竹ヶ鼻城(たけがはなじょう)

竹ヶ鼻城の基本情報

通称・別名

竹鼻城

所在地

岐阜県羽島市竹鼻町丸の内3

旧国名

美濃国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

竹腰尚隆

築城年

応仁年間(1467〜1469)

主な改修者

不破広綱

主な城主

竹腰氏、不破氏、一柳氏、杉浦氏

廃城年

慶長5年(1600)

遺構

消滅

指定文化財

市史跡(竹鼻城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

加賀野井城(岐阜県羽島市)[3.7km]
墨俣城(岐阜県大垣市)[4.9km]
田代城(岐阜県羽島郡)[6.0km]
八神城(岐阜県羽島市)[6.4km]
野府城(愛知県一宮市)[6.4km]
黒田城(愛知県一宮市)[7.6km]
福束城(岐阜県安八郡)[7.6km]
苅安賀城(愛知県一宮市)[8.0km]
中島城(愛知県一宮市)[8.8km]
大垣城(岐阜県大垣市)[8.9km]

竹ヶ鼻城の解説文



竹ヶ鼻城(たけがはなじょう)は、尾張国葉栗郡、のち美濃国羽栗郡(岐阜県羽島市竹鼻町)にあった日本の城(平城)。1586年(天正14年)の木曽川大氾濫によりその流路が南遷したことに伴い尾張国より美濃国に遷った。それ以前の流路は現在の境川筋を流れ墨俣付近で長良川と合流していたと考えられている。竹鼻城と表記されることもあり、竹鼻城跡として1955年(昭和30年)に羽島市の史跡に指定されている[1]

概要 

正確な位置は特定されていないが、丸の内地区に本丸があったと言われている。逆川を外堀とした二重の堀を有していた。

当初は、市道と名鉄竹鼻線の踏み切り付近に城碑があったが、現在は上城町、下城町付近が城跡と推定され、歴史民俗資料館前に城碑を移した。なお、北側の市道工事の際、地下から川原石の石垣が出土している。位置関係からも竹鼻城の遺構の。

築城は竹腰尚隆によって応仁年間(1467年 - 1469年)に行われたとされている。その後は土岐氏や斎藤氏に仕えた長井氏が入り、更に織田氏に支配権が移ったと考えられる。1584年(天正12年)、織田信雄の配下の不破広綱が城主の時代に起きた小牧・長久手の戦いの際に、豊臣秀吉の水攻めに遭い落城(竹ヶ鼻城の水攻め)。不破氏は落ちのび、秀吉の配下の一柳直末が入城した。直末が大垣城主となると、池田恒興の配下の伊木忠次、次に森寺清右衛門が入城する。後に不破氏はこの地に戻り、不破一色村に住む。

その次の織田秀信配下の杉浦重勝が城主の時代の慶長5年8月22日(1600年9月29日)、関ヶ原の戦いの前哨戦として福島正則によって攻囲され、二の丸、三の丸に詰めていた援軍の毛利広盛らが知己であった福島に降伏してしまったため落城、杉浦は自害した(竹ヶ鼻城の戦い)。後、竹ヶ鼻城は廃城となる。

昭和時代初期には二の丸跡地が畑地になるなど、地域から忘れられる存在となっていた。1942年、有志らが竹ヶ鼻城址建設奉賛会を設立。城址に十三輪塔を建立して、杉浦重勝ほか540名の将士の霊を祭った[2]

現在跡地は商店街や羽島市の歴史民俗資料館となっている。

竹ヶ鼻城の口コミ情報

2023年02月21日 noble式部卿弥勒菩薩
竹ヶ鼻城

完全に宅地化されており、遺構は特にありません。ただ、歴史民俗資料館裏手(現代風の(搦手)ですね)に、堀跡とされる水路があるので、それだけ見ました。唯一の、遺構っぽいものです。強いて云えば、ね。

2023年02月06日 RED副将軍
牧村城[竹ヶ鼻城  周辺城郭]



