兵庫城(ひょうごじょう)

兵庫城の基本情報

通称・別名

池田城、(片桐陣屋)、(兵庫陣屋)

所在地

兵庫県神戸市兵庫区中之島

旧国名

摂津国

分類・構造

平城、海城

天守構造

型式不明[階層不明/築年不明/破却?]

築城主

池田恒興

築城年

天正9年(1581)

主な改修者

主な城主

池田氏、片桐氏

廃城年

明治8年(1875)

遺構

(発掘調査:石垣、横堀、馬出、井戸、天守台)

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

和田岬砲台(兵庫県神戸市)[1.8km]
花隈城(兵庫県神戸市)[2.7km]
松岡城(兵庫県神戸市)[4.3km]
滝山城(兵庫県神戸市)[5.0km]
多々部城(兵庫県神戸市)[5.9km]
摩耶山城(兵庫県神戸市)[7.7km]
平野城(兵庫県神戸市)[9.6km]
箕谷城(兵庫県神戸市)[11.0km]
端谷城(兵庫県神戸市)[13.1km]
舞子台場(兵庫県神戸市)[13.3km]

兵庫城の解説文



兵庫城(ひょうごじょう)は、兵庫県神戸市兵庫区中之島(摂津国八部郡兵庫津)[1]周辺にあった日本の城。尼崎藩時代には兵庫陣屋と呼ばれ奉行が置かれ明治時代には兵庫県庁があった。

概要 

神戸港の西に兵庫港という港がある。兵庫港は江戸時代まで良港として栄えた兵庫津の跡で、また平清盛が遷都とした福原京がある。南北朝時代には戦いの中心となり、また北側には山陽道が通り、海陸の集散地でもあり交通の要衝でもあった。兵庫城が城として機能していたのは戦国時代の短い期間で、江戸時代には陣屋となった。明治時代以降には兵庫港の大規模な改修や、近代以降の都市化により陣屋の遺構は失われた。

沿革 

天正6年(1578年)11月、有岡城の戦いで荒木村重が突然織田信長に謀反をおこした。その有岡城も落城し荒木村重は花隈城へ逃走し、そこで花隈城の戦いが行われたが、織田信長軍の武将で池田恒興(信輝)・輝政父子により花隈城も落城した。その功により、織田信長より兵庫の地を与えられた。摂津国の大守になった池田恒興は、1581年(天正9年)花隈城には入城せず兵庫津に城を築いた。その時の様子は、「池田信輝此津守領の時、花隈城を毀り、其材石を移してここに築く」(『摂津名所図会』)とある。しかし1583年(天正11年)池田恒興わずか2年で美濃国大垣城に移封され、兵庫城下は豊臣秀吉の直轄地となり片桐且元が代官として入城した。呼称も兵庫城から片桐陣屋と称されていた。1607年(慶長12年)に朝鮮使節がここに招かれており、その日記の中には、「及館主所周以城池門設三重(略)支供官乃秀頼代官片桐主膳」とある事から館の周りには堀があり、三重の門があったことが窺い知れる記載となっている。江戸時代まで朝鮮使節は合計12回実施されるが、その内11回は兵庫津に寄港している。尼崎藩は朝鮮使節の接待役を命じられ、約2年前から準備が始められ、港の整備や宿泊先の手配をしていた。

1615年(元和元年)大坂城落城後は尼崎兵庫津一帯は尼崎藩に組み込まれ兵庫城址には陣屋(兵庫津奉行所)が置かれた。1769年(明和6年)、上知令により兵庫津一帯は天領となった。大坂町奉行が支配することになり、兵庫勤番所と呼ばれた。

明治維新期には勤番所が初代の兵庫県庁となり、伊藤博文が初代知事として赴任した。1873年(明治6年)まで外郭となっていた土塁が残っていたが市街地発展のため取り除かれ、翌1874年(明治7年)に兵庫港が大幅に改修され、兵庫新川運河が出来て、兵庫城跡はなくなってしまった。

