において、政治・経済・軍事面での瀬戸内海交通の重要性は大きく、海峡を見下ろす上関城は海峡を航行する船を眺望し監視する絶好の立地だったといえる。現在は東・南・北面は護岸工事がされ道路がつくられているが、かつては海に囲まれていた。北西側の福浦と呼ばれる浜は、舟隠しだったとも考えられる。
上関城山歴史公園として整備されており城の痕跡は留めないが、発掘調査により構造が判明している。
城は南北約65m×東西約8~20mの瓢箪型で、南側の最高所に主郭、中央部に中央曲輪、北端に北高台を置く。主郭は、海に面する東・西・南側は急斜面で、東から南東側にかけては石積みが検出されている。西側辺縁は約0.5~1m高く、岩肌や転石を残して石塁や土塁としていた。北高台の北下には、最大比高差約10mの堀切があった。堀切の北側尾根上は人為的な曲輪造成がみられないため城域に含まれないが、柱穴や土杭などが発掘されており、通路や防御施設があった可能性がある。
主郭は見張りや伝達などの主要な空間で、海側に設けられた石積みからは威嚇的な性格もうかがえる。中央曲輪は一段低くなっており、貯蔵機能に関わる建物や祭祀の場を推定する土杭や遺物が発見されている。北高台は上関海峡へ向かう船の見張りに適した配置で、防御の最前線であるため土塁状の盛土や柵列の痕跡が認められた。
主郭東側の石積みや中央曲輪西側の石積みに大きな石が用いられているのに対して、腰曲輪の石積みには小さな自然石などが使われていた。これは、曲輪の強化とともに、視覚的な要素が加わったためと思われる。主郭東側の石積みには4つの形式があり、部分的な増改築が推察される。
能島村上氏が海の独立領主としての中世的な立場から陸の封建領主の家臣団へと組み込まれていく過程で、上関城の役割が変化し、改変されたと考えられる。豊後の大友氏、中国地方の毛利・小早川氏、伊予の河野氏、畿内の織田・豊臣政権が戦国の覇権を争う中で、上関城は瀬戸内海の海上覇権の重要拠点として軍事的要素が高まり、見張りの城から軍事的な城へと性格が変わっていったのだろう。
交通
・山陽自動車徳山東ICから車で約1時間
参考文献
・『上関城跡 (山口県埋蔵文化財センター調査報告 第14集)』山口県教育財団山口県埋蔵文化財センター、1999年。
文:萩原さちこ