利休七哲である牧村利貞の居城🏯山内一豊ゆかりの地

オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

築城年代等は不詳。戦国時代には斎藤龍興の家臣である牧村正倫が城主であったとされます。牧村氏は、稲葉重通の子の利貞が家督を承継しました。牧村利貞は織田信長に仕え、信長の死後は豊臣秀吉の馬廻りとなり朝鮮出兵にも参加しています。また利休七哲のひとりに数えられる茶人でもありました。山内一豊が、主君であった岩倉織田氏が織田信長により攻められ落城、家老であった父も討死し流浪していたところ、この牧村城で庇護されたと云われます。

見所
遺構は消失しており、円長寺の境内に牧村城の碑が立っていますが、正確な牧村城の場所すら分かっておりません。

2022年12月17日 【城郭道】たっきー
森部城[竹ヶ鼻城  周辺城郭]



【森部合戦の地の付近】
森部城、岐阜県安八町。
1561年の森部合戦(前田利家が足立六兵衛を討ち取った戦)で信長に味方した河村久五郎の居城です。その南の金峯神社には稲葉正成(春日局の夫)が屋敷を構えました。現在遺構はなく、説明板が建っています。

2022年12月16日 【城郭道】たっきー
牧村城[竹ヶ鼻城  周辺城郭]



【山内一豊ゆかりの城】
牧村城、岐阜県安八町。
牧村牛之助正倫が城主だったお城です。その家督を継いだのが利貞で、その牧村利貞が利休七哲の一人だったりします。1559年に岩倉城(愛知県岩倉市)が落城した際に山内一豊が流浪の身となり、翌年にこの城へと身を寄せたとか。

2022年12月11日 【城郭道】たっきー
氷取城[竹ヶ鼻城  周辺城郭]



【竹ヶ鼻城の出城】
氷取城、岐阜県安八町。
竹ヶ鼻城の主・不破友綱の弟である大炊頭(おおいのかみ)が城主だったお城です。
1584年に豊臣秀吉によって加賀野井城や竹ヶ鼻城が落城した時にこの城も落城したといいます。現在、遺構はなく説明板が建ちます。

2022年11月25日 RED副将軍
氷取城[竹ヶ鼻城  周辺城郭]



水攻めで有名な竹ヶ鼻城の出城跡🏯

オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

氷取城(こりとりじょう)と読みます。

築城年代等は不詳。
竹ヶ鼻城の出城であり、不破友綱の弟の不破大炊頭が城主であったと伝わります。
1584年の小牧長久手の戦いにおいて、豊臣秀吉は加賀野井城を落とすと、次に竹ヶ鼻城を木曽川の支流である足近川に堤を築いて氾濫させ水攻めにし落城させます。
氷取城も竹鼻城と共に落城した様です。

見所
現在は遺構は消失し何もありません。
名森小学校周辺が城跡であった様で小学校正門向かいのゴミ集積所横に案内板が立つのみです。
よくみると案内板横の電柱には「城1」と地番表示があり間違い城跡であったことが感じられます。

2022年11月24日 右近衛少将与助
竹ヶ鼻城

名古屋鉄道竹鼻線「羽島市役所前」駅から北東へ約300m。城跡には現在、羽島市歴史民俗資料館が建っています。

2022年10月24日 友乃足軽隊
竹ヶ鼻城



竹ケ鼻城は歴史民俗資料館と映画博物館が城風な外観で街並みも昭和を感じます。映画博物館は70代以上の人は懐かしい感じがすると思います。城巡りというより街歩きにいいとこだと思います。

2022年10月14日 みつ
竹ヶ鼻城

羽島市歴史民俗史料館の敷地内に竹ヶ鼻城跡の石碑があります。正面に竹鼻別院と言う藤の花で有名な寺院があります。辺りを散策すると、お堀の跡?や、当時の町並みや、築城主と同じ名字の竹腰さんや不破さんの表札の御宅が有り、子孫?かもしれないってワクワクしてきました。所々に町並みの看板が在り、整備されている感じがしました。

