千石堀城(せんごくぼりじょう)

千石堀城の基本情報

通称・別名

今城

所在地

大阪府貝塚市橋本

旧国名

和泉国

分類・構造

丘城

天守構造

築城主

根来衆

築城年

安土桃山時代

主な改修者

主な城主

大谷左大仁(根来衆)

廃城年

天正13年(1585)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

説明板

周辺の城

積善寺城(大阪府貝塚市)[1.3km]
岸和田城(大阪府岸和田市)[4.6km]
日根荘城館(大阪府泉佐野市)[5.7km]
根福寺城(大阪府貝塚市)[5.8km]
貝吹山城(大阪府岸和田市)[6.0km]
稲葉城(大阪府岸和田市)[6.3km]
吉見陣屋(大阪府泉南郡)[7.9km]
松尾寺城(大阪府和泉市)[8.8km]
真鍋城(大阪府泉大津市)[10.2km]
伯太陣屋(大阪府和泉市)[11.0km]

千石堀城の解説文



千石堀城(せんごくぼりじょう)は、大阪府貝塚市橋本にあった日本の城(山城)。

概要 

橋本の東南1.5キロメートルに、東側には近木川、西側には見出川に挟まれた、南北約2キロメートルにわたる三ノ丞山と呼ばれる標高約70メートルの丘陵一帯が、千石堀城の跡と思われている。千石堀城は、積善寺城を主城とした近隣の高井城と同様支城のひとつであったと見られている。小栗街道から分岐し大熊街道の拠点であり交通の要地であった。岸和田城と対峙した時の要害のひとつが千石堀城である。

沿革 

石山合戦で石山本願寺と織田信長が戦った後、本願寺衆は根来衆や雑賀衆と連携し、根来寺の支城として和泉国に5か所もしくは7か所の築いたと言われており、千石堀城もその一つである。築城年に関しては不明な点が多いが、1577年(天正5年)信長の紀州攻めの時には、根来衆や雑賀衆の中には信長に加勢する者も出て、結局城を守る根来・雑賀衆は信長と戦わずに城を捨てて海路撤退した。その後、それより更に強化され現在の千石堀城が築城されたと思われている。

千石堀城の戦い 

この時の戦いの様子は千石堀城攻防戦も参照。

開戦までの経緯

その織田信長も本能寺の変で亡くなり、賤ヶ岳の戦い後天正11年(1583年)11月、豊臣秀吉は岸和田城に中村一氏を入城させ、根来衆、雑賀衆の備えとした。中村一氏は行動を開始、泉州中の寺社領を没収していた。これに反発した根来衆、雑賀衆連合軍は、中村一氏と小競り合いが続いたが根来衆、雑賀衆連合軍は戦を仕掛けた。翌天正12年(1584年)1月1日、早朝から根来衆、雑賀衆連合軍は中村一氏がいる岸和田城を攻めたが敗れ、同月3日、逆に中村一氏は五カ所の支城を攻めた。これに危機感を覚え堺に向っていた別働隊8000兵が、救援に来たので、同月16日中村一氏軍6000兵は、近木川を挟んで対陣した。最初は鉄砲戦となり、後に槍合わせとなったが、最終的に根来衆、雑賀衆連合軍は敗れた。

その後根来衆、雑賀衆連合軍は徳川家康に使者をおくり、血判連名状を差し出し忠誠を誓ったと『太田城由来并郷士由緒記』に記載があるが、この史料には問題があるとする指摘もある[1]。 根来衆、雑賀衆連合軍は再び兵をあげた。同年3月18日、根来衆、雑賀衆連合軍と千石堀城を含む五カ所の支城衆が加わり、陸路隊、海上隊の二隊で岸和田城に向けて進撃を開始した(岸和田合戦)。両隊は泉大津まで兵を進め、岸和田城周辺地域を焼き討ちして回った。同月19、20日は雨のため戦闘がなく、21日は根来衆、雑賀衆連合軍は130艘を繰り出し、陸路隊も堺辺りに進軍した。また別働隊5000兵が岸和田城を攻城したが、中村一氏に打ち負かされた。岸和田城内には769首が並んだ。また小木城、鳥取城積善寺城は落城、焼き討ち、畠中城、沢城は焼き討ちされ、接収された。22日に堺に向っていた隊は引き揚げたが、その夜岸和田城に攻めかけ佐野に帰った。

