船山城(ふなやまじょう)は長野県下伊那郡松川町にあった城。
概要
広大な縄張りと町屋の名残り
船山城(片桐城)跡は、松川町上片桐城地籍から中川村田島地籍にかけて所在しています。城跡のある城の段丘は、北側を相の沢、南側を南沢に挟まれ、東を流れる天竜川に向けて舌状に張り出したような幅の狭い大地で、標高は550mから580m、天竜川との高度差は85mから115mを測ります。
御射山神社前の大手跡と伝えられる堀切から東の丘陵末端部までの530mにわたる広大な範囲が城域で、大小6本の堀切によって5つの曲輪が構えられた連郭式の構造を示しています。城跡は「城畑」の平坦地と「船山」の丘陵地とに二分され、築城時期・構造に相違があります。
船山城の西側はさらに平坦面が続き城集落の民家が点在し、かつて天台宗宝珠院があったと伝えられる地をはじめ、片切氏の創建とも、また菩提寺とも伝えられる鳳雲山瑞應寺(臨済宗)があり、一帯には「古屋敷」・「中屋敷」・「宮の前」・「大手侍」・「大門」・「下小路」・「横小路」・「小路」・「小路頭」などの地名が残り、往時の町屋の名残を示しています。
城跡北側には「天神びら」の急斜面に続く断崖となり、「熊野洞」および「あいの沢」の渓谷を経て田島に続き、東から北東方向の丘陵下には「城の下」・「惣礼」・「中惣礼」・「町屋敷」・「小路」など、上段の平地に移る以前の古い町屋の名残を示す地名が江戸時代初期の検地帳によって知られます。
城跡の東半分、船山東端の曲輪に立てば東から北方の眼下には今は肥沃な田島の水田地帯ですが、かつては広大な天竜川氾濫原が一望され、片切氏土着の地ともされる中村(蔵人屋敷)の地をはじめ、古代東山道賢錐(かたぎり)駅推定地ともされる片桐一帯とその背後に広がる牧ヶ原、さらに片切氏一族の城館と伝えられる葛島城・前沢城なども一望のもとであり、香坂氏居城の
大草城、その背後には武田氏狼火台と伝えられる陣馬形の山並みも美しい展望の地です。
構造
山城丘城、2つの構造の城跡
船山城跡の東半分は「船山」と呼ばれる丘陵を利用した山城の構造を持ちますが、一方西側は「城畑」・「北の城」と呼ばれる平坦な部分を利用した丘城の構造を持ちます。東半分と西半分では立地・構造に大きな違いがあるのです。かつては船山部分を出丸出城とし、城畑部分を東より本丸(本郭)・二の丸(二の郭)としたり、船山部分西端の曲輪を主郭、城畑部分を東より二の郭・三の郭などと考えられたこともありました。これらは城跡を同一時期の築城による一連の縄張りと解釈しているものとみられますが、今日遺された遺構はその最終時の姿を伝えているわけであり、各方面の観察によれば、城畑と船山では明らかに築城時期が異なるものと思われます。
城郭の歴史からすれば、船山城は従来からいわれてきたような平安時代にまで遡り得ないものです。諸情勢から船山城の創築は南北朝時代以降であり、最初の縄張りは船山の丘陵部分を占める山城であったものとみられます。その後、戦国時代に至り、城畑の広大な平坦部を取り込む大規模な拡張が行われ、大手も拡張された曲輪の西端部に構えられ、城の下にあった町屋も城の西側一帯の平地に移転したものとみられます。これについては、この地方に残る旧記類、口碑、地名などの分析とも一致しています。
大手と堀切
城集落の東、御射山神社の入口に接して大手の跡と伝えられる地があり、南北に長い堀切の跡が残り、城域の西限を示しています。大手については、元は田島平より登った上段の所(船山と城畑の境の堀切東側)にあったといわれ、その後次第に町屋の発達に伴って今の場所に移ったものとされています。大手部分の堀切の規模は、南北延長220m、幅18mほどで、大部分は道路あるいは耕地となり埋められた部分も多いのですが、空堀とすれば相当規模のものであったことが知られます。大手北の堀底は田島平へ下る「城坂」と呼ばれる古道で、式年御柱祭の渡御神輿もこの坂を下って旧片切七里を巡行するのを古来慣例としています。この大手は船山城最終時の場所で、創築時からのものではありません。
