武茂城(むもじょう)

武茂城 投稿者:よたろ〜上野介景能さん
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00時間

45

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城郭基本情報

名称(よみ) 武茂城(むもじょう)
所在地 栃木県那須郡那珂川町馬頭字馬場東他
天気情報

06/02(月) 降水確率:30%
25℃[+5]9℃[-2] 詳細

地図 マップ周辺の城NaviConYahoo!カーナビ
問い合わせ 那珂川町役場[電話
分類・構造 山城
築城主 武茂泰宗
築城年 1288〜1299年
主な城主 武茂氏、太田氏
廃城年 慶長7年(1602)
遺構 曲輪、帯曲輪、腰曲輪、物見台跡、土塁、横堀(空堀)、堀切、櫓跡
指定文化財 県史跡(武茂城跡)
再建建造物 石碑、説明板
武茂城は栃木県那須郡那珂川町にある城。武茂川に面した丘陵上に築かれ、城下には街道が通る水陸交通の要所である。静神社の参道から登城できる。

歴史 

武茂城は、永仁年間(1288~1299)に宇都宮景綱の三男で武茂氏の祖とされる武茂泰宗によって築かれたと伝わる。泰宗は、元寇の際、兄貞綱とともに九州に赴き活躍した。

南北朝時代には、武茂泰藤・氏泰兄弟が新田義貞とともに南朝方の中心的存在として活躍したことが『太平記』に見える。義貞が討ち死にした北陸での戦いの後、泰藤は武茂に戻らず、三河にて南朝挽回のために兵を集めたが、最後は三河国六ツ美村(現岡崎市宮地町)で没したという。なお、この泰藤の系統が三河で土着し、徳川譜代の家臣になる三河大久保氏となり、小田原藩の大久保氏、烏山藩の大久保氏などがこの後裔にあたる。弟の氏泰は、武茂に戻って北朝に属し、領地の支配にあたった。

以降、武茂氏は宇都宮一族の分家の中でも重要な家柄として存続し、本家宇都宮氏が途絶えた際には、武茂氏の当主が宇都宮家に入った。そのため、武茂氏は一時的に断絶していた時期があり、詳細は不明ながら白河結城氏が一時的に武茂の地を領していたことが寄進状などから確認できる。

その後、武茂氏は再興し武茂城を本城にするものの、天文年間(1532~1555)末期には、下野国に進出してきた常陸佐竹氏に属していることが、佐竹氏が発給した所領安堵状から確認できる。

また、永禄6年(1532)以降、佐竹氏が那須氏と戦闘状態になると、那須氏の本拠烏山城と那珂川を挟んで指呼の距離に位置する武茂城の武茂氏は、佐竹方の最前線として那須氏と幾度となく戦いを繰り広げた。天正10年(1582)には、那須軍が武茂城の城下まで攻め寄せ、武茂守綱が撃退したと伝わる。武茂城の詳細は不明ながらも、このような緊迫した状況の中で改修整備され、戦国時代末期まで断続的に使用されたと考えられる。

天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、武茂氏は佐竹氏とともに秀吉軍に加わった。その後、秀吉による太閤検地が行われると、佐竹氏が知行割りと配置転換を行ったため、武茂氏は佐竹氏の家臣として常陸国大賀村に移封となり、武茂城には太田景資が入った。さらに、慶長7年(1602)、佐竹氏が秋田へ移ると、太田氏と武茂氏は佐竹氏に従い秋田へ移住し、武茂城は廃城となった。

遺構 

武茂城は、乾徳寺を囲む丘陵上に築かれており、乾徳寺の東側に東城、西側に本城、さらに本城の西側に西城がある。

東城南麓の那珂川町総合体育館周辺には「根古屋」の地名が残ることから、家臣団の屋敷地である根古屋が形成されていたと考えられる。また、城下を通る街道には、「曲之手」と呼ばれるクランク状に道が曲がる箇所が残っている。この曲之手は、戦国時代に造られた町場構造だと考えられる。

東城は東西に展開しており、東端に本丸が配置され、本丸背後の尾根は堀切で遮断されている。本丸と二の丸の間には基壇状の高まりがあり、建物跡と想定される。本丸、二の丸を囲むように中小の郭が配置されており、斜面を切岸にして防御性を高めているのが見て取れる。本丸西側の腰郭には南麓からアプローチする虎口があり、その登城路に対して竪堀を入れている。そこから本丸へ続くルート上には、物見台や堀切を配置して侵入を遮断しようとする意図が見て取れる。