2022年10月12日 菩提玄蕃頭山城
竹ヶ鼻城



羽島市歴史民俗資料館・映画資料館の前に石標と案内板があります。
以前、行ったときには、本丸は別の場所にあったんだよと聞いた記憶があるのですが、このあたりにあったとの説もあるようです。
ここに行くと、はしま交流センター「ぐるっと羽島」でのんびりしてから次の目的地へ向かいます。

2022年09月17日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
牧村城[竹ヶ鼻城  周辺城郭]



山内一豊ゆかりの牧村城址
牧村城
十六世紀の戦国時代、当地に小城があり、牧村牛之助政倫(斎藤龍興の家臣)が居城していました。のちに政倫は、牧村兵部利貞(利休七哲の一人)を継嗣にしました。城址は、古記録に、「村南にあり」とされており、この付近と推測されます。
一豊のかかわり
土佐藩祖となった山内一豊は、十五歳の時(永禄三年 1560)城主 牧村政倫の元に身を寄せました。
一豊は、守護代 岩倉織田家の家老 山内盛豊の子として生まれました。永禄二年、織田信長に攻められ、岩倉城は落城し、父と兄は討ち死にしました。一家は流浪の艱難の時、当地に寄属しました。
出世の足がかり
一豊は、政倫が敵に襲われた時、水色の帷子鉢巻き姿で馬に乗って撃退するなどの武功をたてました。また、地道で誠実な人柄を高くかわれ、秀吉の家来になりました。その後、妻 千代の内助の功もあり、土佐 二十四万石の大名にまで、出世しました。
牧村城は、若き一豊が激動の中を過ごし、政倫や西美濃の諸武将から、貴重な人生を生き抜く才知を学び、出世の足がかりになるところでありました。
石碑碑文より。

参詣者用駐車場があります。

2022年09月12日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
氷取城[竹ヶ鼻城  周辺城郭]



安八町史跡 氷取(こりとり)城址
氷取城は竹鼻城の出城で、竹鼻城主 不破源六友綱の弟、不破大炊頭が守っておりました。
天正十二年(1584)、小牧長久手の戦いで、豊臣秀吉は、まず羽島市下中町の加賀野井城を落とし、続いて竹鼻城を水攻めにしました。城兵はよく戦いましたが、六月十日落城。氷取城は、このとき竹鼻城と運命を共にしたと思われます。
城の遺構はありませんが、町名として残りました。
安八町教育委員会
説明板より。

名森小学校南側の公園?広場?のゴミ集積場の建物の東側に、説明板がひっそりと立っています。
(小学校前なので、登下校時は注意が必要です。)

2022年06月21日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
八剱神社(不破源六広綱公歌碑)[竹ヶ鼻城  寺社・史跡]



八劔神社縁起
祭神 日本武尊
由緒 人皇第十二代 景行天皇の皇子 日本武尊が、伊吹の山賊ご征討の折り、熱田からのお道筋になった氏子の祖先が、後世尊の御勇姿を景仰して村内字須賀の地に奉斎したのを、天正九年(西暦1581年)竹鼻城主 不破源六が居城の守護神として現地に遷祀し、社殿を造営して崇敬の誠を捧げた。
社殿は、飛騨工武田番匠の手になり、彫刻周密なかでも正面破風の「波に浮かべる兎」は名工 左甚五郎作と伝承され、社殿は覆殿を設けて、その保存に万全を期している。
拝殿の絵天井は、郷土の画家 宮脇有景の作であったが、永年の風雨により、原画をどとめない状態となったので、平成四年に地元の画家十九名によって、花鳥を中心に描かれ、極彩色豊かな絵天井104枚が復元されよみがえった。

拝殿前の説明板より一部抜粋。

神社の参道途中の池には、小舟が浮かべられており、なまず神社のお社があります。
その西側に石碑がたくさんあり、一番北側には不破源六広綱公の歌碑が建立されています。

神社の南側には、神社参拝客・羽島市観光者用の駐車場が出来ていました。

2022年06月19日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
竹鼻別院(竹中伝六喜伯の墓)[竹ヶ鼻城  寺社・史跡]