城畑の縄張り
大手跡とその南北につながる大きな堀切跡より東方530mにわたる広大な範囲が船山城の全体ですが、城畑の縄張りは船山の丘陵までの260mの範囲です。城畑は東に緩く傾斜した段丘上の平坦地で、ほぼ中央部を南北方向の堀切によって二分しています。西側のⅠ郭は東西120m、南北160mの長方形状で、この城跡中最も広い曲輪です。Ⅰ郭の北隅には片切氏が勧請したと伝えられる御射山神社があります。神社の北から東にかけて土塁が一部残り、堀切をはさんで西方平地からの防禦線としています。
城畑を東西2つの曲輪に分ける中央の堀切は延長150mほどです。堀切の北半分はほとんど埋め立てられ僅かな窪地を遺すに過ぎませんが、南半分はおおよその規模を推測することができます。幅約20m、相当な規模の堀であったことが知られます。
中央の堀切より東のⅡ郭は東西110m、南北150mで、東辺が一部突出しています。「北の城」一帯は大地の端部が船山に平行する形で東方へ突出しており、小祠が3つあります。突出部から東へ下る尾根筋には、この尾根を分断する南北方向の二重堀切と土橋が認められ、その下方にはごく狭い腰曲輪ともいえる削平地を設けています。尾根筋は登攀するには容易なため、周到なる防禦線を設けたことが知られます。
北の城の地は船山の北にあたる位置からして古くより、つまり城畑に城郭としての縄張りがなされていなかった時期においてこの地が城の北の地を意味する呼び方があったものか、あるいは二次的に城畑に縄張りが拡張された時、先より所在した船山城の山城に対して北の城という意味で呼ばれたもの等が考えられ、船山城が大きく二時期にわたって築城されたであろう有力な根拠の1つとなっています。
Ⅱ郭の北側斜面は急崖の山林となっていますが、その中腹斜面の緩い僅かなテラス部分に洞伝いに登る山道に沿って土塁状の高まりと枡形を形成する部分があります。北側斜面の防禦線の1つでしょうか。
船山の縄張り
城畑と船山の間には自然地形を利用した深い堀切があり、ここより東は中川村の行政区に入ります。堀切より東は、段丘の末端部が周囲からの浸食を激しく受けた結果、大地が馬の背状に残されたもので、周囲は急崖な山林原野で、山肌には巨岩が露出し、浸食の激しさと大地の老朽化を物語っています。船山部分は馬の背状の尾根を堀切によって分断し、頂部を削平して大きく3つの曲輪を構成した典型的な山城構造を示しています。
城畑と船山を区切る堀切より東へ登ると灌木の密生した赤松の疎林で、左右に土塁があり、南北幅は最大で40m、東西は120mの東西に長い平坦地のⅢ郭があります。このⅢ郭の西半分の縁部には土塁が残り、特に西側の堀切に面した土塁は規模が大きく、西方からの侵入に備えています。北部には土塁が切れた部分があり、ここが虎口で、第一期の大手口と考えられます。
Ⅲ郭の東には尾根を南北方向に切る幅17m、深さ18mの深い堀切があり、さらに東方のⅣ郭に続いています。東西43mほどの馬の背状のⅣ郭には頂部を広く削平するなどの普請は行われていませんが、4個所ほどに人工的な平場が認められ、何らかの施設が存在したことを物語っています。Ⅳ郭東は浅く規模の小さな堀切をはさんで船山稲荷のあるⅤ郭に続いています。
Ⅴ郭は本城跡東端の曲輪で、東西45m、南北20mの平坦地で、西の堀切に面して土塁が、西縁やや南寄りには石積による虎口が残っています。また北縁中ほどにも石積による虎口が認められ、ここより急傾斜の山道が田島へ下っています。この山道は古くからのもので、船山城の搦手とも考えられます。西側の堀切を背にして祀られる船山稲荷は城下の田島の人たちがお祀りしています。社の前に半ば埋もれた状態で礎石が並んでいますが、これは城とは関係なく、かつてあったあずま屋の礎石です。
