位置と環境
名生城跡は、旧古川市(宮城県大崎市)西部、JR古川駅の北西約8kmに位置し、渋井川西岸標高約42mの南東に延びる高位段丘上に立地する。
概要
現在は宅地や畠地、水田となるが、一部に土塁跡や堀跡が認められる。規模は東西約1,440m・南北約500mであり、内部は大小の堀や沢、土塁により区画されていたと考えられる。城跡は耕地化により改変されているが、字名として「城内」「名生小舘」「名生北舘」がある。地形的には細長い区画の水田などから堀跡が推定できる。他にも土塁跡が明瞭に認められる。
規模については『仙臺領古城書上』と『仙臺領古城書立之覚』では東西56間・南北37間(1間は約1.81m)とあり、現在の遺跡の範囲から考えると、城の中心部の規模が記述されたと思われる。また『名生村風土記御用書出』では古舘五ヶ所として「内舘」「北舘」「大舘」「三ノ構」「軍場(ぐんじょう)」という名称が認められる。他にも『仙台領内古城・館』では「本丸」「内館」「北館」「ニノ構」「三ノ構」「軍場」と分けられ、地区の名称や地形観察の結果により各曲輪の位置を想定している。
昭和55年(1980)から継続される宮城県
多賀城跡調査研究所や古川市教育委員会による官衙域の学術調査では、城の内部が堀などにより細かく区画されると想定されるが、主要な建物などの施設は明確でない。次の各地区の様相については発掘調査により明らかとなっている。
城内地区
城跡の範囲の中央よりやや北東側、陸羽東線に面した地区が城の中心と考えられる。推定される規模は東西約150m・南北約200mであり、西側の想定される曲輪跡(ニノ構か)とは堀跡によって区画されると考えられる。
昭和55年(1980)と昭和56年(1981)の宮城県
多賀城跡調査研究所の調査(調査総面積1,650㎡)では、内部の区画施設として、東西方向で幅9~12m・深さ3.5mの薬研堀跡(SD50溝跡)と幅約11mの堀跡を発見している。
また、平成10年(1998)から平成13年(2000)の古川市教育委員会の調査(調査総面積1,584㎡)では、桁行9間・梁行5間の総柱建物跡を発見している。その規模は東西17.14m・南北9.44mで南側と西側に廂(ひさし)または縁が取り付く構造となる。出土品が伴わないことから年代は明確にはできないが、その規模から名生城に関わる建物の可能性がある。その性格については、廂または縁が取り付くという格式の高さから何らかの中心的役割をもった建物と推察される。また、この建物の西側には桁行5間・梁行1間と桁行3間以上・梁行1間の東西棟建物2棟を発見している。
この城内地区の北には、名生北舘地区に接し東西長:北側約120m・南側約125m、南北長:西側約38m・東側約85mの不整方形の堀に囲われた平場があり、『仙臺領古城書上』等では「内舘」と呼称される区域である。昭和57年(1982)の宮城県
多賀城跡調査研究所の発掘調査(調査面積306㎡)では、内部の区画施設として上幅約5m・下幅約1.3m・深さ約1.9mの溝跡など中世の溝4条を発見している。平成8年(1996)と平成9年(1997)の古川市教育委員会の調査(調査総面積330㎡)では、中世頃の柱列跡、溝跡を発見している。柱穴からは多量の炭化米が出土したことから、穀類の貯蔵施設があったと推察される。
名生北舘地区
城の北側に位置し、現在は浄泉院が建っている。東西110~138m、南北70~90mの不整方形の平場である。東や西、北側斜面には幅7~14mの大規模な堀跡や高さ2~3mの土塁跡か明瞭に認められる。
小舘地区
昭和57年(1982)の宮城県
多賀城跡調査研究所の調査(調査面積:850㎡)では、土塁跡(SX190土塁跡)の断ち割りが行われ、基底部幅約8.8m・高さ約2.5mの積み上げられた土層が観察された。
出土品
青磁碗や常滑産甕、古瀬戸折録深皿、古瀬戸産小皿、茶臼、北宋銭、炭化米、板碑が出土している。
歴史
『大石寺文書』観応2年(1351)に名生城との記述かあり、この頃には築城されていたと考えられる。『古川状』や『伊達正統世次考』には名生美濃守という記述がある。『名生村風土記御用書出』には義隆の館の内として「内舘」「北舘」「大舘」「三ノ構」「軍場」と分けられる。『仙臺領古城書上』には城主氏家宮内、大崎左衛門督義隆が居住したとある。
また、奥羽仕置後の天正18年(1590)の葛西大崎一揆では一揆勢の拠点となった名生城を蒲生氏郷が鎮圧し、さらに伊達政宗の叛意を疑う氏郷が篭城している。
情報提供:大崎市教育委員会文化財課