宇土城(うとじょう)

宇土城の基本情報

通称・別名

宇土城[宇土古城・宇土城]

所在地

熊本県宇土市神馬町他(地図は宇土古城を示す)

旧国名

肥後国

分類・構造

城館遺跡群

天守構造

型式不明(宇土城)[3重/築年不明/解体]

築城主

菊池氏[宇土古城]、小西行長[宇土城]

築城年

永承3年(1048)[宇土古城]、天正16年(1588)[宇土城]

主な改修者

加藤清正[宇土城]

主な城主

菊地氏、宇土氏、名和氏[宇土古城]、小西行長、加藤清正[宇土城]

廃城年

慶長17年(1612)[宇土城]

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)[すべて]

指定文化財

国史跡(宇土城跡)[宇土古城]、市史跡(宇土城跡)[宇土城]

再建造物

石碑、説明板[すべて]

周辺の城

曲野城(熊本県宇城市)[5.2km]
木原城(熊本県熊本市)[5.7km]
河尻城(熊本県熊本市)[7.4km]
隈庄城(熊本県熊本市)[8.3km]
竹崎城(熊本県宇城市)[8.6km]
上代城(熊本県熊本市)[11.7km]
矢崎城(熊本県宇城市)[12.3km]
健軍陣内城(熊本県熊本市)[14.8km]
堅志田城(熊本県下益城郡)[14.9km]
御船城(熊本県上益城郡)[14.9km]

宇土城の解説文



宇土城(うとじょう)は、熊本県宇土市にあった日本の城。別名城山・鶴城ともいう。同市にあった中世期の宇土城である宇土古城についても併記する。

概要 

宇土城は、小西行長によって現宇土市古城町に築かれた平山城である。3重の天守が建てられたとされるが、小西行長が関ヶ原の戦いに敗れたあとは加藤清正の所有するところとなった。清正は、宇土城を自身の隠居城として改修を加えたが、清正の死後は廃城となった。その際、宇土城の天守は熊本城へ移築され、宇土櫓となったという伝承があるが、1927年(昭和2年)に実施された宇土櫓の大規模修理に伴う調査では移築の痕跡がなかったとされている[1]

1632年(寛永9年)、加藤氏の改易によって肥後国は細川氏の領するところとなり、2代藩主細川光尚は1646年(正保3年)、従兄弟の行孝へ3万石を分与して宇土へ置いた(宇土支藩)。宇土藩は支藩であったため城は持たず、藩庁である宇土陣屋は現在の新小路町に置かれ、城地は荒蕪地とされた。

現在、後述する中世期の宇土古城跡(宇土市神馬町)は国の史跡に指定されており、歴史公園「史跡宇土城跡」として、建物跡・横堀・城門など一部の遺構が復元整備されているほか、古墳時代の箱式石棺墓が数基確認できる。

近世期の宇土城跡は、本丸跡が城山公園として整備され、石垣と堀の痕跡が残っているが、公園整備に際して旧状と異なる石積みが実施されたため、遺構としての石垣でない箇所も少なからずある。現存する石垣と堀のうち、公園の敷地内に残る部分については間近に見ることが可能ではあるが、遊歩道など特に整備されているわけではなく、一部は民有地も存在しており、旧城域を一周することはできないので注意を要する。二の丸跡は市営墓地となっており、三の丸跡は宅地化が進み、また学校の敷地となるなど開発が進んでいて、往時の面影を留めるところはほとんどない[2]

なお公園内に立っている小西行長の銅像は、行長をイメージして制作された架空の肖像だが、豊臣政権下の海の司令官として世界(海)に目を向けているため宇土市街には背を向けている[3]

歴史 

中世・宇土古城

宇土古城は、近世宇土城の少し西側、現宇土市神馬町に位置する。遅くとも平安時代中期には一帯の領主であった宇土氏によって、西岡台と称される独立丘陵に築かれ(このため地元では宇土古城を指して「西岡台」と通称しており、以後宇土古城を西岡台と表記する)、中央の迫地を挟んで東に主郭となる千畳敷(せんじょうじき)、西に三城(さんのじょう)という2つの曲輪を持った連郭式の体をなしている。

千畳敷の周囲は横堀で囲まれており、加えて、北から東にかけての斜面には複数の竪堀が穿たれていた。千畳敷からは近年の発掘調査で、きわめて多数の掘立柱建物の痕跡と[4]、東側に虎口、城門遺構が確認されており、一部について復元表示してある[5]