城郭 

ファイル:Hyogoj18.jpg|thumb|250px|摂州八部郡福原庄兵庫津絵図(右が北) ファイル:Hyogoj18.jpg|thumb|250px|摂州八部郡福原庄兵庫津絵図(右が北)

兵庫城は、湊川の支流が縦横に走り天然の堀の役目を果たし、前面は港を持つ防御の拠点となった「海城」として整備したものと考えられている。「(一五八一)に花熊城の石材などの一部を用いて天守閣を備えた城を築いた」とあり、天守が備わっていた可能性を指摘している[2]

兵庫城の入り口柳原総門は兵庫の町の北部、扇の要と言える場所にあり、柳原総門を包み込むように、福海寺が配置され枡形を構成している。

『摂州八部郡福原庄兵庫津絵図』によると絵図の中央に堀で囲まれた「御屋敷」があり、本丸跡ではないかと考えられ140m2の広さがあった。堀の幅は3mで、野面積みの石垣と土塁で防備していたと推定されていたが、2012年8月の遺構発掘で場所によって9-18mの幅があったと確認された。城の北側には城下町が形成されており、御同筋には多くの社寺が配置され寺町となっていた。兵庫津の全体として南北2.7km、東西700mからなる城塞都市であった。

発掘調査

兵庫城跡は新川運河の下敷きとなったが、町屋は数次にわたる発掘調査が行われており、奈良時代-江戸時代にかけた遺構、遺物が数多く発見している。幕末には約2万人が暮らし、持ち家が4968軒、借家が2450軒、合計7418軒の家数が確認できる。町屋は絵図などに見られる間口が狭く奥行きが深い短冊型の建物跡が数多く発掘された。

遺物に関しては、土人形、土錘、硯、煙管、釣針、箸、下駄などバリエーションの広い出土物が発掘された。また出土時期として、兵庫城築城期から幕末期に比例して数量的に急増傾向にある。これら出土状況から、兵庫城築城が同地域を大きく発展させたと考えられている。出土物としては、備前磁器が相対的に多いが、それ以外の地域の出土物が見られ、「兵庫津が単に都市(消費地)というだけでなく、物流の拠点であったこともうかがえる」と指摘されている[3]

2012年8月1日、神戸市中央卸売市場跡地への店舗出店における汚染土壌除去作業中に石垣や馬出跡、堀跡が発見され、4日には現地説明会が行われた[4][5]。これまで、戦国期の兵庫城の城郭遺構は発見されておらず、この発見が初となる。後世の掘削や改変が見られるものの石垣の作りや転用石が使われている事、堀幅も場所によって約9-18mであったことが確認された。

2014年2月から2015年3月までの発掘調査では、天守台跡とみられる遺構を発見した。天守台の石垣は約18メートル×約4メートルが確認され、天守が存在したとすれば、11メートル×13メートル程度だろうと推察されている。また、石垣は二重構造となっており、底に「胴木」と呼ぶ木材を敷き、重圧による天守の沈下を防ぐ築城技術「胴木組」を採用したとみられる、9本の胴木も見つかった。織田信長が考案したとされるこの技術の遺構は、本城が国内最古級だという[6]。ほか、全長222メートル・最大幅約18.5メートルの外堀と、全長69メートル・最大幅16.8メートルの内堀が並ぶ「複郭構造」も確認され、堀の間に二の丸があった事も判明した[7]。遺跡はイオンモール神戸南の地下に保存されている。

2022年に兵庫県立兵庫津ミュージアムが開館し、兵庫陣屋が復元された。

城跡へのアクセス 

  • 電車でのアクセス
    • 神戸市営地下鉄 海岸線 中央市場前駅 → 徒歩約3分
  • 車でのアクセス
    • 阪神高速道路 3号神戸線 柳原出入口 → 国道2号 → 周辺に有料駐車場有

参考文献 

  • 神戸市立博物館『よみがえる兵庫津-港湾都市の命脈をたどる-』神戸市立博物館、2004年10月、36-37頁、52-53頁、56-57頁、86-87頁。
  • 朽木史郎/橘川真一編著『ひょうごの城紀行』下、神戸新聞総合出版センター、1998年12月、19-23頁。
  • 『日本城郭大系』第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月、380-381頁。
  • "郷土の城ものがたり"神戸地区編集委員会 『郷土の城ものがたり(神戸編)』兵庫県学校厚生会、1974年2月、59-62頁。