竹鼻別院の由緒
嘉禎元年(1235)親鸞聖人が関東からの帰途、三河の柳堂で教化された時、葉栗郡門真の庄、河野四郎通勝等九人の者が教えを受け、木瀬に草庵を結び聖人を迎えた。後世これを「河野九門徒」と言い、濃尾真宗門徒のはじまりであり、この草庵が竹鼻別院の前身である。
文明二年(1470)蓮如上人ご巡化の折、洪水で流れた草庵を再興し「河野御坊」と名付けられた。その後、河野御坊は専福寺と改称されたが人災・天災などで何度も移転した。
戦国時代、本願寺と織田信長との一向一揆(石山合戦)に、当時の住職 忍語が出陣し戦死した。
慶長九年(1604)教如上人はこの功に報い、寺を「御坊」とし新加納村から竹ヶ鼻村に移し、五十四ヶ寺を配下にした。
竹鼻の下町にあった「御坊専福寺」は、再度の類焼に遇い、現在の地に移転したのは、宝暦十年(1760)である。明和八年(1771)から、五十年の歳月を要し完成した本堂は、明治二十四年(1891)の濃尾大震災で倒壊した。しかし、「法燈を護らねば」と、篤信の門信徒達によって直ちに、南北八間・東西十八間の仮本堂が建立された。
現在の本堂は、大正四年(1915)から、大正十年にかけて再建された。なお、「竹鼻別院」と改定されたのは、明治十九年(1886)である。

説明板より。

境内には、岐阜県指定・羽島市指定史跡 薩摩工事義歿者 竹中伝六喜伯の墓や、羽島市 天然記念物 竹鼻別院のフジなどがあります。

竹ヶ鼻城の正確な場所は、特定されていない為、幾つかの推定地があり、竹鼻別院の西側にあったとされている説もある。

山門北側から、境内駐車場に入る事が出来ます。

2022年06月14日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
一夜堤跡[竹ヶ鼻城  碑・説明板]



他の場所の石碑と異なる形状なので、他の石碑より昔に建立されたものと思われます。

竹ヶ鼻城より、本覚寺、八剱神社と歩いて来ましたが、本覚寺の東側辺り〜八剱神社、石碑のある今町交差点は竹ヶ鼻城より、若干高低差がある感じでした、河川の流れで出来た自然堤防の痕跡なのだろうか?一夜堤の痕跡だと嬉しいのだがどうなのだろうか?

羽島ったら○ったいら〜ですので、竹ヶ鼻城周辺の史跡は巡りやすいかも。

2022年06月12日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
本覚寺[竹ヶ鼻城  寺社・史跡]



真如山 本覚寺
当山は福井県の永平寺と横浜市の総持寺を二大本山とする、曹洞宗(禅宗)のお寺です。
当山は、永正(1504〜1520年)の頃、時の領主・不破広綱源六公が始祖・本覚寺殿大雲義沢大居士のために、一宇を創建したのを始まりとします。竹鼻城主の菩提寺と言われる由縁です。
その後、当山は小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦いの戦乱、安永三年(1773年)の大火、明治二十四年(1891年)の濃尾大震災などに見舞われ、その度ごとに倒壊・焼失、復興・再建を繰り返し、現在の伽藍は大正四年(1915年)に建立され、第二次世界大戦の戦火をまぬがれ今日を迎えています。
本尊は、宝冠釈迦牟尼如来、本堂内には十六羅漢像の他に少なくとも江戸期に製作された、百二十五体の震災の傷あとが痛ましい羅漢像が祀られ、天井には幕末の勤皇家で京都の大和絵師であった、浮田一恵による八方にらみの雲龍(岐阜県重要文化財)が描かれています。この板絵は濃尾大震災により破損したのですが、本堂再建の際に森村宜稲画伯によって復元されたものです。当山には同画伯による八面の松の襖絵もあり、期間限定で展示されています。
本堂の左手奥には、不破家伝来の霊験あらたかな茶枳尼天を御神体とする竹鼻稲荷大明神が祀られ、数知れぬ多くの信仰を集め、節分や初午には祈祷法令が営まれています。
また、庫裏の裏手にある境内墓地には、美濃聖人・永田佐吉翁(1701〜1789年)の墓所(岐阜県指定史跡)があります。

