赤木城の構造
赤木城は主郭を中心に三方の尾根と山裾に郭が設けられている。尾根を利用して築かれた郭配置は、中世山城の様相を引き継いでいる。
一方、高く積まれた石垣や横矢掛かり、発達した虎口などは、近世城郭の要素が見受けられ、過渡期の城郭であることを表している。また、石垣に反りがなく自然石をそのまま積み上げる手法も過渡期の要素といえる。
石垣は、主郭や東郭のように周りからよく見える所は高く丁寧に積まれ、北郭や西郭のように見えにくい所は石垣が低かったり、角度が緩くなっている。見栄えを意識して築かれていたことがわかる。
主郭・北郭
主郭は城の最高所にあり、城下からの比高は30mほどで、方形に近い台形をしており、高さ4mほどの石垣が巡る。随所に横矢掛かり(敵を側面から攻撃するために石垣を突出させた部分)が設けられている。石垣は他の郭よりも高く丁寧に積まれ、城の中心にふさわしいつくりとなっている。
また、主郭に残っている礎石も大きく、他の郭より立派な建物があったと考えられている。ここからは播磨地域で生産された焙烙(土製の鍋)が出土した。主郭からは赤木・長尾・平谷といった周辺の集落が一望できる。
北郭は石垣が2~4段と低く、西面には石垣が積まれていないなど他の郭に比べて簡素なつくりだが、尾根の先は堀切が設けられ、北から来る敵を防いでいる。
東郭・門跡
東郭は門をはさむ2つの郭からなっており、最初に敵を迎え撃つ場所である。そのため、石垣は高く険しく積まれており、郭内で発掘調査は行われていないが、礎石がいくつか見られることから、建物があったと考えられる。
門跡では礎石が2石残っており、間口8尺・奥行6尺の西脚の門があったと推測される。門の直前で坂が急に険しくなっているのは、敵に攻められ難くするためだったと思われる。
南郭
南郭は、他の郭と違い山裾に築かれている。これは他の郭が防御の役割を担っていたのに対し、南郭はおもに生活の場であったためと考えられている。「南郭1」と「南郭3」では建物の礎石や土留めの石積みが見つかった。さらに「南郭3」では、かまど跡も見つかっている。
かまどは三方を石と粘土で固め、土が焼けて赤色に変色していた。付近には、かつて4基のかまど跡が残っていたと言われており、生活色の強い場所であったと考えられる。下には田平子峠を経て入鹿へと続く道があり、普段の生活には便利だったと思われる。
西郭
細長い尾根の上に築かれた西郭は、4つの郭からなっている。尾根の西側にある大きな谷は、斜面を削り敵が登りにくいようにしている。「西郭1」では2棟の礎石建物と室(食物などを所蔵する施設)か水溜と思われる石組み遺構が見つかっている。「西郭1「西郭2」にも礎石がいくつかみられることから、建物があったと考えられる。
西郭の石垣は、他の郭と比べて傾斜が緩くなっており、また、麓からよく見える部分には大きな石が使われている。
西郭からは天目茶碗や砥石、釘などが出土した。
虎口
城攻めの時にはここが要所となるので、敵を防ぐための工夫が凝らされている。赤木城では通路を何度も折り曲げて二重の虎口を設け、要所には門を構えて備えている。下段の虎口には防御のためか階段が見られず、梯子のようなもので登っていたと考えられる。また、戦いの時以外は登城のための通路でもあり、主郭へ入る上段の虎口では大きな石を用いて立派に見せている。
虎口では石垣の崩落が著しい状態で、これについては城の廃絶後に、敵に利用されることを防ぐ目的で意図的に崩された可能性も考えられている。
赤木城の保存整備
『赤木城及び田平子峠刑死場跡』は、平成元年に国史跡に指定された。赤木城跡の整備は平成5年に作成された保管保存計画に基づき、平成16年度まで発掘調査と整備工事が行われた。
整備前は石垣の痛みが激しく、各所で石垣が崩れていた。石垣は現状を記録した後に、崩落した石や痛みの激しい部分についてのみ積み直しを行った。大部分は崩落した石で修復したが、足りなかった石については、近隣の赤木川から採集して補い、違和感が出ないようにしている。
現存していた石垣の上面には鉛板を差し込み、修復した部分と区別している。新たに補充した石は裏面に補充年度を記入して区別できるようにしている。礎石は基本的に遺構の石をそのまま展示しているが、虎口の門礎石については遺構の石を埋め、その上に新しい石を置いている。東郭の門跡では、遺構の礎石をそのまま露出し、足りない礎石を補充している。
情報提供:熊野市教育委員会林業振興課