Ⅴ郭の東斜面は急崖となって氾濫原に落ちています。この尾根筋に規模の小さな堀切と竪堀および腰曲輪があります。また南側の斜面には東西に長く伸びる幅の狭い腰曲輪とみる平場があります。ともに東の尾根筋や南沢からの侵入に備えた防禦施設とみられます。
歴史・沿革
片切氏の築城か
船山城の名は地方旧記類によれば東方の丘陵があたかも船を山上に伏せたごとく見えることからこう呼ばれるようになったと記録されています。瑞應寺の畳一畳余の大きさの掲額にも「舟城閣」とあることから、何らかの由緒があるものかもしれません。ただ「船山城」という名の城はこの地域の古い史料には出てきません。おそらくは「片桐の城」、あるいは「片桐城」と呼ばれたものでしょう。
船山城についての史料はほとんど存在しないため、城の創築年代、存続年代、築城者および在城者、また廃城の経緯など、確かなことはわかりません。船山城の所在地が「片桐」であること、そして『平治物語』や『保元物語』、『吾妻鑑』などに信濃武士として記述されている片切氏(近世以降は「片桐」と記す)が伊那源氏の正統として中伊那の一帯に勢力を持ったことから、この片切氏が築城・在城したものと考えられています。
伊那源氏の正統、片切氏
片切氏は、平安時代の末に伊那谷北部に発祥した伊那源氏の始祖源為公(ためたか)の第5子為基(ためもと)が片切に移り住み、在名をもって蔵人大夫片切源八と名乗ったのに始まります。その庶流には、名子・大島・岩間・飯島・赤須・前沢などの諸氏があります。
為基の孫片切弥太郎為重は保元の乱(1156)に源為義に属して戦死し、また片切小八郎景重は保元・平治の両度の合戦に源義朝(頼朝の父)に属して奮戦しましたが、源氏方の総敗軍の中、乱戦の中に討死してしまいました。
源氏の衰退と共に片切郷の所領は平氏に没収されましたが、やがて源氏が興るに及んで景重戦死の20余年後、源頼朝よりその子片切太郎為安に旧領が安堵されたことが鎌倉幕府の公文書たる『吾妻鑑』元暦元年六月廿三日の状に記録されています。
「二十三日庚辰、片切太郎為安を信濃国より召出され、殊に憐愍せしめ給う。是れ父小八郎大夫は、平治逆乱の時、故左典厩の御共たるの間、片切郷は平氏の為に収公せられ、巳に二十余年手を空しうす。仍て今日元の如く領掌すべきの由、仰せらる」云々。
父片切小八郎大夫景重戦死の恩賞として事後20数年、伊那郡のうち春近領といわれる公領の中の片切郷を安堵された片切為安は、鎌倉幕府の御家人として奉公します。後、片切氏は北条党として活躍し、得宗領となった春近領の地頭池上氏の下、名子郷の地頭代として領民を支配しました。承久3年(1221)の承久の乱において東山道軍として参戦した片切源太長頼とその弟前沢源三郎盛友は京都において戦死しました。乱吾妻鑑に記された片切為安の条の後、父戦死の功により長頼の子為頼は美濃国彦次郷を恩賞として賜りました。この長頼より11代後が賤ヶ岳七本槍の1人、片桐且元といわれます。
室町時代には片切氏は小笠原氏に属し、応永7年(1440)の大塔合戦には信濃守護小笠原長秀に従って大塔の古城に籠り、片切氏ら春近の人々はあるいは戦死し、あるいは傷を負い、辛酸を舐めました。永享12年(1440)の結城合戦には信濃守護小笠原政康に従って出陣し、その陣番帳24番に「片切殿」の名を残しています。
戦国時代に至り武田信玄の伊那侵攻を受け、片切氏も武田の軍門に下ります。この時の当主については定かでなく、隼人正政忠あるいは隼人正政公、小八郎長公の代ともいわれます。永禄10年(1567)武田信玄が徴した起請文には片切源七郎昌為、片切二兵衛尉為房の名があります。
天正10年(1582)織田信長の甲信侵攻により武田氏滅亡後は徳川家康に属しますが、豊臣政権下に武家としての家を失い帰農しました。その後の確かな系譜は不詳ですが、正系とみられる一族(片桐氏)は水窪山中の間庄に土着し、代々庄屋を務めたといい、10数年前頃までは瑞應寺とも交流がありましたが今はそれも絶え、その関係者は福島県に移住したといわれます。
情報提供:松川町教育委員会