亀井山城

亀井山城([木牟礼城  周辺城郭])

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亀井山城の口コミ情報

2023年08月06日 龍馬備中守【】


鹿児島県の出水市にある【亀井山城】♪鹿児島県の最北端に立地し熊本県の水俣に接し、南西は阿久根に接する場所に城郭は存在します♪出水平野の背後南側は小高い山塊が扇状地を築きます♪舌状台地の標高64mに亀井山城は良好な遺構を残し形成されています♪良好に遺構を残す亀井山城ですが、平安時代〜鎌倉時代に掛けて城郭は築かれたと伝わります♪

築城主は種国という人物です♪この種国という人物は平氏千葉氏流で、千葉種方、種国、国秀、秀忠と続きます♪そうです♪あの、千葉氏です♪種方は肥前神埼荘、河副荘の本領主をし、その子である種国は権別当、平次郎丈夫と称して平治年間(1156年〜1159年頃)に初めて山門院郡司職として、この亀井山城に居城し、その子、国秀は、権別当を称しました♪国秀の子、秀忠は将軍家下分により、山門院の郡司職を安堵しています♪この山門郡司一族は鎌倉時代以降の内乱を通じて守護島津方として戦っていて実質、鎌倉以降から島津家へと被官していった様です♪亀井山城のある山門院は南北朝の争い後、島津家を二分化した奥州島津家と総州島津家の争いで奥州家の援軍を行った、人吉荘の相良氏が、木牟礼城の落城の際に奥州家から与えられていて、相良一族の村山備前守を派遣して25年、相良領となっています☆その後、相良氏の同族争いによって、山門院は放棄された様です☆因みに今更ながら山門院とは、古くは古代より出水郡内に成立したと考えられる、『院』です♪領域は現在の高尾野町・野田町を含みさらに出水市の北西部から阿久根市の北部に及んでいました♪

その後の亀井山城は薩州家の5代目・島津実久の弟である島津常陸介忠兼がこのエリアを領した様です♪

藩政期になると、島津家の外城制度の下に入り藩境地としての政治的な要所の性格を強め藩内外から派遣された郷士が居を構えています♪更には、薩摩内でも最大級の麓(城下町)を形成しています♪時間が無くってそちら側は回れてません☆

遺構の土木量、城郭縄張りの技術等を見ると戦国時代にも使われていたであろう事は間違い無いです♪戦火には巻き込まれていません☆また改めて調べたい城郭です☆

多くの歴史が不明な亀井山城ですが、近隣では鎌倉時代より島津忠久(島津氏の祖・惟宗忠久)の命により木牟礼城が築城されています♪この辺りのエリアを統治、掌握する為に木牟礼城を薩摩国の守護所としていて、また、この頃に三州守護職に就いています♪
三州とは、薩摩、大隈、日向の事です♪薩摩島津家の中世の歴史とは決して一筋縄ではいってなくて、同島津家とソレを取り巻く豪族達の血みどろの歴史でもある訳です☆

元々、この頃の亀井山城は砦的な要素を持つ城郭だったのでしょう♪薩摩国の中の内政不安から城郭は規模を拡げて拡大、改修♪空堀の大きさ、城郭の規模から、往時の不安定な薩摩国の状況が伝わります☆

2023年01月29日 榎晴信肥後守


亀井山城は鹿児島県出水市野田町上名にあり平安時代末期に千葉種国によって築かれたとされます。

14の曲輪と土塁、空堀等の中世山城の遺構が良好に残り全体の広さは北薩地域で最大級とのこと。

本城には内枡形、蔵之城には外枡形虎口が残る等戦国時代後期まで使用されていたと思われます。

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