シャリ陣屋(しゃりじんや)

城郭基本情報

名称(よみ) シャリ陣屋(しゃりじんや)
通称・別名 津軽藩シャリ陣屋
所在地 北海道斜里郡斜里町52番地24
天気情報

05/05(日) 降水確率:20%
17℃[+9]3℃[±0] 詳細

地図 マップ周辺の城NaviConYahoo!カーナビ
問い合わせ 斜里町役場[電話
分類・構造 陣屋
天守構造 なし
築城主 津軽藩
築城年 文化4年(1807)
主な城主 津軽藩
遺構 消滅
指定文化財 町史跡(津軽藩士シャリ陣屋跡)
再建建造物 碑、説明板
シャリ陣屋は文化4年(1807)、幕府から斜里地方の沿岸防衛を命じられた津軽藩が設置した陣屋である。

この陣屋には約100名の津軽藩士が詰めたが、ロシア船からの防衛を最優先に海を望む場所に設置されたことや、急拵えのため生木で作られており、隙間風がひどかったことなどから、初めての越冬において東北・津軽出身の藩士らでも耐えられないような寒さに苛まれ、新鮮な食材がないことによるビタミン不足もあって多くの藩士が死亡した。

陣屋跡には遺構は残されておらず、生存した藩士が記した『松前詰合日記』を元に推定した場所が史跡となっている。


城郭口コミ


2022/02/17 13:05RED副将軍
シャリ陣屋:ロシアからの沿岸警備の陣屋一冬で大半の藩士が犠牲となった津軽藩士殉難の地⁡オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⁡1804年にロシア使節レザノフが長崎来航すると、以降ロシアは蝦夷地を侵害。1807年に、幕府から斜里地方の沿岸防衛を命じられた津軽藩が陣屋を設置。ロシア船からの防衛のため、約100名の津軽藩士が詰めました。しかし、急造のバラック建てでは厳しい寒さと食糧不足を防げず、一冬で72人の犠牲者を出し、翌年帰国できたのはわずか17人でした。翌年の1808年に藩士たちは帰国し、陣屋は自然消滅しました。⁡見所標柱、案内板があるのみで遺構は残らず。かつては長屋3棟・倉庫・剣術稽古所・弁天堂・遠見番所で構成...

2021/02/22 04:05綱島出雲守八雲
シャリ陣屋:説明表示板によると江戸幕府より沿岸警備を仰せつかった津軽藩は藩士100名を派遣。宿舎等設営するも過酷極まる気候風土と浮腫病の蔓延で翌年生きて帰還できたのは僅か17名であったと記載してある。死没者の過去帳が当時の悲惨さを語っていると伝えている。説明表示板は知床斜里駅から車で4分程度の攻略マップ通りの位置にあり。駐車場はなし(人通りもなし)。トイレなし(遺構らしき跡形もなし)。

城郭攻略情報


2023/08/05 16:34
あざらし肥前守
公共交通:一例網走〜JR釧網本線で、止別・知床斜里など、確かに止別あたりまでは入らず。(❜19・5攻略)
2023/05/08 20:28
稼ぐぞ休日給征夷大将軍クララ姫
斜里町の『天に続く道』のスタート地点から安定攻略だワン
2023/05/01 22:25
久松胆振守西門左衛門
国道244号根北峠から斜里側へ降りていくと、国鉄根北線越川橋梁遺構の1キロほど手前みらいあーる付近で攻略可能です。
2022/03/28 00:16
いーさん丸三柏
止別(やんべつ)駅のラーメンきっさえきばしゃでツーラーメンとともに攻略
2021/12/02 10:57
さすらいの大蔵卿ブラ太郎
網走方面であれば止別駅辺りから届きます

城主争い

来月度の城主争い戦況

 1位 こばゆう鎮守府将軍・内大臣さん 9

 2位 りんりんさん 2

 3位 左近衛中将ざかさん 2

シャリ陣屋の周辺スポット情報

 ウナベツチャシ(周辺城郭)

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