名称(よみ) | 福岡城(ふくおかじょう) |
所在地 | 岡山県瀬戸内市長船町福岡 |
天気情報 |
11/22(金) 降水確率:30% |
地図 | マップ/周辺の城/NaviCon |
問い合わせ | 瀬戸内市総務部秘書広報課[電話] |
分類・構造 | 平城 |
築城主 | 頓宮四郎左衛門 |
築城年 | 鎌倉時代後期 |
主な改修者 | 小鴨大和守、赤松政則 |
主な城主 | 頓宮四郎左衛門、赤松氏、小鴨大和守、浦上氏 |
遺構 | 曲輪 |
再建建造物 | 石碑、説明板 |
岡山県瀬戸内市の旧長船町域にあたる大字、長船町福岡は、室町時代から南北朝時代に最勝光院領を経て、後醍醐天皇の命により東寺領とされた。また、この頃、吉井川の中州に福岡城が築城され、北朝方の赤松氏の支配下に置かれており、観応元年(正平5年/1350年)には足利尊氏が、応安4年(建徳2年/1371年)には今川了俊も陣地を構えている。
嘉吉の乱で赤松氏が一時滅亡して山名氏が備前守護に任じられると、再興した赤松氏と山名氏の間で福岡の支配を巡ってしばしば福岡城の攻防戦が行われた。特に文明15年(1483年)には、山名氏に内通した松田元成が赤松氏の守護代浦上則国支配の福岡城を包囲して50日の籠城戦の末に陥落させている(福岡合戦)。また、その頃近江国から流れてきた黒田高政が福岡に居住して一財を築き、その子・重隆は浦上氏次いで小寺氏に仕えて、後に播磨国姫路城を拠点とした。また、浦上氏によって追放された宇喜多興家がこの地に逃れて病死したが、その子・直家は後に家名を再興して浦上氏を追放して岡山城を拠点に備前一国を平定した。福岡の日蓮宗妙興寺には黒田高政・重隆父子および宇喜多興家の墓が存在している。
筑前国福岡との関連
黒田重隆の曾孫である黒田長政が筑前国に封じられた際、新しい本拠城の名称を黒田氏ゆかりの備前福岡より取って、「福岡城」と命名、城下町を「福岡」とした。これが今日の福岡県および福岡市の名称の由来となった。
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来月度の城主争い戦況
1位 みこにゃんさん 143回
2位 たいよう大好き讃岐守龍&海さん 93回
3位 若狭守いちびりさん 88回
攻略数:城 家臣団:人 |
異名:個 官位:個 |
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