柏木城(かしわぎじょう)は、福島県北塩原村大字大塩に所在する城。
概要
柏木城跡は大塩川に面する山地の尾根上に造られています。尾根には主郭曲輪群が設けられ、その東に馬出曲輪群、西・北の山麓に西曲輪群と北曲輪群が配されています。ふもとには宿場であった大塩集落があり、大塩川沿いには会津と米沢を結ぶ江戸時代の米沢街道が通じていて、いずれも文献史料に記録が残されています。
歴史
築城・整備については、天正12年10月にそのきっかけとも思われる出来事がありました。
蘆名家が、当主盛隆の死去に伴う後継ぎを幼児亀若丸とし、常陸佐竹家との関係を強化する方針を取ったことです。その後、伊達家では、ほぼ間をおかずに政宗が家督を継いだとみられ、政宗は会津を含めた地域に向かい南侵の方針を取ります。伊達家は会津領桧原の調略をすすめ、天正13年5月には桧原を略取します。この出来事により、蘆名家としては、政宗軍の「米沢路」からの会津進入阻止が喫緊の課題となりました。
この天正12年10月から天正13年5月までの間に、「米沢路」桧原口への備えとなる大塩地区において、蘆名氏の領国防衛を目的として整備されたとみることができそうです。
構造
城全体の中心となる主郭(曲輪1)と、城番の居住空間とみられる曲輪2およびその周辺からなる主郭曲輪群を中心に、東側には防御・攻撃双方を考慮した馬出曲輪群がおかれ、山麓には軍勢の駐屯地とみられる西曲輪群や北曲輪群が配されています。
遺構
東西500m、南北450mの広大な城域を有しています。遺構の残りがよく、石積を多用することや複雑な形状の虎口を有するなど、戦国期の最新の技術を採用していることも確認されています。
せまりくる伊達政宗勢を迎撃するため地形を活かして配した馬出曲輪群は、当時の南東北において蘆名氏伊達氏という二大勢力の抗争を具体的に示す遺構です。
また米沢路を城内へ取り込むことにより城に「関所」的な意味合いを持たせたとみられることや、主郭曲輪群の区画や虎口・通路の壁内側へ石積を大規模に普請することなどからは、領国境目での軍事拠点のあり方や、家臣・旗き下か・領民への示し威い行為等の具体像を知ることができる遺跡です。
性格
政宗への備え 往来監視と石造りの城
蘆名氏による柏木城築城・整備の意図は、桧原を略取し南侵の意図を明らかにした伊達政宗の侵攻に備えてのものであることが最も大きな理由であると言えるでしょう。そのため、多くの谷筋が集まるここ大塩の地で、大塩川沿いの難所を通る「米沢路」を旧大塩宿上手の谷が狭くなる箇所で塞ぎつつ、「米沢路支道」を通じて、堀・土塁による厳重な遮断線があり、多数の兵力を配備できる柏木城を経由させることにより領国会津を防衛する構想があったことが読み取れます。
また、柏木城の曲輪4南にある「米沢路支道」の折れ曲がった箇所は、城内への入口となることから、「関(関所)」的な機能を配したことも想定されます。 加えて、蘆名氏は、柏木城主郭や主郭へ至る大手道の内側で石積壁を大規模に普請し重厚な城としました。土づくりの城が多かった会津の地では、柏木城を見せることで武威を示し、戦意を高揚させることに一役買っていたかもしれません。
歴史的価値
戦国時代末期、会津領主蘆名氏により奥州会津と羽州米沢を結ぶ街道沿いである大塩に造られました。南奥羽の覇権をめぐる蘆名氏と米沢伊達氏の戦いにかかわり、蘆名氏が領国を防衛するため、山城と「米沢路」を組み合わせて築いた軍事的な城であるという特徴をもちます。
天正13年(1585)の伊達政宗による会津侵攻の際に蘆名軍が立て籠もったことや、天正17年(1589)、摺上での合戦後に伊達勢により大塩の城の動向などを確認したことが「伊達天正日記」にあり、文献史料からは、その築城・整備・廃城は、天正13年(1585) 頃から天正17年(1589) と推定されます。
発掘調査により出土した陶磁器には、中国産染付磁器、朝鮮半島産灰青沙器などの輸入陶磁器や、瀬戸美濃産陶器皿類、信楽産陶器壺、越前産陶器甕などの国産陶器があり、16世紀後半の資料が中心です。ほかには硯、釘、鉈、金具類などや炭化したムギなども出土しており、山城における当時の暮らしぶりを垣間みることができます。
国指定史跡
中世会津領主蘆名氏の領国防御の思想や築城技術を知る上で重要な遺跡であるとして、令和4年(2022)3月15日、国史跡に指定されました。
交通
・磐越自動車道猪苗代インターチェンジから国道459にて裏磐梯を経由して大塩へ。
・磐越自動車道会津若松インターチェンジから会津北縦貫道路にて喜多方へ。国道121から国道459へ右折して大塩・裏磐梯方面へ
・JR喜多方駅下車。アクティブリゾーツ裏磐梯行きバスで「下六郎屋敷」バス停下車
参考文献
・『国指定史跡 柏木城跡』北塩原村教育委員会、2022年。
情報提供:北塩原村教育委員会