名称(よみ) | 里見城(さとみじょう) |
所在地 | 群馬県高崎市下里見町字古城 |
天気情報 |
05/17(金) 降水確率:0% |
地図 | マップ/周辺の城/NaviCon |
問い合わせ | 高崎市文化財保護課[電話] |
分類・構造 | 山城 |
築城主 | 新田義俊 |
築城年 | 保元元年(1156)? |
主な城主 | 里見氏 |
廃城年 |
嘉吉元年(1441) |
遺構 | 曲輪、土塁、横堀(空堀) |
指定文化財 | 市史跡(里見城跡) |
再建建造物 | 碑、説明板 |
2024/01/07 23:41 マグロ常陸介祐平
里見城:新田義重の子、里見義俊が築城し十代家基が結城合戦で戦死するとその子義実が安房白浜に転出したことにより、廃城となったようです(一族がその後も居城した説も)。外郭は、墓地や畑となり分かりづらいですが、土塁の残る本郭や腰郭・本郭と外郭を分断する堀切はよく残っています。里見地区には、新田義貞は里見で育ち、新田宗家の養子になったという伝承があるようです。
2022/04/16 21:48 国府左京大夫城介
下室田の松山城:西上州に進出した北条氏の対真田氏への拠点【歴史】天正10年(1582)に、北条氏直が上田朝直の子・長則に命じて築城した。上田氏の本城である武蔵松山城に因んで名づけられた。その後、天正18年(1590)の小田原征伐において、上杉・前田連合軍の前に無血開城し、そのまま廃城となった。(注)説明版では、「上田安礫斎信義の嫡子、上田上野介信善に命じた」と書かれていますが、各種資料を勘案して、上田信義=上田朝直、信善=長則(上野介と記載されており、長則は能登守なので、弟の憲定の可能性もあり。憲定が家督を継ぐのは長則が亡くなった翌年の天正11年なのでおそらく長則だと思っています)と解釈しています。【遺構】里...
来月度の城主争い戦況
1位 よっしー能登守さん 175回
2位 日本史跡研究会さん 127回
3位 ぱんださん 64回
攻略数:城 家臣団:人 |
異名:個 官位:個 |
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