1998年(平成10年)、千畳敷の北側で掘削作業途中の横堀跡が確認され、当時の土木作業工程・技術を示す貴重な事例となっている。さらに、城門遺構付近の横堀からは100点を超す石塔の部材が出土しており、同城の廃城(城破り)に伴って念入りな儀式が行われたことを窺わせている[6]

一方、三城における建物跡は少ない代わりに柱穴の径が大きく、比較的大型の建物が存在していた可能性が高いほか、苑池とみられる水たまり跡が検出されている。2012年(平成22年)の発掘調査時には碁石とみられる石製品が出土した。

2011年(平成21年)、三城北側斜面の一部で実施した発掘調査では、切岸はおおむね55~60度に整えられていた。

三城の南西麓には幅約10m、全長約300mの空堀が存在している。部分的に実施された発掘調査の結果、戦国時代中~後期ごろにうがたれた可能性を指摘されている。

また千畳敷・三城いずれも、城域各所に矢穴がいくつか存在している[7]。いずれも、近世宇土城の石垣部材として用意され、使われずに残ったものとみられるが、三城の主郭北側に転がっている巨石は、もともと庭園に用いられていた石材だった可能性がある。

西岡台の正確な築城年代は詳らかでない。一説には永承3年(1048年)、関白藤原頼通下向の際に築かれたという。

南北朝時代の城主であった宇土高俊は、肥後国へ下向した懐良親王を網津湊に迎え、隈府へ送ると、自身は終始南朝方としてふるまい、北朝方阿蘇大宮司領であった隣の郡浦荘を押領するなど、宇土半島を中心に活動した。

室町時代後半、宇土忠豊の養子として肥後国守護の菊池氏から宇土為光が入る。その為光は文明16年(1484年)・明応8年(1499年)と守護職押領を企てるが失敗する。文亀元年(1501年)、為光は3度守護職押領を企て、ついに成功し肥後国守護となる。しかし文亀3年(1503年)、亡命していた菊池本家の22代菊池能運の反撃に遭い、西岡台へ籠城するが破れ、殺害された。西岡台には菊池氏家臣の城為冬が入城するが、永正元年(1504年)に能運が急死すると為冬は菊池へ引き上げ、空城となった西岡台には、為光の娘婿となっていた名和顕忠が入った。名和氏はその後、約80年間にわたり西岡台の城主となる。

天正15年(1587年)に行われた豊臣秀吉の九州征伐に際し、宇土名和氏の6代名和顕孝は当初島津氏に属していたがすぐに秀吉に降伏し、所領を安堵されるが、同年に起きた肥後国人一揆に際しては、肥後国主に封ぜられた佐々成政へ合力せず中立を保ったことを咎められた。顕孝はみずから釈明すべく大坂へ赴くが、城代を任せた弟の名和顕輝が秀吉軍の開城勧告を拒否したため討伐され改易となり、名和氏の時代は終わった[8]

近世・宇土城

天正16年(1588年)小西行長は、肥後国宇土郡・益城郡・八代郡あわせて17万5千石(諸説あり)を所領すると、宇土古城の東にあった高さ約13mの城山(宇土市古城町)に城地を移し、新城を築く計画を立てた。しかし、普請に際して天草の国人衆が助力を拒否したことから天草国人一揆が生じたため、実際の普請開始は翌天正17年(1589年)頃からと見られている。

行長の手になる宇土城は、城郭本体だけでなく、城・武家屋敷・城下町が水堀と運河によって一体的に結合されることで「惣構」を形成するという防御的な性格を有していたことが、市内各所の発掘調査によって明らかになりつつある。

慶長5年(1600年)7月、上方へ出陣していた行長が西軍(石田方)に呼応すると、加藤清正は徳川家康から8月12日付で肥後・筑後切り取り次第の御内書を取り付ける。9月15日、清正は豊前国の黒田如水応援のため豊後国へ出陣した。しかし、豊後戦線が如水優位になると直ちに軍を反転し、宇土城攻撃に取りかかる。

9月19日に前哨戦である石ノ瀬口の戦闘が始まると、翌20日には城下での戦闘となり、清正が宇土へ到着した。21日には5方向からの宇土城惣攻めが開始された。城の北側、瓢箪渕と呼ばれる大濠を舟で押しわたってきた攻め手を大筒で撃退するなど、小西勢は奮闘するも、10月2日には三ノ丸まで抜かれ、本丸・二ノ丸の攻防戦に入った。10月13日、城代小西隼人は宇土城開城に合意し、翌14日に戦闘は終結した[9]。隼人は城内で切腹したとも、隈本城下へ移され謀殺されたとも伝わり消息は判然としないが、熊本市西区横手の禅定寺に小西隼人の墓と伝わる石がある。

