名称(よみ) | 持船城(もちふねじょう) |
通称・別名 | 用船城、持舟城、用宗城 |
所在地 | 静岡県静岡市駿河区用宗城山町 |
天気情報 |
04/02(水) 降水確率:50% |
地図 | マップ/周辺の城/NaviCon |
分類・構造 | 山城 |
築城主 | 一宮元実 |
築城年 | 天文年間(1532〜1555) |
主な城主 | 関口氏、三浦氏、向井氏、朝比奈氏 |
廃城年 |
天正10年(1582) |
遺構 | 曲輪、堀切 |
再建建造物 | 石碑、説明板 |
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持船城(もちぶねじょう)は、静岡県静岡市駿河区用宗城山町の、JR東海道本線用宗駅裏の標高70mほどの小高い丘陵(城山)にあった日本の城。眼下に駿河湾を見下ろし、駿府の町も一望できることもあり、東海道の山越え側丸子城と並んで、海側の街道の要衝であった。
現在では「用宗城(もちむねじょう)」とも称されるが、これは現在の地名からで、現役時代に実際にそのように呼称されたことは無い。ただし「用船城」と記された資料は存在し、船を用いる城という意味にもとれるため、持船-用船-用宗という変遷が想像される。
城の歴史
はじめ今川氏の属将であった一宮元実によって天文年間に築城され、駿河守備の重要な支城として重用されたと伝わる。関口親永(氏純)らが城主を務めた。しかし、桶狭間の戦い以降、今川氏が衰退すると、駿河国侵攻した武田信玄らによって攻められ奪われる。
武田氏城代として三浦義鏡、および武田水軍に招かれた向井正重らが入り、駿河湾に面していることもあり、水軍の城としての機能を持っていた。新しく湊が作られ、現在のJR用宗駅付近が舟溜りとして使われたらしく、そのころ城名として「持船」の通称がついたといわれている。
天正7年(1579年)徳川家康の駿河侵攻により牧野康成らに攻められ、落城。城代の三浦、向井らは揃って討死してしまうが、すぐ翌年には武田勝頼らによって再び奪い返されて再建し、朝比奈信置が城代となった。
天正10年(1582年)、甲州征伐によりまたも駿河に侵入した徳川家康により再攻撃を受け、降伏。城代朝比奈信置は久能山に退き、この際に廃城とされたと伝わる。
現在の城
持船、の名から「用宗」という名が生まれ、付近一帯の地名となっている。城山にはミカン畑が広がり、主郭には城跡の碑と、観音堂があるが、昭和62年(1987年)に廃されて廃屋となっている。古井戸跡、掘割の跡など、城跡はよく残っている。
城から100mほどの場所にある用宗公民館前に、徳川家康に最初に攻められた際に討死した向井正重ら諸将を供養する「城山列士供養塔」がある。
東海道新幹線がトンネルで城山を抜け、背後は東名高速道路が新日本坂トンネルへと入る場所であり、現在でもまさしく交通の要衝である。
2023/09/26 11:47 ʀᴇᴅ副将軍
持船城:今川水軍の拠点であり、瀬名姫の父である関口親永の居城🏯オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎天文年間(1532年〜1555年)に今川氏家臣である一宮元実により築城されたと云われます。永禄年間(1558年〜1570年)には今川義元の妹婿である関口親永が城主でありました。徳川家康の正室である築山殿(瀬名姫)の父として有名です。1568年、甲駿同盟が破棄されたことにより、駿河国に侵攻した武田信玄により落城。その後、武田信玄の家臣である三浦義鏡、向井正重が守将として守備しましたが、1579年に徳川家康の侵攻により三浦義鏡、向井正重は討死し落城しました。1580年に武田勝頼は持船城を奪回し改修。朝比奈氏秀が守将...
2023/09/25 05:19 しげしげ主税頭信繁
持船城:登城口は道幅狭いので車は注意が必要です、駐車場あり、そこから徒歩で登城して直ぐ主郭に行けます。富士山と新幹線のコラボが良かったです。
来月度の城主争い戦況
1位 遠江守交代番さん 15回
2位 のぶさんさん 7回
3位 新幹線総局さん 6回
攻略数:城 家臣団:人 |
異名:個 官位:個 |
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