本城は、白山市出合町(旧鳥越村出合)の集落南方にある通称「サンカクヤマ」と呼ばれる標高268mの険阻な山塊に位置する。東と北の面は急峻な斜面となり、東斜面下方には手取川の支流のひとつである大日川が流れている。南方は深い谷を挟んで白山山系の山岳に連なり、北西方の斜面は曲輪や堀切など城郭遺構を見ることが出来る。
本城の主郭は山頂にある曲輪にあたる。主郭は平成16年度(2004)と17年度に発掘調査が行われ、その全容が明らかとなった。曲輪の中央部には、5間×2間の掘立柱建物が存在した。建物内部にあたる箇所では石組み炉の跡、建物の柱穴に接する所で地下式カマド跡を検出している。
この建物の東隣には2間×2間の掘立柱建物を1棟確認しており、前者の建物が主殿、後者の建物を附属施設と位置づけている。
この附属施設の建物から西隣には礎石建物や方形土杭などが見られ、さらにその奥には、主郭への登城口となる通路が存在する。通路は、下段の小曲輪につながり人頭大の自然石を置いた石敷路であった。出土遺物は、越前焼瓷・擂鉢・土師器皿(灯明皿)・中国染付碗・青磁碗・石鉢・硯などで、時期は16世紀が主体である。出土遺物は生活色の強いものではあるが、調査面積に対して総体的に数量は少ない。
曲輪1より北西方へ下る尾根には、前述した少曲輪をはじめ、複数の曲輪が段々状になって形成されている。発掘調査によって一部で石敷きの通路を確認出来たので、下方の段々になっている曲輪と曲輪の間にも通路が存在すると考えられる。
小曲輪群を降りた先には曲輪2が存在する。曲輪2は、曲輪1につづいて広大な敷地を有しており、南西側には土塁を設けている。曲輪2の前面には内桝形状の出入口が設けられ、さらにその先には土橋を設置した大堀切が存在する。
尾根の先端部の南西斜面には竪堀のような痕跡が見られるが、これは防御機構というよりも山麓から山上へ上がる道の跡とかんがえられる。
曲輪1から南方の深い谷を降りた箇所には曲輪3が存在する。曲輪3は地形の制約を受けているため規模は小さく、一角には堤のような窪地が見られる。
曲輪3は、山麓へ向かって緩やかに傾斜していき、途中の大土塁が曲輪3と山麓間を遮断するように構築している。前述した曲輪2の前面にある大堀切は竪堀となってこの大土塁の脇を通ることから、現状では確認出来ないが、土塁の横に深い堀が存在した可能性がある。なお、大土塁は一部大きな破壊を受けている。これは、曲輪3から山麓へ進む途中の斜面に近年まで使用していた石切り場の跡があり、その石を曳き出すために土塁を滅失させてしまったためと考えられる。
曲輪1から谷部(曲輪3)を挟んだ標高360mの山上部には曲輪4が存在する。曲輪4は、南北に細長く三方に土塁を構築している。この曲輪から北西にのびる尾根筋には明瞭な城郭遺構は見られないが、尾根の先端部には曲輪5が存在する。ただし、曲輪5は前述した石切り場によって大きく破壊を受けている。
本城の城主は、戦国時代に活躍した在地土豪・二曲右京進で、後に本願寺の鈴木出羽守の子である鈴木右京進が入ったといわれている。主郭部の発掘調査成果でも当該時期を中心とした遺構・遺物を確認しており、本城は戦国期に築造され、約100年の間機能していたようである。
本城において最も顕著な城郭普請を見ることの出来る箇所は、曲輪1(主郭)から曲輪2までの範囲である。特に曲輪2は、内桝形状の出入口が見られ、その前面には非常に大きな堀切が存在する。全体的な縄張りの形態を見ていくと、当初の城域は、曲輪1の主郭から北西方に延びる尾根筋が城域であったと推測する。その後、曲輪2から派生する堀切や土塁、曲輪4・5を構築し、曲輪3を含む谷部を囲って城域規模を拡大した改修を施したと考えられる。
この場合、在地土豪・二曲右京進が在城した時期は改修前の縄張り普請で、本願寺方の鈴木右京進の時に城域を拡大させたという考え方も出来る。
情報提供:白山市文化財保護課