※この城郭は2026年4月6日に名称と位置が変更となりました。
夏戸城(なつどじょう)は、新潟県長岡市寺泊夏戸にある山城。
概要
室町時代から戦国時代にかけて上杉家の重臣として活躍した志駄氏の居城である。尾根を削り、堀を掘って造られた曲輪(平地)や櫓台、土塁、堀切、横堀、竪堀、畝形竪堀、虎口などが今も残されており、新潟県を代表する山城の1つとして長岡市の史跡に指定されている。
遺構
館小路
館小路(たてこうじ)と呼ばれる、城主の館から本丸へ通じた大手道。館小路をはさんで北側に下町、南側に中町・下町・横町という城下町にちなむ地名が残っている。館小路を進むと、途中に屋敷状の平地があり、この先の急坂を登ると、左手に本丸、右手の奥に下ノ城が見えてくる。
本丸
1000㎡以上もある広い曲輪で、戦時には城主が指揮を執る最も重要な拠点であった。現在は「城ノ腰」と呼ばれている。
下ノ城・櫓台
下ノ城(しものしろ)は、本丸の下に位置する2番目に重要な場所である。敵の侵入を監視するための櫓台が設置されていた。
二重堀
下ノ城の東側には、敵の侵入を防ぐための二重の空堀がある。堀の間には土塁が築かれ、防御を固めている。
土橋
下ノ城・本丸と詰ノ丸を結ぶ通路として利用されていた。
堀切
詰ノ丸手前の尾根を深く掘削したもので、底には土橋が通っている。
横堀
堀切を南に進むと現れる横堀の外側には防御用の土塁が築かれ、敵の侵入を阻む構造になっている。
詰ノ丸
詰ノ丸は夏戸城最高所に位置する最終防衛拠点で、「要害」と呼ばれる。北側の畝形竪堀や周囲の堀切・竪堀で厳重に守られており、南側中腹には貴重な水源(清水)も備えています。
馬道
南側から城へ続く道は、馬で武器や食料を運搬するための糧道であったと考えられる。
大堀切
馬道の登り口から北にあるこの堀切は、夏戸城で最大規模を誇る。底幅が広い箱堀という形状で、南側からの敵の侵入を阻止する役割を果たしていた。
歴史
志駄氏は、源為義の3男・義広が常陸国(茨城県)信太荘に住み、志駄氏を名乗ったのが始まりである。3代義安が建長4年(1252)に上杉房重に従って以来、代々上杉家の家臣となった。6代定重が応永22年(1415)に弥彦神社へ奉納した大太刀(長さ2.204m)は、現在国の重要文化財に指定されている。
9代景秀は、越後守護上杉房方から夏戸の地を賜り、応永年間(1394~1428)頃に集落の裏山に夏戸城を築いたものと考えられる。
13代春義は長尾為景や上杉謙信に仕え、永正の乱や関東出兵で活躍。14代義時は第4次川中島の戦い(1561年)にて、謙信の目の前で討死した。最後の城主となる15代義秀は直江家で育てられ、
御館の乱や長谷堂合戦で活躍。のちに山形へ移り、上杉家の要職を務めた。山形県米沢市の善光寺に墓がある。
伝説・民謡
夏戸扇おけさ
扇おけさは、日の丸の扇を二重にかざして踊る優雅な舞で、城主志駄氏の戦勝を祝い夏戸の人たちが舞ったといわれている。近年、誰でも踊れるよう民謡調にアレンジされ、現在は郷土芸能として扇おけさ保存会によって受け継がれています。
四ツ塚
本丸には、廃城の際に鎧や兜、不用品などを埋めて築かれたと伝えられる塚がある。現在は3つだけが残っているが、かつては4つの塚があったと考えられている。
白米伝説
詰ノ丸の南麓にある「馬洗池」には、将兵が馬を洗ったという伝承がある。また、伊奈胡城との戦において敵に水源を断たれた際、白米を水に見せかけて馬を洗い、水が豊富にあると欺いて勝利したという「白米伝説」も残っている。
ほま畑
夏戸小学校跡(トキ分散飼育予定地)は、かつて「ほま畑」と呼ばれる広い畑で、夏戸城の馬場があったといわれている。
参考文献
・『夏戸城跡めぐり』夏土城跡保存会。
情報提供:長岡市観光企画課