この時の状況を「天下動乱の色顕わる。いかが成り行くべきか、心細きもの也。神慮に任せ、闇々として明け暮れるまで也。はしなきこと、はしなきこと」(『多聞院日記』)とし、混沌とした状況を記している。

その後小牧・長久手の戦いで同年11月になると豊臣秀吉は、織田信雄、徳川家康と和睦し、徳川家康も浜松城に引き上げると、本格的に秀吉の紀州攻めを開始する事になる。

戦いの状況

最初は翌天正13年(1585年)3月1日小早川隆景軍船が出港し、中村一氏、仙石秀久、九鬼嘉隆の水軍と合流し、紀州表の警固についた。

先発隊として豊臣秀次が3万騎を従え同月20日大坂城を出発、次いで同月21日豊臣秀吉は10万余騎を従え出馬した。豊臣秀吉は同日八ツ半時(午後3時ごろ)岸和田城の虎口周辺を見廻った後、すぐに軍議に臨んだ。「当国第一の堅城」を攻撃すべきと主張したのは中村一氏で、豊臣秀吉も午後4時頃に即時攻撃の決断を下した。着陣早々の攻撃には沿道の人々を驚かせたようである。この時、千石堀城には弓の名手大谷左大仁法印が城主としており、そこに鉄砲で武装した1千数百兵で守っていた。

千石堀城攻めの大将には豊臣秀次があたり、これに堀秀政、筒井定次、長谷川秀一らが続き、更に田中吉政、渡瀬繁詮、佐藤秀方ら3千兵が加わった。戦闘は同日の夕刻から翌日の未明にかけて行われたようで、まずは大手門に取り付き、二の丸の柵を破り空堀に入った。この時、二の丸にいた城兵300余りの首を討ち取り、本丸にいた城兵に見せつけた。しかし、本丸は攻めあぐね、豊臣秀次軍の千名ほどの死者が出た。豊臣秀次軍は攻め急いだが、堀は深く、本丸につづく橋は取り払われていたおり、簡単には落城しなかった。この時、秀吉自ら鉄砲を取って戦ったという(フロイス『日本史』)。持久戦になるかと思われた頃、筒井定次隊が放った火矢が城郭を焼き、火薬箱に引火して爆発をおこし、これに乗じた豊臣秀次軍は攻め、城内にいた根来衆は討ち果てた。落城の後は放火されたようである。

戦後の状況

畠中城は、中村一氏の攻撃を受け強固に抵抗していたが、千石堀城の落城が伝わると自焼して落去した。小栗街道に沿う積善寺城は櫓がいくつか建ち9500兵が守備、沢城も6000兵が守備、双方とも根来衆、雑賀衆連合軍の鉄砲隊がおり、堅固な城となっていた。積善寺城には細川藤孝、細川忠興、蒲生氏郷が、沢城には中村一氏、中川秀政、高山右近らが攻めかかったが、落城しなかった。この時、豊臣秀吉の命で豊臣秀次軍は休息をとっていた。豊臣秀吉は卜半斎了珍を仲介とし、同月22日に積善寺城、翌23日に沢城が和睦に応じて開城した。城は放火されず残ったようで、根来衆、雑賀衆はそれぞれの領地に引き上げていった。

泉州に13か所あったと伝えられた根来寺の出城は、3日間で豊臣秀吉の軍門に下り、紀伊国に向けて進軍することになる。

この後の戦いの様子は根来・粉河・雑賀炎上及び第二次太田城の戦いも参照。

書状

この戦いではいくつかの書状が現存している。

1.羽柴秀吉の禁制は、天正12年(1584年)10月27日のもので貝塚一帯に向け同地区の安全を確保した。しかし、この時すぐには出軍とはならなかったようである。 2.羽柴秀吉の朱印状は、茨木城城主の中川秀政に天正13年(1584年)3月21日までに大坂城に着陣するように命じたもので、この朱印状にあるように予定通り3月21日に出軍、同日中に岸和田城に入城している。 3.根来寺寺僧連署状は、根来寺から卜半斎了珍に豊臣秀吉が出陣が迫り、貝塚周辺の状況を知らせるように伝える連署状となっている。卜半斎了珍は豊臣秀吉とも関係が深いと思われているが、根来寺とも一定の関係がうかがえる史料となっている。

