日和山(ひよりやま)は、宮城県石巻市日和が丘にある鰐山の南東部分の名称である。
桜の咲く名所でもあり、地元では周辺一帯を「日和山公園」として親しまれている。
日和山
旧北上川の西岸、石巻の町の歴史的中心の至近にある。平安時代に遡る鹿島御児神社が鎮座する。
鎌倉時代に源頼朝の家人であった葛西清重が奥州合戦の恩賞として牡鹿郡を始めとする近隣の数カ所を受領し、日和山に石巻城を築いたとされる。葛西氏とその所領は天正18年(1590年)に羽柴秀吉に滅ぼされるまで維持された。
江戸時代に書かれた地誌によれば、山の名は石巻から商船が出航する前に、この山に登って天候を観察したことからついたという。参詣のため、風景を眺めるために登る人が多かった。元禄2年5月10日(グレゴリオ暦1689年6月26日)には松尾芭蕉が訪れ、同行の弟子河合曾良が眺望を日記に記した(『おくのほそ道』参照)。
現在は日和山公園として整備されている。日和山から日和大橋越しに見る旧北上川河口と太平洋、また、旧北上川の中洲であり、内海五郎兵衛が私財を投じて内海橋を架けた中瀬の見える風景は、そのまま石巻の成り立ちと市民のアイデンティティを示すものである。
桜とツツジの名所とされ、山上に芭蕉と曽良の像がある。1983年(昭和58年)に行われた発掘調査によって、石巻城の遺構であると思われる大規模な城郭があったことが確認された。
鳥居
鹿島御児神社の敷地にある鳥居は、日和山山頂に1935年(昭和10年)に建てられたが、老朽化と2021年(令和3年)5月の地震などにより一部が破損。
東日本大震災や、その後のニュースなどに多く取り上げられる象徴であったが、旧鳥居を解体撤去し、2021年12月に新たな鳥居に建て替えられた。
東日本大震災
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の際は、多くの市民がこの日和山に登って津波から避難。眼下の石巻漁港や市街地は広範囲に被害を受けた。
鰐山と明神山・羽黒山・日和山
鰐山(わにやま)は、石巻湾の北側、旧北上川右岸(西岸)、JR石巻駅の南側にある孤立性の丘陵。「鰐陵」「日和山丘陵」「日和丘陵」とも呼ばれる。
鰐山の山塊はおおむねむ台地状をしており、地図上では西辺が約1.6km、南辺が約1.2km、東辺が約1.0km、北辺が約0.8kmのいびつな多角形を呈し、標高は西側約10m、東側約40mと西側に向かって傾斜する。
四方はおおむね崖になっていて、周囲は標高1m前後の沖積平野(石巻平野)に囲まれる。崖は、かつての海の侵食作用による海蝕崖、あるいは、付近を流れる北上川(真野川)、定川(江合川)などの原始河川のそれによる河蝕崖と考えられ、西側と南側の崖下には侵食後に形成された浜堤が接続する。
旧北上川に面した東辺の中部に谷が刻まれており、江戸時代より当地の中心部だった石巻市中央(旧・石巻村)から連続する谷底には石巻小学校、石巻市庁舎跡()、石巻消防署中央出張所などがある。この谷から鰐山に上がった坂の上の海門寺公園内に石巻神社()が鎮座する。
この谷をはさんで鰐山の北東凸部が羽黒山(標高49m)、南東凸部が日和山(61.3m)と呼ばれる。
また、北西凸部は明神山(30.5m)と呼ばれる。
羽黒山の頂上部には旧・石巻村(現・石巻市中央ほか)鎮守の鳥屋(とや)神社、日和山の頂上部には旧・門脇村(現・石巻市門脇)鎮守の鹿島御児神社が鎮座する。また、明神山の頂上部には鳥屋崎(とやさき)神社が鎮座する。
鰐山上には「山下町」「泉町」「宜山町」「大手町」「南光町」「羽黒町」「日和が丘」の7つの町丁があり、一部が隣接する崖下の地区を含む。
三角点は、鰐山から北西に外れた平地にある石巻市38開発公園内に四等三角点「鰐山」(標高0.71m)、鹿島御児神社の北側に三等三角点「日和山」(標高54.34m)がある。
名称 |
頂上部 |
三角点 |
最高部 |
公園 |
神社 |
等級 |
標高 |
位置 |
鰐山 |
中心部() |
- |
- |
四等 |
0.71 m |
明神山 |
30.5 m() |
明神山公園 |
鳥屋崎神社(30.5m) |
- |
羽黒山 |
49 m() |
羽黒山公園 |
鳥屋神社(47m) |
- |
日和山 |
61.3m() |
日和山公園 |
鹿島御児神社(59.6m) |
三等 |
54.34 m |
関連作品
以下は日和山を主題にした作品。
- 「日和山公園」 - 2016年のアルバム『ナリシカー』(キングKICS-3342所収) 作詞、作曲、歌:成底ゆう子(シンガーソングライター)。