兵庫城の口コミ情報

2024年01月03日 村雨中務大輔
兵庫城

兵庫城跡の一部は、イオンモール神戸南になっている。ショッピング中に攻城できる。

2022年01月03日 イオ左衛門佐
来迎寺[兵庫城  寺社・史跡]



平清盛が大輪田泊の修築に際して風浪避けとして築いた経ヶ島の位置は特定されていませんが、一説には築島寺とも呼ばれる来迎寺周辺と言われています。

経ヶ島築造は難工事だったため、清盛の従者の松王丸が人柱となりました。来迎寺はその菩提を弔うために清盛が建立したと伝わり、松王丸の供養塔が建てられています。また、その隣には清盛の寵妾の妓王と妓女の供養塔も並んでいます。

一方で、人柱に替えて一切経を書いた石(経石)を埋め立てに用いたことから経ヶ島と呼ばれるようになったとも伝わります。

2022年01月03日 イオ左衛門佐
能福寺[兵庫城  寺社・史跡]



平清盛の墓所の所在は不明ですが、遺骨を大輪田や経ヶ島、能福寺に収めたとする文献が複数あることから、能福寺には清盛の八百回忌にあわせて平相国廟が再建されています。また、能福寺は兵庫大仏の寺としても知られています。

2022年01月03日 イオ左衛門佐
清盛塚[兵庫城  寺社・史跡]



清盛塚の花崗岩製の十三重石塔は鎌倉中期に執権・北条貞時が建立したと伝わり、平清盛の墓所と考えられてきましたが、大正の道路拡幅時の調査では石塔の下に墳墓は確認されませんでした。石塔の隣には清盛の銅像や、清盛の甥で琵琶の名手の平経正の墓所とされる琵琶塚の石碑が建てられています。

2022年01月03日 イオ左衛門佐
都賀堤[兵庫城  碑・説明板]



北の湊口惣門と北西の柳原惣門を結ぶ外郭には都賀堤と呼ばれる土塁と堀があり、柳原惣門から南東方向へ、そして南方向へと続いて、城下を囲い込む惣構を構成していたものと考えられます。都賀堤も惣門も明治に失われましたが、それぞれ跡地に石碑や説明板が建てられています。

2022年01月02日 イオ左衛門佐
発掘調査地の模擬石垣[兵庫城  関連施設]



城跡はイオンモール(と運河)になっていますが、イオン建設時の発掘調査により転用石を多く用いた石垣や堀、土橋などが発掘され、主郭の石垣には胴木も確認されています。発掘された遺構は埋め戻されてしまいましたが、発掘調査地には出土した石材を用いた模擬石垣と説明板が設けられています。

2020年09月29日 くまなみ
兵庫城



運河西側はキャナルプロムナードとして散策可能。商業施設建設時調査では堀や井戸等の遺構が確認されたが現在は見る事ができない。2年後に初代兵庫県庁復元(写真は模型)が運河東岸に建てられる予定。

2020年08月23日 副将軍こうちゃん播守
兵庫城

兵庫城の印はイオンモールの真下に埋もれています!運河挟んだ西側に兵庫城跡の碑があります!

兵庫城の周辺スポット情報

 初代兵庫県庁(遺構・復元物)

 柳原惣門跡(碑・説明板)

 湊口惣門跡(碑・説明板)

 都賀堤(碑・説明板)

 福海寺(寺社・史跡)

 湊川神社(寺社・史跡)

 和田神社(寺社・史跡)

 真光寺(寺社・史跡)

 蛭子神社(寺社・史跡)

 能福寺(寺社・史跡)

 清盛塚(寺社・史跡)

 三石神社(寺社・史跡)

 薬仙寺(寺社・史跡)

 来迎寺(寺社・史跡)

 駐車場(駐車場)

 発掘調査地の模擬石垣(関連施設)

 清盛くん像(その他)

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