城郭 

千石堀城は、2重の塹壕を巡らし、四周に大小多数の池が散在し天然の備えをしていた。東西32間、南北12間、東堀、西堀、南堀、北堀がそれぞれ二重としていたと記されている(『根来戦記』)。現在遺構が確認出来るのが三ノ丞山と呼ばれる一画だけだが、南側の丘稜とため池は自然の地形を利用した要害となっていたと見られている。 千石堀城の主郭部分は、40×70メートルで周囲には横掘を巡らし、北側には本丸へ続く食い違い虎口を設けている。横堀の更に外側には土塁、帯曲輪を巡らしている。主郭下の横堀には堀内部に低いながらも仕切りがあり、防御の分担が行われるようになっている。横堀に仕切りを設ける城郭技術は、紀伊国の高野山系城郭の一部に認められ、戦国時代後期から広く共有した築城技術となっている。

城跡へのアクセス 

  • 電車でのアクセス
    • 水間鉄道 水間線 名越駅
    • 徒歩 約20分
  • 車でのアクセス
    • 阪神高速道路 4号湾岸線 貝塚出入口 → 大阪府道29号 → 大阪府道64号
    • 周辺に駐車場無し

参考文献 

  • 『日本城郭大系』第12巻 大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月、218-219頁。
  • 城郭談話会事務局『図説近畿中世城郭事典』城郭談話会事務局、2004年12月、216頁-217頁。
  • 和歌山市史編纂委員会『和歌山市史』第1巻、和歌山市、1992年11月、1017-1020頁。
  • 中井保『岸和田城物語』泉州情報社、1986年2月、58-68頁。
  • 臨時貝塚市編纂部『貝塚市史』第一巻通史、大阪府貝塚市役所、1958年3月、431-440頁。
  • 戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典』第4巻 大阪・奈良・和歌山・三重、新人物往来社、1989年4月、299-300頁。
  • 岸和田市立郷土資料館『戦乱の中の岸和田城』石山合戦から大坂の陣まで、岸和田市立郷土資料館、2004年9月。

千石堀城の口コミ情報

2023年01月21日 八咫烏紀伊守鉄龍
千石堀城



里山として、整備されていました。城山の前に立派な駐車場とトイレもあって、これは嬉しい!

2022年03月17日 イオ右近衛中将
千石堀城



織豊期に根来衆が築いた城で、羽柴秀吉の紀州攻めでは大谷左大仁を守将として激しい戦いが繰り広げられましたが、火矢により火薬庫が爆発炎上して落城し、そのまま廃城となりました。

近木川西岸の丘陵に位置し、主郭の周囲に横堀(東側は二重)をめぐらせ、対岸の高井城と対になって機能した陣城で、城跡や北側の平坦地からは平安後期から戦国期にかけての瓦や五輪塔などの石造物が発掘されており、寺院を城郭化したものと考えられます。

かつてロータリーだったあたりに、里山活動のための無料駐車場が設けられていましたので、城めぐりを通じて地域の歴史を体感するのも立派に里山活動だ(知らんけど)、と駐めさせてもらって登城開始。

駐車場から丘と丘の間の道を南に進み、西への分岐を上って行くと、主郭東辺の切岸が見えてきます。よじ登ってもいいんですが、どうせなら虎口から入ろうと北側に回り込み、横堀を喰い違わせて設けられた虎口に到着。両側の横堀は浅くなっている上に伐採した木が積まれていたりしますが、幅は5mほどもあり、なかなかの規模だったようです。西辺にも横堀が(ところどころ途切れつつも)めぐり、東辺では間に土塁をはさんで二重の横堀がめぐらされています。

昨年の企画展「貝塚八城めぐり」に合わせて千石堀城(や高井城)で現地見学会が開催されたようなので、藪が刈られていることを期待していたんですが、特に整備された様子はなく、主郭の中央部は藪の中でした。それでも横堀がしっかり遺っているのを見られただけでも満足です。

2022年03月10日 イオ右近衛中将
高井城[千石堀城  周辺城郭]