参詣者用駐車場あり

このお寺より、少し東側に若干の高低差があるのだが、一夜堤の痕跡だったらいいのだが…?位置的には、この辺りにあっても間違いはずだが、どうなのだろうか?

2022年05月23日 Nuniek弾正尹
竹ヶ鼻城

余談になりますが、近くに竹鼻振興に欠かせない和菓子屋さんが頑張ってみえます😃

2022年05月06日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
札の辻[竹ヶ鼻城  碑・説明板]



本町通りから、川町土場(船付場)へ行く、この三叉路は、江戸時代に高札場(制札を立てた所)が設けられ、札の辻と呼ばれた。
石碑側面の碑文より

竹ヶ鼻城址のすぐ東側の通りの信用金庫駐車場入口にひっそりと石碑があります。

2022年05月05日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
竹ヶ鼻城



毎年5月3日に、近くの八剱神社で、竹鼻祭りが開催されている。この季節は、近くの竹鼻別院の藤まつりが開催されているが、今年は中止になってしまったが、藤の鑑賞は可能との事です。駐車場が混み合っていて、リア攻め出来ず無念なり。写真は、去年8月のものです。

2022年05月05日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
一夜堤の跡 [竹ヶ鼻城  寺社・史跡]



竹ヶ鼻城南側の郵便局西側に一夜堤の跡の石碑が立つのみで、遺構などは確認できない。

2022年02月12日 RED副将軍
竹ヶ鼻城



小牧・長久手の戦い の後に羽柴秀吉による水攻めと、関ヶ原の戦いの前哨戦となった竹ヶ鼻城の戦いの舞台です

オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

応仁年間(1467年〜1469年)に竹腰尚隆により築城。
土岐氏、斎藤氏に仕えた長井氏が入り、その後は織田氏の支配となり不破広綱が入城。
1584年に小牧・長久手の戦いにおいて、豊臣秀吉の水攻めにより落城。木曽川の支流足近川に堤防を築いたため、竹鼻城は冠水したと言われています。
秀吉の死後、実権を掌握する徳川家康に対し、石田三成が反旗を翻します。
岐阜城主の織田秀信は石田三成に与し、秀信の配下だった竹鼻城主、杉浦重勝も西軍となります。
東軍は岐阜城を攻めるために、まずは福島正則が竹鼻城を包囲し落城させます。
その後、岐阜城も落城し、関ヶ原の戦いの前哨戦となりました。

見所
歴史的には有名な激戦地でしたが、市街化により遺構は消失。
江戸時代に開発により既に消失し、正確な場所も分かっていない様です。
羽島市歴史民族資料館の前に標柱と案内板があるのみでした。
近くの真宗大谷派竹鼻別院も併せて参拝もどうぞ。

2021年11月06日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
須賀城[竹ヶ鼻城  周辺城郭]



築城時期、城主等は不明。藤原氏の出である、加藤氏がいたと思われる。一説には、加藤清正の兄、正道がいたとも云う。『羽島市史』

須賀城は、横手東公園辺りとされる。公園入口の開発山の由来(説明板の文中より一部抜粋)

須賀の北端の小字名に定城という所がありますが、この地には昔、須賀城が栄ていました。定城の中央部にある開発山は、その須賀城の天守閣があった所と伝えています。(中略)現在では、この須賀城の伝えを残す開発山だけが残されました。

築城時期、城主等、不明なので天守があったとは、思えないが……。詳細不明なのが残念です。

2021年10月06日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
森部城[竹ヶ鼻城  周辺城郭]



