和田山城(わだやまじょう)

和田山城 投稿者:雲龍斎隠遁守全長さん

城郭基本情報

名称(よみ) 和田山城(わだやまじょう)
通称・別名 寺井城
所在地 石川県能美市和田町
天気情報

11/22(金) 降水確率:50%
14℃[±0]9℃[+3] 詳細

地図 マップ周辺の城NaviConYahoo!カーナビ
問い合わせ 能美市生涯学習課[電話
分類・構造 丘城
築城主 和田坊超勝寺
築城年 永正3年(1506)
主な城主 和田坊超勝寺(一向一揆勢)、安井家清(柴田氏家臣)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 国史跡(和田山・末寺山古墳群)
再建建造物 石碑、説明板
和田山城跡は、国指定史跡和田山・末寺山古墳群があることで知られる能美市和田町地内の独立小丘陵和田山に所在する。和田山には、くの字状に東西と南北に延びる尾根があり、山城は南北尾根中心に築かれている。標高は本丸、二の丸の最高部である約37m、本丸の平坦面で約33mであり、周辺山麓との比高は約23mから27m、面積は約2万2500平方mである。

尾根の中央に虎口、枡形門を置き、そこを中心として南に本丸、北に二の丸が配置されている。西側斜面は東側斜面と比べ急斜面となり、斜面中腹には腰曲輪が配置され、空堀はみられない。東斜面には本丸から延びる空堀に平行して曲輪が配置されている。

本丸は二重に仕切られた複郭式で台状形を呈し、長辺約60m、短辺約30mを測る。中央部には古墳の墳丘(和田山九号墳)があり、築城時に物見櫓に利用されたものとみられる。

二の丸はほぼ方形を呈し、長辺約50m、短辺約22mを測る。北端には古墳の墳丘(和田山八号墳)があり、本丸と同様、古墳の墳丘を物見櫓に利用したものとみられる。

和田山古墳群の発掘調査に伴い調査が行われたが、城の年代を知りうる遺物等は発見されていない。

室町時代中期に和田坊主が初めて築城したとの伝承もありが、詳細は不明である。現在の城の形は天正8年(1580)に柴田勝家が安井家清に本城を守らせた頃のものとされている。

情報提供:能美市観光交流課



城郭口コミ


2024/07/15 03:50気分爽快豊後守
和田山城:小高い丘に築かれているので、小雨の降る中傘をさしながら攻城してきました。二の丸、本丸の櫓台は古墳を利用しているとのことですが、バチが当たらんのだろうか。ただ、古墳群のおかげか、整備されていて横堀、土塁が見やすくなっています。北尾根の綺麗に並ぶ古墳を見ると、二の丸周囲の巨大堀でいくつか古墳掘り起こしてないか?といらぬ心配をしてしまいました。①二の丸北の横堀②二の丸の櫓台③二の丸。奥は櫓台④土橋と二の丸東の横堀⑤虎口と土橋と堀と土塁⑥本丸に続く土塁⑦本丸の土塁⑧西側の腰曲輪

2024/04/18 23:02RED副将軍
和田山城:空堀が見事な加賀一向一揆衆の拠点⁡オススメ度 ★★★★★⁡1506年に和田坊超勝寺によって築かれたと云われます。和田坊超勝寺は、越前で勢力を拡充した本願寺派の一向一揆勢力であり、朝倉氏に追われて加賀へ逃れてきた際に築いた拠点が和田山城とされます。その後、加賀の土着の門徒衆とも抗争を繰り広げるも勝利し加賀一向一揆衆の主導権を掌握。大聖寺城の支城として機能した様です。しかし、天正年間(1573年~1592年)に織田信長の軍勢が越前一向一揆を敗り、加賀に侵攻し平定されます。その後、北庄城に入った柴田勝家の家臣である安井家清が和田山城に入城しました。現在に残る遺構はこの頃に改修されたものと見られていま...

城郭攻略情報


2023/07/04 01:20
あざらし肥前守
小松市野田町、三草二木・西圓寺温泉。(❜18・1攻略)
2022/07/25 14:56
九曜紋東市正
JR北陸本線を福井から金沢方向に進行時、小松駅にて、小松城と共に攻略。
2018/09/18 05:02
中務大輔播磨の将軍
JR北陸本線の小松駅にて小松城と2城同時に攻略できました( ̄▽ ̄)
2018/06/04 09:22
キラキラ光る山城守きなこ姫
北陸道にて安定攻略です。
2017/09/17 14:58
かわきち太政大臣
北陸本線美川駅通過時に攻略できました。

城主争い

来月度の城主争い戦況

 1位 てぃー縫殿頭さん 174

 2位 くっきー能登守さん 114

 3位 十六夜越後守千代黒さん 103

和田山城の周辺スポット情報

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