高井城は、織豊期に高井天神廃寺に根来衆が築いた城で、羽柴秀吉の紀州攻めでは行左京を守将として地元の百姓らが籠城しましたが、福島正則の攻撃により落城しました。

根来出城配置図によれば、高井城は近木川北岸の高井集落に築かれ、北隅の本丸を三重の堀で囲み、水間街道沿いに門を構えた平城で、対岸の千石堀城と対になって機能しました。

宅地造成により遺構は消滅していますが、名越駅の西にある公園は周囲から一段高くなっていて城跡(の一部)とされ、説明板が建てられています。また、発掘調査では高井城の遺構や遺物は見つかっていないものの、独鈷杵文や三鈷杵文の鎌倉期の瓦が発掘されており、高井天神廃寺は密教寺院だったようです。

2021年04月14日 御右近衛中将
千石堀城



以前は国立療養所千石荘病院がありました。付近一帯は風致地区に指定されており、自然が残されています。山頂からは関西国際空港の連絡橋が望めます。

2019年11月05日 天道式部卿早雲
高井城[千石堀城  周辺城郭]



説明板のみで遺構などは見当たりませんでしたが、ちょっとした小さい台地になっていたので、付城・見張り台としてはよく機能する場所のように感じました。

2017年03月17日 橘若狭守次郎吉
千石堀城

JR「和泉橋本」駅から徒歩25分程で登城口(工事用フェンス)に到着しました。探索時間は30分程で大丈夫かと思われます。遺構は曲輪と空堀、土塁です。空堀は思っていた以上に深く、見応えはあります。

2016年07月13日 シバヤン左兵衛督忠肝義胆
千石堀城

工場フェンス以外城跡の案内板もなく道なりに入っていきます。入って5分位進んで左手に切り株ベンチ、その左手に階段があり、入る。薮蚊に襲われたりしながら歩いてたら左斜面に竪堀?、堀切跡らしきものが•••。右側を見ると曲輪跡が、縁は土塁を設けてあります。
これは、明らかに射手が隠れて攻め上がる敵を狙い撃ちする防御用の土木施設です。
ここだけかと思い、薮蚊を払いのけながら散策したら他にも。曲輪の縁が人工的に盛り上がった箇所がありました。
最近の物の可能性もあるので断定できません。他の山城にはあまり見かけません。
鉄砲、弓矢それらの凄い使い手がこの城に立て籠もって秀吉軍を今か今かと全山針鼠のように待ち構えてたのを想像したら、生唾が出そうな恐怖感です。
たかが田舎城とナメてかかった秀長、秀次軍は大変な死傷者を出して地獄を見たことでしょう。
地面に白杭のある広めの山道を上がり北側に暫く歩いたら城址と説明文がありました。日焼けで殆ど見えないですが(;^_^A
入口から主郭まで30分位でした。
近くに(フルールクレープス)で食ったバナナクレープが美味しいですよ。

2016年07月13日 シバヤン左兵衛督忠肝義胆
千石堀城

水間鉄道の名越駅から近くに名越交番で道を尋ねたら、高井城跡が、途中に歩いて3分程の所にあるとの情報を。
交番から西に歩いて三叉路にでたら右に進んで正面に丘陵地に小公園が、この丘陵地が高井城です。千石堀城の付け城との説明文があります。
小さな台形の公園で看板なかったらわからないです。
案内板には、天正13年(1585)根来方の行左京•熊取大納言らが立てこもっていたが福島正則の軍勢に攻められ落城した、と。
遺構らしきものはありませんが、福島正則との戦いがあったと•••。
千石堀城行かれる前についでだから見てやって下さい。
交番前の道に戻って、西に進んで行くと近木川に架かる橋が現れてきます。
この近木川は多分、千石堀城だと思われる丘凌の東側を舐めるように流れていて防御に効いているように見えます。
橋を渡り左手にロータリーのバス停留所が現れます。左手に向きを変えて歩いたら工場フェンスが開いています。ここから千石堀城に入れます!
いよいよ千石堀城登城開始です!(続く)

千石堀城の周辺スポット情報

 千石堀城(碑・説明板)

 千石堀城跡の看板(碑・説明板)

 高井城(周辺城郭)

 森城(周辺城郭)

 落合城(周辺城郭)

 三ヶ山城(周辺城郭)

 公園トイレ(トイレ)

 せんごくの杜 里山駐車場(駐車場)

 展望台(その他)

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