安八町史跡  森部城址
この地は、永禄四年(1561年)の森部合戦に、織田信長に味方して手柄をたてた、河村久五郎の屋敷跡と言われています。

南隣の金峯神社跡地は、慶長十五年(1610年)頃、羽島市本郷城主 稲葉佐渡守正成(曽根城主 稲葉一鉄の次男 重通の養子)の屋敷跡で、「下屋敷」という地名の起こりと言われています。
(不破壱岐守が居城したと云われる)
正成の奥方は、後に江戸幕府三代将軍 徳川家光の乳母「春日の局」であります。
安八町教育委員会
説明板より抜粋

公民館南側のゲートボール場跡地?の片隅に説明板があります。ゲートボール場と金峯神社の境目には、堀跡を思わせる水路があるが、遺構ではないかな?

神社周辺は、周囲の水田より若干、微高地となっていて、近くの史跡として森部合戦の古戦場や、前田利家出世の松がある。

2021年09月28日 オッス!オラ、テツロ
間島太閤山[竹ヶ鼻城  寺社・史跡]



竹ヶ鼻城を水攻めする際に付城となった高さ6m、40m四方の小丘跡は元々、河川氾濫地域の「助命壇」だったのでしょうか?現在はその高さ相応(電柱で目測)にある祠から秀吉の視高を感じることができます(写真)。

将兵のみならず地域一帯から人を集めた突貫工事で一夜堤を造り、水攻めが始まりました。おお、みろ人がごみのようだ(妄想)、、
竹ヶ鼻城は二の丸まで冠水、町家は約1mも浸水、筏を組んだり簀を張ったりして対処するも逃げ場を失った鼠や蛇が押し寄せ、婦人子どもはこれに苦しんで死ぬものも出たといわれます、、、

水攻めに加担したかたちとなった民衆には痛たましき眺め、、やるせなかったことでしょう、、、

【誤削により再口コミ<(_ _)>】

2021年09月05日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
下之城[竹ヶ鼻城  周辺城郭]



羽島市役所が、昭和39年に編集した「羽島市史」に、羽島市竹鼻町下城町に下之城という城があったという。
築城時期は不明、城主は名倉氏で竹ヶ鼻城の出城とされているが、詳細は不明。
城跡は、義明寺付近とされるが、義明寺は現在無くなっており、西岸寺東側の保育園の駐車場になっている。
但し、城跡の正確な場所は特定されていない。

2021年08月11日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
一夜堤の跡[竹ヶ鼻城  碑・説明板]



史跡 一夜堤の跡
一夜堤は、天正十ニ年五月 羽柴秀吉が竹ヶ鼻城を水攻めにした時、急造した堤である。秀吉は、総延長三キロメートルの堤を築き十万の兵をもって不破源六広綱 竹ヶ鼻城主を攻め落とした。
石碑側面碑文より

竹ヶ鼻城を中心に南西〜南側に3箇所、北側に1箇所、同様の石碑があり、それを線で繋ぐと一夜堤の規模が想像出来ると思います。
羽島市営斎場の西側の芝生に石碑があります。

2021年08月10日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
間島太閤山[竹ヶ鼻城  寺社・史跡]



八幡神社の東側の樹木が切り払われて、小丘全体が見やすくなってました。

2021年08月10日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
間島太閤山[竹ヶ鼻城  碑・説明板]



間島太閤山史跡  (羽島市指定史跡)
天正十二年(1584年)五月、秀吉は一夜城を築かせ、竹鼻城を水攻めにした。小牧・長久手戦に続く戦いである。
この時この地に取り手を築いて、見張場とした。見張場は二十二〜二十三間(40㍍)四方、高さ二丈(6㍍)もあったという。
太閤山と呼ばれた、この小丘には、昔より清水の出る井戸があり、日照りにも旱魃せず、水の増減もないと言われていた。
今、畑地の西隅に立つ数本のマキの大木は、かつての小丘のすそ部にあたるという。
羽島市教育委員会

神社南側にも、説明板と石碑があります。

2021年07月29日 ▷☾◁猫耳萌え▷☽◁
本郷城[竹ヶ鼻城  周辺城郭]



