名称(よみ) | 真田庵(さなだあん) |
通称・別名 | 真田屋敷 |
所在地 | 和歌山県伊都郡九度山町九度山1413(善名称院) |
天気情報 |
11/22(金) 降水確率:40% |
地図 | マップ/周辺の城/NaviCon |
問い合わせ | 真田庵[電話] |
分類・構造 | 屋敷 |
天守構造 | なし |
築城主 | 真田昌幸 |
築城年 | 慶長6年(1601) |
主な城主 | 真田昌幸、真田信繁 |
遺構 | 消滅 |
指定文化財 | 県史跡(真田屋敷跡) |
2024/10/31 12:11 noble権中納言弥勒菩薩
真田庵:真田庵です。雨の平日、訪れる人もほぼいません。ここに来る時には、必ず上田城や真田地域の信州の城郭を思い浮かべます。稀代の謀将、真田安房守が晩年を過ごした場所、ここは遺構云々ではないですよね。極貧の中でと云われますが、恐らく彼の脳裏は、『わしは天下の家康を手玉にとった武将じゃ』という強烈な自負とともに、死を迎えたのではないかと想像します。信州生まれの自分にとっては感慨深い所です。
2024/05/19 20:01 RED副将軍
真田庵:関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れた真田昌幸、真田信繁の蟄居時代の草庵跡オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎1600年代初頭に真田昌幸、真田信繁父子により築かれた草庵。関ヶ原の戦いで西軍に属した真田昌幸と真田信繁の父子は高野山に蟄居を命じられ、当初は蓮華定院に滞在しました。しかし高野山での修行はきびしく、女人禁制であったため妻子は麓の九度山に置いたとされ、しばらくすると真田昌幸と真田信繁は九度山に降りて築いた屋敷が真田庵とされます。真田昌幸は上田城に戻ることなく1611年に九度山で病死。1614年に真田信繁は豊臣秀頼からの要請により大坂城に入城。翌1615年の大坂夏の陣で討死。その後に真田庵は焼き払われて...
来月度の城主争い戦況
1位 イオ左衛門佐さん 141回
2位 ミロ左衛門佐さん 114回
3位 ウェイン治部少輔ルーニーさん 95回
銭坂城(周辺城郭)
皮張東城(周辺城郭)
皮張西城(周辺城郭)
岡城(周辺城郭)
真田昌幸墓碑(寺社・史跡)
雷封じの井(寺社・史跡)
真田地主大権現(寺社・史跡)
真田古墳(真田の抜け穴)(寺社・史跡)
町石道(寺社・史跡)
町営無料駐車場のトイレ(トイレ)
町営無料駐車場(駐車場)
真田宝物資料館(関連施設)
九度山・真田ミュージアム(関連施設)
攻略数:城 家臣団:人 |
異名:個 官位:個 |
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