名称(よみ) | 大崎城(おおさきじょう) |
通称・別名 | 矢作城、城山 |
所在地 | 千葉県香取市大崎字城の内他 |
天気情報 |
04/07(月) 降水確率:50% |
地図 | マップ/周辺の城/NaviCon |
問い合わせ | 香取市生涯学習課[電話] |
分類・構造 | 平山城 |
築城主 | 国分胤通 |
築城年 | 鎌倉時代前期 |
主な城主 | 国分氏、鳥居氏 |
廃城年 |
慶長5年(1600)頃 |
遺構 | 土塁、横堀(空堀)、掘立柱建物跡、住居跡 |
指定文化財 | 市史跡(大崎城跡) |
再建建造物 | 碑、説明板 |
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矢作城(やはぎじょう)、または大崎城(おおさきじょう)は、千葉県香取市大崎にあった日本の城。「大崎城跡」として香取市指定史跡。
概要
矢作城は大崎城とも呼ばれ、城址は香取市大崎字城内を中心としている。本矢作城主第4代の国分胤長の第二子・泰胤が城替えして拠ったもので、旧城には一族の行常が残った。
大崎の地はもともと、足利家氏の次男である斯波宗家の領有した大崎庄であったが、斯波氏がここを離れ、奥州を本拠とするようになったので、国分泰胤はその後を受けて領主となった。矢作城は、本矢作城に比べかなり大きく、さらに要害で、耕地が開けて佐原にも近く、交通至便である。本矢作城から移ったのは、14世紀の初め頃と言われる[1]。
戦国末期になると、他の千葉氏の城と同じく北条氏の配下に属したが、何度か里見氏の属将正木氏に攻められている。これにより、永禄8年(1565年)に一度落城したとの説がある。その後、正木氏は小見川を捨てて上総に引き上げたので、国分氏は再び城地を回復したが、天正14年(1586年)に再び正木軍の攻撃を受けて落城した。
天正18年(1590年)、矢作城は豊臣秀吉下の徳川家康の軍勢により開城させられた。このとき、国分氏は常陸鹿島惣大行事のもとへ逃れて庇護を受け、のちに水戸家の食客となった[2]。
構造
矢作城は、「城の内」と「外城」に分けられる。
城の内は、本妙寺の横から与倉を通って国道51号線に抜ける道路の北側にあり、本丸跡と妙見社が祀られた跡がある。外城は、本妙寺の南で、白旗神社のあたりまで多くの空堀があったという。大手門はこの南にあったと推定される[3]。
アクセス
- JR成田線佐原駅から多古行きバス 橋本下車 徒歩15分
参考文献
- 平井聖ほか 1980年「矢作城」『日本城郭大系 第6巻 千葉・神奈川』新人物往来社 p.65
2025/04/03 22:59 マグロ常陸介祐平
所城:日本城郭大系には天正年間に大須賀氏と粟飯原氏の居城だったといわれているとしていますが、お城の麓の御堂の脇に建つ「小貫平右衛門歴代之碑」には、所城之古事として我祖武田大学助重一が大永六年(1526円)に設けたとしています(写真3枚目,地衣類が激しく全文読めない)。お城は、逆くの字型の北に伸びる台地を利用したもので、4つの曲輪が並ぶ連郭式の縄張りとなっています。北側の1郭と2郭を仕切る堀切は底を埋められて畑となっていますが(写真1枚目)、巾の広さがよく分かります。1郭の北側には、土塁や空堀が残るようですが、草が高く見れていません。2郭の東下には小貫家の墓地となる腰郭が見られます。2郭と3郭のを仕切...
2025/02/16 21:15 征夷大将軍ヒトリモン
村田城:城域の南を走る道が頂部でカーブする所に標柱が立っており、案内板はないが2郭の妙見神社への参道がついていますどうにかすれば車1台は停め置けそうです
来月度の城主争い戦況
1位 kinakoさん 39回
2位 てんてんさん 34回
3位 男爵主殿允デスティーノさん 27回
攻略数:城 家臣団:人 |
異名:個 官位:個 |
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