立地
勝山地区の旭川左岸、旭川が西から南へと湾曲する部分の南側独立峰上に所在する。標高は約310メートル。旭川流域を広く眺望する。勝山地区にある勝山スポーツセンターに
城山登山口の標柱がある。
縄張
城域は北側の本城部分と谷を挟んだ南側の城域に大別される。北側の本城部分は、山上に主郭を構えて東側の稜線に沿って曲輪を並べる縄張りとなっている。主郭部に後世の改修の可能性が考えられるが、それを除けば、曲輪と堀切、土塁を用いた典型的な戦国期の在地系縄張り技術で整備されたことがわかる。
一方、南側の城域は、山上の曲輪を頂点として地形に沿って曲輪を丹念に連ねる縄張りに終始する。縄張りからみた場合、高田城は織豊期以降の改修された部分を除くと、曲輪配置などに戦国期の様相を強く残す事例と評価できる。
城史
正保書上五四城の一で、「古城之覚」は真島郡高田村の「高田山」として、城主を三浦駿河守貞連とし、「後太平記」を引いて永禄末期の高田城を巡る交戦に触れるなどしている。
「作陽誌」は「大総山」として、本城を如意山、山へは120間、周り16町、その南は「二廓」で勝山といい、合わせて大総山城と記す。天保国絵図に「
勝山城」とある。「美作鏡」は「
勝山城」とし、『真庭郡誌』は、
勝山城(高田城、大総山城)として現在、大佐分利・小佐分利といい
城山と総称、一名を津府山・大顆山とする。
高田城の城主は三浦貞連に始まり、子の貞国、孫の貞久と代々継続したとされる(「作州高田城主覚書」)。
享禄5年(1532)、尼子氏は美作国への侵攻にあたり、備中国の新見氏を高田城の在番としており(東寺百合文書)、また天文13年(1544)11月、尼子国久・誠久・敬久父子は備後国を経て美作国に討ち入り、浦上氏が軍勢を籠める「高田」など三ヶ城を落とし、出雲国に帰陣したとされる(「安西軍策」)。
同17年9月に城主の三浦貞久が籠城のなか病死したのち、城には尼子氏の家臣宇山飛騨守が在城したとされる(「作州高田城主覚書」、「作陽誌」)。
永禄2年(1559)2月、貞広の弟貞勝を擁立した牧河内らは合戦のすえ宇山氏を駆逐、貞勝が高田城に入ったが、同7年(8年とも)12月、家臣の金田氏によって自刃した。まもなく牧氏は貞広・貞勝の「祖父」とされる三浦貞守を擁立、高田城へと戻ったといい、貞広も永禄8年の9月には高田城へと回復した(「作州高田城主覚書」、石見牧文書、美作美甘文書など)。
しかし同11年2月、毛利氏に対して反抗した「三浦衆」らが「高田表」で討ち果たされ、同月19日には毛利方の長・香川・宍道氏は謀って三浦貞守に切腹させたとされ、以降毛利方の兵が在番した。
難から逃れた牧氏は翌同12年に三浦貞広を擁立し、10月には高田城を攻撃し回復、貞広は入城を果たしたとある。
しかし天正2年(1574)以降、三浦氏は宇喜多方の侵攻を受け、さらに翌同3年以降の毛利勢の攻囲に9月11日、貞広は宇喜多直家の仲介により下城、高田城は落去し、城には毛利方の楢崎元兼が入城したとされる(「吉川家中井寺社文書」、「香川家文書」、「閥閲録」、「作州高田城主覚書」、「作陽誌」)。
以降、毛利方の拠点として推移し、毛利氏と羽柴氏の和睦ののち同12年正月、安国寺恵瓊は児玉元良らに対し、「高田・岩屋・宮山・高仙」の城へ国元からも退去を言い聞かせるように要請している(毛利家文書)。
楢崎元兼が退去した跡には、牧藤左衛門を始めとした三浦氏旧臣が在番したが、まもなく服部隠岐守へ交代となったといい、篠
向城(真庭市三崎・大庭)の城主江原親次の家臣中島本政は走者を討った功により「高田城主服部隠岐」から脇差を与えられたという(高田城主覚書、美作勇山寺文書、美作岡田家文書、中島本政覚書)。
一説には宇喜多氏の家臣不破内匠が城を抱えたともいう(「武家聞伝記」)。また慶長3年(1598)9月に戸川達安は宇喜多秀家から「山内・高田近辺」5100石を預け置かれ、達安組の岡市丞も同年に「高田城領」として1000石を加増されている(秋元興朝所蔵文書、「宇喜多秀家士帳」)。
同5年8月、関ヶ原合戦に先立ち、宇喜多秀家は領国内の城の在番に対し人質の差出を求めており、その内に「高田中務」として小瀬中務がみえる(新出沼元家文書)。
宇喜多氏の没落後、慶長6年(1601)からは小早川秀秋の陪臣木下斎之助が城を抱えたという。慶長8年からは各務四郎兵衛が、同14年春以降は大塚丹後とのその子息が5代、相次いで城を抱えたという(「武家聞伝記」)。
遺物
瓦等。
備考
平成6年(1994)、岡山県真庭地方振興局が車道拡幅や休憩小屋建設のため造成を行い、遺構の一部で原形が失われた。
同21年、地上デジタルテレビ放送施設建設に伴い出丸跡の発掘調査が行なわれ、掘立柱建物跡が検出されたが、攪乱が激しく遺物もほとんど見られなかった。
文献
「安西軍策」、「陰徳記」、「武家聞伝記」、「作陽誌」、「美作髪鏡」、「陰徳太平記」、「備前軍記」、「美作鏡」、「美作略史」、「真庭郡誌」、『岡山県通史』真庭3、「月田郷土史」、『久世町誌』、「美作古城史」、『岡山の城と城址』、『勝山町史』前編、『日本城郭全集』真庭郡2、「日本城郭大系」857、『美作地侍戦国史考』、『岡山県埋蔵文化財報告』26、「歴史散歩岡山の城」、「改訂岡山県遺跡地図」勝山63、「勝山町の文化財」、『岡山の山城を歩く』84、乗岡2009、『真庭市埋蔵文化財調査報告3』
情報提供:真庭市教育委員会生涯学習課