牧野城(まきのじょう)

牧野城の基本情報

通称・別名

所在地

愛知県豊川市牧野町丁畑

旧国名

三河国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

牧野成富

築城年

応永年間(1394〜1428)

主な改修者

主な城主

牧野氏

廃城年

永正2年(1505)

遺構

土塁

指定文化財

市史跡(牧野城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

牛久保城(愛知県豊川市)[3.0km]
月ヶ谷城(愛知県豊橋市)[5.9km]
二連木城(愛知県豊橋市)[6.2km]
吉田城(愛知県豊橋市)[6.3km]
伊奈城(愛知県豊川市)[7.7km]
野田城(愛知県新城市)[8.3km]
雨山城(愛知県岡崎市)[8.5km]
新城城(愛知県新城市)[11.3km]
宇利城(愛知県新城市)[12.2km]
宇津山城(静岡県湖西市)[13.7km]

牧野城の解説文



牧野城(まきのじょう)は、愛知県豊川市牧野町丁畑付近に15世紀頃に牧野氏により築城された中世の日本の城。四国から移り住んだと云われる田蔵系の牧野氏が最初に築いた城とされる。豊川市指定文化財。

三河国二葉松には、牧野村古屋敷;牧野古白。三州古城記には、牧野古城;牧野古白。と紹介されている。

概要 

築城は付近を流れている豊川の当時の流れに望む自然堤防の地形を利用して行われたと推定されている。

また、城主は三河国宝飯郡の有力者、牧野成富・牧野古白入道(成時)の親子2代が城主であったとされる。牧野成富は四国の田口氏の一族と伝えられ、宝飯郡中條郷牧野村に移り住んで土着豪族となり、やがてこの牧野城を築いたものという。

成富の子牧野古白は共通の主君と伝える一色時家の長山一色城を押領した波多野全慶を明応2年(1493年)に倒して長山一色城に入城し、更に瀬木城を築城するなど、その勢力を伸ばして東三河の国人領主に成長した。やがて、城主の古白は今川氏に属して永正2年(1505年)には渥美郡の豊橋市域に今橋城を築城して本拠をそこに移したので、この牧野城はその頃に廃城されたと伝えられている。

しかし、この城の使用されていた当時の史料は現存しておらず、城主などについても、『牛窪密談記』や『宮嶋記』などの後年の史料によるものである。

現在は土地改良区に指定されたために農地整備により敷地を切り取られ過去の面影をほとんど留めていないが、土塁を含む遺構の一部が平成7年(1995年)2月13日には豊川市により指定文化財に指定された。

発掘調査 

城域は現地の圃(ほ)場整備実施のために平成5年(1993年)5月から地元豊川市教育委員会によって、牧野城本丸跡を中心に約3000m2の地域を発掘調査した。その結果、 1.本丸と推定される地域の北側・西側・南側より堀跡が現れ、城域は南北は約102m、東西は北堀で約72m・南堀で約84mの台形をしていたとあらためてその規模が確認された。 2.本丸東端より約20mを隔てたその外周、及び現存の本丸土塁の東側20mに新たな堀の存在が発見された(堀幅は4-5m、深さ2.5-3m)。 3.その土塁の外側に新発見の堀のさらに外側に浅い堀らしきものが別に現れた。 4.本丸の東外側の新発見の堀(外堀)の底部にW形の構造が見られた。

発掘調査の成果から、従来は屋敷城、すなわち単郭の掻揚城と思われていた牧野城は、やはり、主郭を囲む土塁と周濠による単郭の掻揚城であったことが改めて確認された。

さらに、東側外堀のW形の堀底には甲斐武田氏の築城法との類似点も指摘され、「今川氏と交流の深い牧野氏の城に進歩的な武田氏の築城術の導入がいかになされたのか」という新たな課題も浮かんだ。(現在は圃場整備が終了し、土塁の一部を除き牧野城跡は消滅した)

なお、発掘調査の結果に基づき想定された城の縄張りは諸国古城之図(広島藩の浅野氏が、宝暦13年(1767年) - 寛政11年(1799年)に作製)にある牧野城の絵図(図面のみで何も説明が無い)とはかなり異なるものだった[1]