史蹟 本郷城の由来

本郷城は、神明神社の西に広がる水田ニヘクタール程であり、明治十四年以前には城の内と呼ばれていた。

城の内とは、慶長六年(1601年)より、元和九年(1622年)まで稲葉内匠正成(付・妻は斎藤内藏助利三の娘で、後年 徳川三代将軍家光の乳母となる春日局)が、葉栗郡内と中島郡内を合わせてほぼ一万石を領して、居城を構えた本郷城の跡であり、この神明神社も創祀は城の鎮守神との伝承がある。現在でも本郷地内には鉄砲町・町裏・町田紅屋・鐘鋳などの小字名が残り、城下町の名残りを止めている。

今日では城跡の面影を残すものは何もないが、この地に碑を建立し、一文を付して後世に伝えます。

城址碑裏側の碑文より

2021年06月01日 青コアラ美濃守
牧村城[竹ヶ鼻城  周辺城郭]



斎藤龍興の家臣・牧村政倫の居城。
円長寺というお寺に城跡碑がありますが、はっきりとした場所は特定されていないので遺構もありません。
のちに土佐藩祖となる山内一豊が15歳の時、尾張岩倉城の落城により父と兄を失って流浪の末、牧村政倫の元に一時身を寄せたと伝わります。石碑に「山内一豊ゆかりの城」と刻まれているのはその為です。

2021年05月31日 Yana中務大輔
竹ヶ鼻城



羽島市歴史民族資料館の前に石碑と看板があります。城風の建物は映画資料館です。

2021年05月30日 青コアラ美濃守
氷取城[竹ヶ鼻城  周辺城郭]



氷取(こりとり)城は竹ヶ鼻城の出城で、小牧・長久手の一連の戦いの中で竹ヶ鼻城とともに落城したとされます。

名森小学校前の一角に簡単な説明板が立っていますが、樹木とゴミステーションの間の狭い隙間にあるため完全に隠れキャラ化しています。
遺構はありません。残された地名から城を偲ぶのみです。ここの住所はそのものズバリ「城」です。

2021年04月03日 【城郭道】たっきー
間島太閤山[竹ヶ鼻城  寺社・史跡]



竹ヶ鼻城北西にある間島太閤山。1584年、豊臣秀吉が竹ヶ鼻城へ水攻めをする際に本陣を構えた場所です。少し離れたところにはその時に築いた一夜堤があります。
現在は石碑が建ち、高台となっています。又、その高台には神社があります。

2021年04月02日 【城郭道】たっきー
一夜堤の跡 [竹ヶ鼻城  寺社・史跡]



1584年、豊臣秀吉が竹ヶ鼻城に水攻めをしました。その時に築いた一夜堤の跡が今もあります。
現在は石碑が建ち、後ろには水路があります。
ここは竹ヶ鼻城の南にあたります。また、その時の秀吉の本陣があった場所も少し離れたところにあります。

2020年12月19日 やまぴぃ
竹ヶ鼻城



記念碑と説明板しかありませんでしたが、「ぐるっと羽島」という観光センターがあり、ちょっとした観光スポットになっていてよかったですよ。ぜひに😊

2020年09月16日 VIFAM 【7】尾張守
竹ヶ鼻城

竹鼻城址のすぐ後ろ、真宗大谷派竹鼻別院があります。竹鼻別院の門前くぐり、中庭に説明看板があります。史跡も、二つあります。お見逃しなくです🙇‍♂️

2020年08月18日 とんかつおやじND
間島太閤山[竹ヶ鼻城  寺社・史跡]



織田信長の死後、実権を掌握した羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康とが対立し、天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いが起こった。4月9日、長久手で家康に敗北を喫した秀吉は、作戦を変更して伊勢長島城の信雄を脅かし、家康を誘い出そうと図った。秀吉は細川忠興らを動員すると、まず5月6日ないし7日に信雄方の加賀野井城を落城させ、翌日には竹ヶ鼻城の北西1キロメートルにある間島村の丘陵に付け城を築いて、そこを本陣とした。
ウィキペディアより

