松任城は、手取扇状地の扇央部、標高約21mに位置する。
平安末期に当地を支配していた松任氏(林氏の庶流)の館として成立し、室町幕府の奉公衆を経て、一向一揆では松任組の本拠地として城郭化が進み、上杉謙信に攻められるも和睦した城として知られる。一揆解体後は、織田方の城として30数年にわたり城下町の整備を伴いながら、本格的に城郭化が進んだと推定される。
城主としては、加賀藩2代藩主となった前田利長が3年、丹羽長重が11年在城している。しかし、幕府の一国一城政策により廃城された。
廃城後、約60年を経過した延宝年間に写された「松任城古図」によれば、本丸・二の丸・三の丸・出丸櫓台・出丸などが見られ、それらは幅5間から13間の水濠や、空堀、土塁により防御されており、外堀で区画された城域は、南北150間、東西90間余とある。
現在、遺構は、本丸がその面影をわずかに残すのみで、本丸を取り囲んでいた二の丸・三の丸・出丸はその面影を全く留めていない。
考古学的な調査は、平成11年に松任学習センター、松任図書館建設にあたり、二の丸・三の丸の一部に対して実施されたが、二の丸において16世紀後半の越前焼擂鉢が1点出土したのみで、遺構も確認されず、三の丸においては、二の丸との間の堀を確認したが、出土遺物に松任城関連のものはなく、そのほとんどが、廃城後の18世紀以降のものであり、石垣に使用されたような石も全く検出されなかった。三の丸郭内においても、同様な状況であった。
本丸跡は現在おかりや公園として利用されており、四周を取り囲む内堀の内側石垣の石列により、本丸主郭全体の面影を留めている。しかし、堀はすべて埋め立てられ、道路や花壇、児童公園となっている。ただ南・北・西石垣は25cm大の小さな河原石積みで、コンクリートが使用されており、戦後積み直されたと推定される。東の石垣は丸みを帯びた50~100cm大の大きな河原石や、60~100cm大の粗割りされた大きな石が混ざって組み込まれている。おそらく、粗割りされた石垣を補修する際に、丸みのある石が使われたと推定される。一部にコンクリートによる補修も確認できるものの、古い石垣の写真等を参考にすれば、少なくとも明治期には存在した石垣といえる。
内堀は明治23年頃掘り直されており、貸しボートや屋形船、釣堀として利用されていた事もあった。明治初年の地籍図によると、内堀の幅は約20m程と推定できる。堀は昭和8年頃より埋め立てられ、昭和15年撮影の写真では、完全に埋められている。
現存する石垣は南北約80m、東西約60mの主郭を取り囲むようにして積まれており、延宝年間に写された「松任城古図」によれば、本丸は南北30間余、東西25間、北土塁幅7間、南、西、東土塁幅5間と記されており、単純にこれらの数字を合算すると、南北約42間(約76m)、東西35間(約63m)となり、ほぼ現存する石垣の規模と類似することから、松任城の本丸規模をほぼ踏襲していると推定される。
石垣以外にも土塁状の高まりが本丸南西隅と北(高さ2.7m)及び北西隅(高さ2.5m)に見られる。北及び北西隅の高まりには、昭和8年に忠魂碑が建てられ、周辺に石を配した整備がなされているが、この時、どこまで土盛りしたかは不明であるが、土塁をある程度利用しているものと思われる。「続 松任町史」によれば、東の虎口部分以外は土塁の痕跡である高まりが残っていたとされている。
文政年間の「松任城測量図」においても、虎口周辺以外に土塁状の表記が巡らされており、北西隅、南西隅には平坦面が2段みられる。土橋は中央で途切れ、木橋が架けられている。
南西隅の土塁は現在高さ約1.5mほどあり、頂上には松任城本丸址の石碑が建てられ、寛政9年(1797)に牧忠輔が書いた「松任古城之図」によれば、ここは高さ2間の櫓台跡であったとされている。周辺には50~140cm大の粗割りされた石や丸みのある河原石が点々と見られ、石垣が組まれていた可能性も推定できる。
牧忠輔は本丸虎口について、半外桝形であろうと現地観察している。文政年間の「松任城測量図」においても、東堀の南北ラインは一直線になっていない。現状でも、東堀の古い石垣は虎口より北ではきちんと一直線上に確認できるが、虎口より南では確認出来ない。
このように現状では、本丸のみが確認できるが、その周辺にあったであろう郭については、考古学的には確認されていない。
情報提供:白山市文化財保護課