武茂城は栃木県那須郡那珂川町にある城。武茂川に面した丘陵上に築かれ、城下には街道が通る水陸交通の要所である。静神社の参道から登城できる。
歴史
武茂城は、永仁年間(1288~1299)に宇都宮景綱の三男で武茂氏の祖とされる武茂泰宗によって築かれたと伝わる。泰宗は、元寇の際、兄貞綱とともに九州に赴き活躍した。
南北朝時代には、武茂泰藤・氏泰兄弟が新田義貞とともに南朝方の中心的存在として活躍したことが『太平記』に見える。義貞が討ち死にした北陸での戦いの後、泰藤は武茂に戻らず、三河にて南朝挽回のために兵を集めたが、最後は三河国六ツ美村(現岡崎市宮地町)で没したという。なお、この泰藤の系統が三河で土着し、徳川譜代の家臣になる三河大久保氏となり、小田原藩の大久保氏、烏山藩の大久保氏などがこの後裔にあたる。弟の氏泰は、武茂に戻って北朝に属し、領地の支配にあたった。
以降、武茂氏は宇都宮一族の分家の中でも重要な家柄として存続し、本家宇都宮氏が途絶えた際には、武茂氏の当主が宇都宮家に入った。そのため、武茂氏は一時的に断絶していた時期があり、詳細は不明ながら白河結城氏が一時的に武茂の地を領していたことが寄進状などから確認できる。
その後、武茂氏は再興し武茂城を本城にするものの、天文年間(1532~1555)末期には、下野国に進出してきた常陸佐竹氏に属していることが、佐竹氏が発給した所領安堵状から確認できる。
また、永禄6年(1532)以降、佐竹氏が那須氏と戦闘状態になると、那須氏の本拠
烏山城と那珂川を挟んで指呼の距離に位置する武茂城の武茂氏は、佐竹方の最前線として那須氏と幾度となく戦いを繰り広げた。天正10年(1582)には、那須軍が武茂城の城下まで攻め寄せ、武茂守綱が撃退したと伝わる。武茂城の詳細は不明ながらも、このような緊迫した状況の中で改修整備され、戦国時代末期まで断続的に使用されたと考えられる。
天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、武茂氏は佐竹氏とともに秀吉軍に加わった。その後、秀吉による太閤検地が行われると、佐竹氏が知行割りと配置転換を行ったため、武茂氏は佐竹氏の家臣として常陸国大賀村に移封となり、武茂城には太田景資が入った。さらに、慶長7年(1602)、佐竹氏が秋田へ移ると、太田氏と武茂氏は佐竹氏に従い秋田へ移住し、武茂城は廃城となった。
遺構
武茂城は、乾徳寺を囲む丘陵上に築かれており、乾徳寺の東側に東城、西側に本城、さらに本城の西側に西城がある。
東城南麓の那珂川町総合体育館周辺には「根古屋」の地名が残ることから、家臣団の屋敷地である根古屋が形成されていたと考えられる。また、城下を通る街道には、「曲之手」と呼ばれるクランク状に道が曲がる箇所が残っている。この曲之手は、戦国時代に造られた町場構造だと考えられる。
東城は東西に展開しており、東端に本丸が配置され、本丸背後の尾根は堀切で遮断されている。本丸と二の丸の間には基壇状の高まりがあり、建物跡と想定される。本丸、二の丸を囲むように中小の郭が配置されており、斜面を切岸にして防御性を高めているのが見て取れる。本丸西側の腰郭には南麓からアプローチする虎口があり、その登城路に対して竪堀を入れている。そこから本丸へ続くルート上には、物見台や堀切を配置して侵入を遮断しようとする意図が見て取れる。
本城は南北に展開しており、三の丸直下の郭には現在、静神社が鎮座している。本城の虎口は西側にあり、現在の馬頭小学校の裏手から、この虎口に繋がる道筋が大手道と想定できる。なお、馬頭小学校の場所は「古舘」の字名が残ることから、ここに館が置かれていた可能性も指摘されている。
三の丸から北に向かって、二の丸、本丸、出丸が配置されている。三の丸と二の丸の間の堀は城内最大規模であり、木橋が架かっていた可能性も指摘されている。
本丸の東隅には、天守櫓跡と伝わる高まりが残る。本丸は東、西、北の3方向を囲むように堀がめぐらされ、堀を挟んで西側に物見台、北側には出丸が配置されており、これらによって西側緩斜面からの侵入者と、北側の尾根伝いの侵入者を阻む意図が見て取れる。また、本丸東側には長大な横堀が施されている。
西城は、本城と馬頭院の間の丘陵上に築かれていて、主に3つの郭で構成される。西側のみに横堀が掘られていることから、本城の西側を守るための出城であると考えられる。
交通
・車:国道293号で旧馬頭町市街地へ。室町交差点から静神社を目指す。
・バス:JR烏山駅から40分馬頭役場前下車徒歩1分。
参考文献
・『馬頭町史』馬頭町史編さん委員会、馬頭町、1990年。
・『関東の名城を歩く・北関東編』峰岸純夫、齋藤慎一、吉川弘文館、2011年。
文:山城ガールむつみ