現在は本陣跡のみ高台として残ってます

2020年08月18日 とんかつおやじND
森部合戦古戦場[竹ヶ鼻城  寺社・史跡]



利家は、信長の小姓として仕えていましたが、信長のかわいがっていた家来を斬ったことから、怒りをかい追放されました。
桶狭間の戦いに私的に参戦し、敵の首三つをとり持参するも許されず、森部合戦で、ようやく許され帰参がかないました。

NHK大河ドラマ「利家とまつ」を記念して、信長、利家がこの地から出世していったという縁起にあやかって「出世の松」植樹しました。

安八HPより

2020年08月15日 とんかつおやじND
佐吉大仏[竹ヶ鼻城  寺社・史跡]



佐吉大仏は、美濃の聖人永田佐吉翁によって、宝暦9年(1759)に建立された青銅の釈迦牟尼仏です。諸国巡礼の旅先で大病にかかった佐吉翁が、神仏に祈り全快したことを感謝して建立したと伝えられています。仏像の高さは、石の台座を含め全体で4.9m、台座の周りは8.3m。作は、江戸の鋳物師 西村和泉守藤原政時です。御堂は明治24年(1891)の濃尾震災で焼失し、現在の御堂は昭和37年(1962)に再建されました。佐吉大仏は背中に扉がついており、胎内が空洞になっています。これは胎内に経典などを納めるために使われたもので、希望者の方は胎内に入ることが可能です
羽島市HPより

佐吉大仏御朱印あります

2017年04月30日 まるき〜出雲守
竹ヶ鼻城

秀吉が生涯四度の水攻めをした城の内、二度目の水攻めをした城

遺構が残されていないのは関ヶ原当時の城主が西軍に付いていたため後に幕府側が石田の名残りを徹底的に破壊したかららしいです…

城跡の位置は金沢の成巽閣にある「四戦図屏風」に書かれていた位置を推定城跡としているようです。
城下を歩いているとアプリ記載の主な城主と同じお名前のお家も見かけました(城主の末裔かなぁ…?)

最近になって羽島市歴史民俗資料館近くのお寺付近に城の石垣、石組みが出たらしいのですが埋め戻されたのか私の探し方が悪いのか(~_~;)確認できませんでした…

資料館の数百メートル先には秀吉ゆかりの石橋(理由わからず)というものがあり裏には水堀の名残りがありました。

ここの資料館は映画資料館にもなっていて特に手描きポスター等が沢山展示されていました。
6月25日まで「原節子の全て展」
7月1日からはアニメ特集 !

城に関する資料はごく一部で少ないですが、資料館、城下の方はとても親切な方ばかりでした。

入館 大人300円




2011年07月11日 古楽侍従広家
竹ヶ鼻城

数少ない水攻めの、これまた数少ない落城事例の一つというだけでも貴重な城ですが、水攻めの痕跡があまり残っていないのも不思議。

竹ヶ鼻城の周辺スポット情報

 石碑・説明板(碑・説明板)

 一夜堤跡(碑・説明板)

 一夜堤跡(碑・説明板)

 間島太閤山(碑・説明板)

 一夜堤の跡(碑・説明板)

 札の辻(碑・説明板)

 森部城(周辺城郭)

 氷取城(周辺城郭)

 牧村城(周辺城郭)

 本郷城(周辺城郭)

 須賀城(周辺城郭)

 下之城(周辺城郭)

 太閤山砦(周辺城郭)

 佐吉大仏(寺社・史跡)

 森部合戦古戦場(寺社・史跡)

 間島太閤山(寺社・史跡)

 一夜堤の跡 (寺社・史跡)

 八剱神社(不破源六広綱公歌碑)(寺社・史跡)

 本覚寺(寺社・史跡)

 竹鼻別院(竹中伝六喜伯の墓)(寺社・史跡)

 羽島市歴史民俗資料館・映画資料館(関連施設)

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