参考文献 

  • 豊川市教育委員会『牧野城跡発掘調査報告書』1994年。
  • 早川彦右衛門『新訂 三河国宝飯郡誌』国書刊行会、1980年。

牧野城の口コミ情報

2023年04月18日 千閑斎
牧野城



三河の牧野城に行ってみました。掻き上げの城とと説明看板にありましたが方形の居館の様な気がします。農地の中、南西の土塁は良く残っています。

2022年04月22日 RED副将軍
牧野城



L字型の巨大な土塁が農地のなかに残ります。

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

応永年間(1394~1428)に、四代将軍足利義持の命により、讃岐から当地へ地頭として移って来た牧野成富によって築かれたと云われます。1505年に、2代牧野古白は今橋城を築いて居城を移した為、廃城となりました。

見所
農地改良が進み、遺構の大半が消滅。L字状の土塁の一部だけが残りますが、高さは約3m、幅は約13mと長大なものです。

2022年04月19日 コバ駿河守
牧野城

土塁の一部と、本丸の内側の削平地の一部が残っています。昔の写真を見ると、土塁の上に城址の碑が立っている模様です。

2022年04月17日 ファン掃部助トム治郎
牧野城



豊川駅から徒歩30分くらいです。土塁が残ります。

2021年02月12日 戦国一番星
牧野城

一部ですが、南側の土塁がしっかり残っています。

2021年01月31日 近江守フロクニ
牧野城



石碑は東側の道からも見えるけど、上に登るのは東側から行くのが良い。現場に着いたら先に北側の看板を見ておくと土塁等の位置関係が分かるのでオススメ。

2020年09月08日 しんこう
一宮砦[牧野城  周辺城郭]

【指定史跡】市指定史跡
【遺構】曲輪、枡形虎口、土塁、空堀
【歴史】徳川家康の武勇伝の一つ「一宮の後詰」の砦。桶狭間の戦いの後、永禄年間(1558~1569)、今川氏真は牛久保城に着陣して、松平方の本多信俊等が守る一宮砦を大群で包囲。松平元康(徳川家康)は、小勢でその攻囲を突破し砦を救援したとされています。(現地案内板より)
【感想】往時は複数の曲輪があったようですが宅地や畑地に変わり今では主郭のみ。土塁を伴う小規模な桝形虎口が残存していて楽しめます。段丘側の土塁は良好に残っており、また南北の空堀も残存しているようですが十分に鑑賞できず心残りでした。

2020年03月07日 陸奥守たろす
瀬木城[牧野城  周辺城郭]



【瀬木城】
〈概要〉
瀬木城は明応2年(1493年)に牧野成時(古白)が牧野城につぐ居城として、また上郷(牛久保)進出の拠点として築城。
当時は豊川が城の東側を流れており、牧野城と瀬木城は豊川の本流によって強く結びついていた。
成時は間もなく一色城に進出し、牧野城に長男能成を、瀬木城に二男成勝を配した。
その後、成勝は一色城に移り、また豊川の流路も変わったこともあり廃城となった。
〈遺構〉
本丸と思われるところは一段高くなっており、現在は神明社が祀られている。
周囲は高い土塁と広く深い堀にかこまれていたが、現在は北西面の一部が虎口跡と共に残っている。
城郭的には牧野城よりも近世的要素を持った掻揚城であったと思われる。
〈駐車場〉
城跡前のアパートの道を挟んだ畑側に駐車場ではないが1台分のスペースあり。
(散策時は畑仕事のご主人が見えたため許可を頂き駐車)

2020年03月06日 陸奥守たろす
讃岐屋敷[牧野城  関連施設]



永正2年(1505年)、牧野成時(古白)が今橋城(吉田城)に移って間もなく牧野城は廃城になった。ときの城主は長男の能成であったが居館を南方の地に構えた。
牧野氏の来移前の地が四国讃岐であったことから、この地が「讃岐屋敷」と呼ばれた。
後に、一族の牧野康成が徳川家康に従って上州大胡に移ってからも、能成の子孫はこの屋敷に留まってその家系を明治まで残した。
往時の面影を今に残す門は、鳳来寺の一院から移築したものと言われるが、痛みが進み倒壊の恐れがあったので、昭和63年に修復され今に至る。
(現地案内板より)

現在は「さぬき公園」として市民の憩いの場となっている。

2019年05月18日 しげぽん
牧野城



城址遺構は土塁が残る程度です。
現在は雑草が生い茂っているので中まで入るのは少し大変です。

2010年06月08日 三河守コーキしゃん
牧野城

土塁の一部残っていてその上に石碑がポツンとあるだけでした

牧野城の周辺スポット情報

 城名石柱(碑・説明板)

 説明看板(碑・説明板)

 瀬木城(周辺城郭)

 一宮砦(周辺城郭)

 豊川城(周辺城郭)

 讃岐屋敷(関連施設)

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