仙石氏館(矢沢陣屋)
仙石氏館(矢沢陣屋)([真田氏館 周辺城郭])
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仙石氏館(矢沢陣屋)の口コミ情報
2024年08月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
仙石氏館(お屋敷)は真田氏館の南南西約2.1km、矢出沢川東岸(左岸)、標高約618mの丘陵地緩斜面上平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は該地の駐車場に捨てられるが何のための駐車場なのかは知らん。
築かれた年代は不明だが、寛文年間(西暦1661年〜1673年)である事に間違いは無いだろう。お住まいになられていたのは旗本、矢沢仙石氏です。同氏の祖、仙石和泉守政勝は、上田藩藩主、仙石忠政の三男、寛文九年(西暦1669年)、藩主であった兄の政俊の隠居に伴い、藩領六万石の内、小県郡矢沢村等(赤坂、岩清水、漆戸、小井田、下郷、森、矢沢、及び、林之郷の内)、二千石を分知され矢沢村に居館地、陣屋を構えた。但し、政勝は江戸詰であった事から矢沢に滞在したのは延宝二年(西暦1674年)二月から四月にかけての僅かな期間でしかなく、知行所は一貫して代官支配を受けている。陣屋代官は、譜代家臣、金井氏から漸次農民出身の田中氏に引き継がれ、代官と村庄屋の間には割番二人を置いた。知行所の戸口は、天保九年(西暦1838年)の時点で、戸数二百七十軒、千九百四十一人(加増された国外他所分を除く。)、経営は財政難から次第に年貢先納金や献金、御用金、才覚金、無尽金等に依存するようになっていった。
領主である政勝は、盗賊改役、御勘定頭等を歴任、本家とは別の道を歩み、但馬国出石藩への移封にも従わず、知行所と陣屋は明治維新まで七代に亘り存続、明治二年(西暦1869年)二月、伊那県に引き渡された。ちなみに政勝は、盗賊改役でありながら借りた金子三百両を期日までに返済せず貸付人を困らせたりもしている。実際に返済されたのかは不明だが、催促されなければ踏み倒す気満々だったような気がする。
実は2回目の訪問、居館てよりは結果として陣屋の役割を果たしたんだろう。敷地の西側は矢出沢川の流れが崖地を形成、南側は小沢の流れる谷筋で要害地形でもある。一説によれば、中世〜戦国時代に矢沢氏の居館地だったとも推測されている。城郭遺構として北辺に幅員のある堀形、随所に立派な切込み接の石垣が残り、門の一つは何のアナウンスも無いが密かに現存だったりもする。又、桝形の石垣上に建つ土蔵は後世のものとされるが、土蔵に続く斜路側壁の石垣上端が丁寧に処理されており、石垣上の建造物が何だったのかは不明とはいえ、斜路自体は往時のままだと言えそうだ。
現在も陣屋代官の子孫の方がお住まい。当然、後世の改変もあるとはいえ、比較的良好に往時の姿を留めている。小さな陣屋が各地に多数点在していた信濃だが、石垣がしっかりと現存している陣屋は珍しいと思う。ちなみに代官所は陣屋の南下、古道上に面し、高札場は西下の辻に設けられていた。
上田城は、慶長五年(西暦1600年)、「関ヶ原の戦い」の後に徹底的に破却された事が知られているが、仙石氏初代、秀久とその子、忠政はその破却に関わった人物である。元和八年(西暦1622年)、加増移封されて小諸から上田に入部した忠政は、上田城の再興を幕府に願い出て、寛永三年(西暦1626年)から城普請が始まるが、自らが破却に携わった真田氏の要害を復興させる形で普請が進められた事になる訳だ。ちなみに寛永五年(西暦1628年)四月二十日に死去した忠政が上田城の完成を見る事はなかった。
※農民出身の田中氏〜「長野県史」に拠ったが、天正七年(西暦1579年)二月六日、「上諏訪造宮帳」、大宮御門屋の条には、「矢澤之郷 正物五貫文幷太刀一腰 代官 上原与助、田中豊後守」とあり、田中氏が在地で帰農した武士を出身とする可能性が残る。元は矢沢氏の代官であろうか。
※小諸から上田に入部〜上田への移封は忠政の願い出とも伝わる。
※ぶっ飛ばされるかもしれないけど、おいらにとって今に残る上田城とは仙石氏時代のお城である。苦言を呈されても構わないけど、おいらの考えを翻意させる事は出来ないと思うんで悪しからず…