戦後、清正は宇土城を自身の隠居城と定め、おもに主曲輪の改修を行ったが[10]、行長時代の遺構を埋めつぶした上に清正時代の遺構が作られていたことが本丸における発掘調査によって確認されており、かなり大がかりな工事を行なったであろうことが窺える。その後、清正が慶長16年(1611年)に死去すると、翌慶長17年(1612年)、宇土城は水俣城・矢部城とともに破却された[11]

寛永9年(1632年)、2代加藤忠広は徳川家光への謀叛の嫌疑をかけられ改易となり、同年、肥後国は豊前国小倉藩主細川忠利に与えられる。寛永14年(1637年)、島原の乱における原城のような立て篭もりを防ぐため、徳川幕府は西国の廃城に対し再度の破却を命じ、城跡は徹底的な破却を受けた。城地内には造作禁止令が出され、荒蕪地として放置されたことから、石垣部材の抜き取りや土採りなどに遭い、しだいに城跡の荒廃が進んだ。

正保3年(1646年)に、細川行孝が宇土郡3万石を分封され、宇土藩が成立するが、支藩であったため城は築かれず、現・新小路町に宇土陣屋を設けて拠点とした。その行孝が領内の水事情改善のため轟泉水道を開通したことで、旧城域北側を中心に大きく改変を受けた。

明治に至ると、向峯にあった武家墓地が手狭になったことから旧二の丸が新たに士族墓地となり、現在の市営墓地となった。

参考文献 

  • 阿蘇品保夫[宇土城開城に関する新出史料―(慶長五年)一〇月一三日付清正書状について―](『熊本史学』85・86号、2006年)
  • 【書籍】「宇土市史」
  • 【書籍】「宇土郡誌」

宇土城の口コミ情報

2023年01月13日 陸奥守新九郎
宇土城



横堀が整備された珍しい城。この堀は障子堀とも言われましたが、現地説明板には造りかけとありました。曲輪は4時期使ってると言うのに、本丸を囲う横堀が造りかけということはないと思いますけど・・・

2022年08月29日 副将軍こうちゃん播守
宇土城



現地、駐車場に🚻有ります🤚
東へ行くと近世宇土城跡が有ります☝️
こちらも、駐車場に🚻有ります🤚

2022年06月06日 龍馬備中守【】
宇土城(新城)[宇土城  周辺城郭]



熊本県の宇土市の古城町にある【宇土城】♪熊本平野の南部、宇土半島の頸部に城郭は存在しました♪宇土古城の城下に当たる場所で横並び(東側)にある、この宇土城は中世から近世にかけて築かれました☆
肥後国を領し押さえる為の小西行長の城郭となります☆

天正16年、肥後における、国衆一揆は鎮静に向かいます♪同じ年に肥後国、緑川以南の宇土、益城、八代郡において24万石を宛行われた小西行長が入城しています♪
往時の宇土城は西岡台にある現、宇土古城でしたが、西岡の東にある城山に新たに新城を築き、本城とし領内の益城、八代の要衝にも出城を置き新しい領国支配の体制を整えました♪
築城に際して、資材、人手など天草五家にも要求しますが、志岐麟泉、天草伊豆はコレに応じず☆小西行長は豊臣秀吉の命により、両家を討ち、天草氏、大矢野氏、上津浦氏、栖本氏、志岐氏、天草五家は小西行長に降り仕える事になります☆

こうして、宇土城を本城に肥後領を抑え様とした小西行長でしたが肥後北半国を領した清正とは次第に確執を深める事になっていきました…文禄・慶長の役では宗氏らと共に主要な動きをし先鋒として出陣♪加藤清正と先陣の功を争いました☆

そして…関ヶ原の戦い…
西軍の将として奮戦しましたが敗北して捕縛…。。京、市中引き回しの後に六条河原において石田三成・安国寺恵瓊と共に斬首されちゃいました…。。
キリシタン大名でもある小西行長です☆
キリシタンは自殺を禁じられていたので切腹を拒否して斬首されています…。

そんな生涯を駆け抜けた小西行長でした☆

石垣に堀☆外堀のライン♪歩けば歩く程、納得でありました♪

2022年05月05日 くっしー治部大輔尚人
宇土城



これぞ中世のお城って感じです。といっても長い時間使っているので、戦国時代の遺構と古代の遺構が混在しているようですね。あと、注目は作りかけのお堀。一瞬、格子堀かと思ったけど、九州にそんなのないやろうと思って…説明読んだら違いました(笑)更にお堀から五輪塔が出てきたらしく。破綻の儀式らしいですね。そんなのがあるのは初めて知りました。

注意が2点。
・ここで説明したのは中世の宇土城ですが、近くには小西行長が築城した宇土城があります。こちらは公園になっています。
・宇土駅からバスはほとんどありません。歩いてみたら片道40分かかりました(泣)時間を事前に確認するか、自家用車をお薦めします!