本城は南北に展開しており、三の丸直下の郭には現在、静神社が鎮座している。本城の虎口は西側にあり、現在の馬頭小学校の裏手から、この虎口に繋がる道筋が大手道と想定できる。なお、馬頭小学校の場所は「古舘」の字名が残ることから、ここに館が置かれていた可能性も指摘されている。

三の丸から北に向かって、二の丸、本丸、出丸が配置されている。三の丸と二の丸の間の堀は城内最大規模であり、木橋が架かっていた可能性も指摘されている。

本丸の東隅には、天守櫓跡と伝わる高まりが残る。本丸は東、西、北の3方向を囲むように堀がめぐらされ、堀を挟んで西側に物見台、北側には出丸が配置されており、これらによって西側緩斜面からの侵入者と、北側の尾根伝いの侵入者を阻む意図が見て取れる。また、本丸東側には長大な横堀が施されている。

西城は、本城と馬頭院の間の丘陵上に築かれていて、主に3つの郭で構成される。西側のみに横堀が掘られていることから、本城の西側を守るための出城であると考えられる。

交通 

・車:国道293号で旧馬頭町市街地へ。室町交差点から静神社を目指す。
・バス:JR烏山駅から40分馬頭役場前下車徒歩1分。

参考文献 

・『馬頭町史』馬頭町史編さん委員会、馬頭町、1990年。
・『関東の名城を歩く・北関東編』峰岸純夫、齋藤慎一、吉川弘文館、2011年。

文:山城ガールむつみ



城郭口コミ


2025/05/15 02:06気分爽快武蔵守
武茂城:静神社の麓に駐車場があるので、車を停めてゆっくり見て回れます。長い石段を登ると城域です。主郭東の堀は深く大きいので、上から狙われたら逃げ場が有りません。乾徳寺の東に東城、馬頭小学校の北に西城があるようなので、時間に余裕のある方は合わせて探索されるのも良いかと思います。①現地縄張り図によると静神社の東は武者溜りらしい②ニノ郭西の竪堀③ニノ郭より見た主郭④主郭南の土橋と堀⑤主郭西の堀⑥主郭北の堀⑦土塁と堀と主郭⑧北の端にある堀切

2025/05/11 01:39ʀᴇᴅ副将軍
高部向館:高部館の南側を堅める出城🏯⁡オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎⁡築城年代等の詳細不詳。高部氏に築かれた高部館の出城と考えられています。高部氏は佐竹氏一族とされ、鎌倉時代に七代当主の佐竹義胤の五男である景義が当地を領して高部氏を称したのが始まりとされ、美和村の諏訪神社の神官として続きました。⁡見所高部館から緒川を挟んだ南側にある標高約230mの南北へ伸びる尾根先端部に築かれています。南北に長い主郭には三峯神社が祀られており、南側背後にL字土塁があり、その更に南の尾根筋は四条の堀切で遮断され、堀切の端部は竪堀となり落ちています。主郭西側には四段の広い段郭が連なり、主郭東側は深い谷間の要害となっています。⁡...

城郭攻略情報


2024/09/14 10:28
ノプピロ中務卿
麓駐車場から、石段150段を登った境内手前でリア攻め。
2024/03/10 14:45
常陸介はるか
大桶運動公園にて攻略。
2023/05/16 11:46
ペロモグラ
烏山駅から那珂川町役場行きバスの広域センター前バス停で攻略
2022/07/15 18:29
あざらし肥前守
公共交通:一例以前の東野バス⇒関東自動車が存続、JR東北本線西那須野駅東口〜先に黒羽方面に行き、トコトコ大田原まで戻って乗換し馬頭温泉方面へ。那珂川町小川地区あたりで可、烏山駅に行く那珂川町コミュバス馬頭烏山線に乗るため、道の駅ばとう迄乗車。烏山行のバス停はR293沿い、駅まで現在500円。(❜18・7攻略)
2021/09/24 13:49
戸沢夜叉九郎正樹
西那須野駅発の関東バス馬頭車庫行きで上町バス停付近で攻略。

城主争い

来月度の城主争い戦況

 1位 大蔵大輔じいじさん 1

 2位 ファン太さん 1

 3位 ジュニア越後守さん 1

武茂城の周辺スポット情報

 本丸跡(遺構・復元物)

 土橋(遺構・復元物)

 武茂泰宗像(碑・説明板)

 高部館(周辺城郭)

 松野南城(周辺城郭)

 小田野城(周辺城郭)

 高部向館(周辺城郭)

 武茂東城(周辺城郭)

 トイレ(トイレ)

 高部館駐車場(駐車場)

 静神社駐車場(駐車場)

 登城口(その他)

 

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