※この城郭は2024年4月6日に名称と位置が変更となりました。
丸山城 (まるやまじょう)は、神奈川県伊勢原市下糟屋にあった日本の城。
歴史的位置
丸山城は、伝承、文献が少ない「幻の城」です。江戸時代末の天保12年(1841)に刊行された『新編相模国風土記稿』には、平安時代末から鎌倉時代初期に活躍した糟屋有季の居跡として、「西北の方にて、八幡境内(註:現在の高部屋神社)より社領の地に係り、東西百余間、南北百十余間、其辺を殿ノ窪と字せり、四面に堀の遺形あり、(中略) 按ずるに、此地有季の居跡とのみ云うけれど」と記されています。
明治時代になって殿ノ窪は丸山となり、明治20年にまとめられた「下糟屋村外六ヶ村地誌」の中に「丸山城」という名前が初めて見られ、昭和8年に刊行された『延喜式内社高部屋神社小誌』には、糟屋有季の居跡としながらも、「千鳥ヶ城」という別名が登場します。また、昭和28年刊行の『神奈川県中郡勢誌』では、糟屋氏歴代の居城とし、糟屋荘の政所との説が述べられています。
糟屋荘は、平安時代末の久寿元年(1154)に京都伏見にある鳥羽上皇が造営した安楽寿院の荘園として認められ、現在の伊勢原市から平塚市にかけての広い範囲にわたると考えられています。丸山城は、その糟屋荘の総社とされる高部屋神社の周辺に広がっています。
城の範囲
丸山城は、高部屋神社を中心に下糟屋の丘陵上に位置し、西は東海大学病院のある上ノ台、東は普済寺あたりまで城郭遺構が確認されています。また、普済寺の東側では、建物址や井戸、地下式坑、柵列などが発見され、生活エリアが広がっています。
丸山城址公園部分については、昭和60年に伊勢原市教育委員会が詳細分布調査を実施した結果、丘陵部で堀、土塁、竪穴状遺構などが確認され、室町時代後半のかわらけや陶器が出土し、中世城郭の存在が明らかになったことから、その一部を公園として保存することとしました。
発見遺構
市教育委員会では公園整備に先立ち、遺構の配置を確認するための範囲確認調査を実施しました。その結果、公園用地中心部の上段には幅10m前後の土塁がまわっており、一部を除きほとんどは削られていますが、トレンチ調査により地中で土塁の盛土を確認し、その基底面が地表面下1~2mの所にあることがわかりました。土塁に囲まれた平坦部分では、建物址も確認されています。
また、下段には、上段の外側を取り巻くように堀が巡っており、その幅は16m前後、深さは4~6mを測り、堀の底面には仕切り(障子)や衝立状の段差が確認されています。形態としては堀障子に似ていますが、階段状の掘り残しがそのまま残されており、造りかけとも考えられます。この堀の外側にも、幅10m前後の土塁が造られていたことが確認されています。
この他、高部屋神社の北側では断面逆台形の堀が鉤の手状に確認されています。内部には同様に障子状の施設が見つかりました。この部分の土塁は、幅約11m、高さ4mを測ります。
公園の北側では、L形に曲がる道状遺構が確認されました。南から北へ下る断面V字形の溝状で、底面は硬く踏み固められています。その先は東側に曲がっており、一段下の公園外へと続くと推定されます。丸山城の北からの入口施設(虎口)と考えられます。
出土遺物
丸山城から出土した遺物は、青磁、白磁、かわらけ、陶器、瓦等です。出土量は多くありませんが、それらの時期は、鎌倉時代から室町時代前半と室町時代後半から戦国時代にかけての時期に二分されます。
前者は一部が糟屋氏の時期と重なり、後者は当地域で活躍した太田道灌の時代にあたります。丸山城の規模や構造を考え合わせると、道灌の主君である上杉定正に関連する城(館)の可能性も想定されます。
情報提供:伊勢原市教育委員会