2022年05月02日 三上駿河守
宇土城



宇土古城は宇土駅から3km離れているので、徒歩で40分前後かかります。整備されていますが、季節によっては草が生い茂っているので、冬の方が遺構がわかると思います。宇土新城は古城から徒歩10分くらいで行けますが、時間に余裕があれば途中にある観光スポットの西岡神宮にお立ち寄りください。

2022年01月30日 もっこす肥後守
宇土城



公園みたいにはなっていますが、豊富な堀、石垣など見どころ満載。城内説明板には石垣は載っていませんが、三城北側に立派な石垣があります。隈なく周れば見落とさないと思います。手入れもいい。落ち葉で足元ふかふかで気持ちいい^ ^

2021年11月21日 大納言Z武蔵守369
宇土城(新城)[宇土城  周辺城郭]

城郭は、近所のご老人たちのゲートボール場と化していて、あまり見所はありませんでした。

2021年10月11日 つか征夷大将軍
宇土城駐車場[宇土城  駐車場]

案内板の所にもスペースがありますが駐車場として案内されているのは奥になります。

2021年03月27日 あめだま宮内大輔
宇土城



宇土古城と宇土城址の2つまとめます。
桜の穴場でした。

小ぶりな平山城で駐車場.お手洗い完備。
3.4月にデコポン(不知火)買って帰るのが超オススメです。

2021年02月22日 明石家船上
宇土城



近世宇土城跡は、文禄期の小西行長の城の上に、慶長期の加藤清正の城が乗っている。発掘された石垣の積みかたと、石の加工技術は、朝鮮の役後を示している。

中世宇土城跡は、そこから500メートル離れた丘に、遺構が残っている。丘を段曲輪に切っており、鉄砲伝来前の様子を示している。

2019年07月28日 織田上総介晃司
宇土城

宇土城(近世宇土城)墓所にトイレ。その先に駐車場があります。公園となっている本丸に小西行長公像、石垣と空堀が残ってます。

宇土古城(中世宇土城)駐車場とトイレあり。千畳敷(主郭)に復元建物と門と柵列横堀は風化を防ぐためモルタルで固めてあります。

1km以内に2城があり両方ともリア攻めした方がいいです。

宇土市には満潮になると海に沈んでしまい、電柱だけが海に並んでみえる道があり、神秘スポットとして観光名所になってるそうです。

2019年04月24日 清円院上野介華姫
宇土城



小西行長が築城。関ヶ原で西軍が敗れ破壊された。代わって加藤清正が肥前に入り改築するも島原の乱で再度徹底的に破壊された。二度の破壊にも関わらす残った貴重な石垣は熊本城の積み方に似ていることもあり清正のものと考えられている。現在は地中に3分の2が埋まってる

2017年04月29日 まー刑部卿
宇土城

近世宇土城は宇土高校裏の墓地に車3台分駐車でき、その先にも駐車可。本丸に小西行長像がある。石垣は崩れていない。
中世宇土城はそこから車で10分以内。駐車場は5台は停められる。共にトイレ有り。中世のほうは未完成の堀跡があり一周出来るが途中に水が溜まっているのでご注意を。

宇土城の周辺スポット情報

 宇土城跡の石垣(遺構・復元物)

 復元門(遺構・復元物)

 土塁(遺構・復元物)

 近世宇土城-本丸(遺構・復元物)

 宇土城跡石碑(碑・説明板)

 宇土城跡説明板(碑・説明板)

 宇土城跡説明板(碑・説明板)

 宇土細川藩陣屋跡(碑・説明板)

 中世宇土城跡(西岡台)(碑・説明板)

 千畳敷を守る外堀(碑・説明板)

 三城(周辺城郭)

 宇土城(新城)(周辺城郭)

 高城(周辺城郭)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 宇土城駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 宇土城山公園(関連施設)

 小西行長像(その他)

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