名古屋城(なごやじょう)

名古屋城の基本情報

通称・別名

金鯱城、金城、柳城、亀屋城、蓬左城、(那古野城)

所在地

愛知県名古屋市中区本丸1-1

旧国名

尾張国

分類・構造

梯郭式平城

天守構造

連結式層塔型[5重5階地下1階/1612年築/焼失(空襲)]、連結式層塔型[5重5階地下1階/1959年再/鉄骨SRC造外観復元]

築城主

徳川家康

築城年

慶長14年(1609)

主な改修者

主な城主

徳川氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

曲輪、櫓3棟、門3棟、庭園、石垣、横堀(水堀)

指定文化財

国特別史跡(名古屋城跡)、国重要文化財(櫓3棟、門3棟)

再建造物

復元天守、本丸御殿、門、石碑、説明板

周辺の城

田幡城(愛知県名古屋市)[1.4km]
小田井城(愛知県清須市)[3.3km]
古渡城(愛知県名古屋市)[3.7km]
日比津城(愛知県名古屋市)[3.8km]
守山城(愛知県名古屋市)[4.8km]
末森城(愛知県名古屋市)[5.9km]
九之坪城(愛知県北名古屋市)[6.3km]
清洲城(愛知県清須市)[6.3km]
荒子城(愛知県名古屋市)[6.9km]
溝口城(愛知県西春日井郡)[7.2km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

44 名古屋城

設置場所

正門改札所[地図
東門改札所[地図
総合案内所[地図

名古屋城の解説文



名古屋城(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋(現愛知県名古屋市中区本丸・北区名城)[1]にある日本の城。「名城(めいじょう)」、「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」、「金城(きんじょう)」の異名を持つ。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。

概要 

名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏築城の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が天下普請によって築城した。以降明治維新まで徳川御三家の筆頭とされる尾張徳川家17代の居城だった。

大阪城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭では「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と詠われている。大天守に上げられた金鯱は城だけでなく名古屋の街の象徴である。本丸御殿は元離宮二条城の国宝・二の丸御殿と並ぶ武家風書院造城郭御殿の双璧と評価されていた[2]

大小天守、本丸御殿の一部は昭和戦前期まで残存していたが、1945年の名古屋大空襲で大部分を焼失した(西南隅櫓など6棟は焼失を免れて現存している[3])。戦後に天守、門が鉄筋コンクリートで外観復元され、城跡は名城公園の南園として整備されている。

現在、名古屋城の全体整備計画があり、整備計画では史跡としての名古屋城の保存活用と価値を高めたいとしている。2023年現在、計画されている整備計画では、天守閣の木造復元の整備、東北隅櫓の復元整備、本丸表一之門と本丸東一之門と本丸東ニ之門と二之丸の門、二の丸大手ニの門渡櫓の復元、馬出の復元、本丸多聞櫓の復元、二之丸庭園の保存整備と二之丸御殿及び向屋敷の復元整備、大手門・東門、埋御門と二之丸の櫓の復元整備、展示収蔵施設の整備、御園御門、清水御門、東御門の復元整備、石垣補修などである[4][5]

歴史・沿革 

戦国時代

16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いた「柳ノ丸」が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二之丸一帯にあったと考えられている。

1538年(天文七年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名した。信秀は一時期この城に居住し、1542年頃に信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となった(かつては1532年に城を奪取し、信長は那古野城で生まれたとされていたが、近年は上記の為勝幡城で生まれたという説が有力である)。1555年(弘治元年)に信長が清須城(清洲城)に本拠を移し、その後叔父の信光に与えられるが家臣に殺害されたため、家臣の林秀貞が守ることになるもやがて廃城となった。

江戸時代

清須城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の戦い以降の政治情勢や、水害に弱い清須の地形の問題などから、徳川家康は1609年(慶長14年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを定めた。この名古屋への移転には木曽川や庄内川を外堀として利用する防衛目的もあったと考えられ、移転決定と前後して木曽川には「御囲堤」、庄内川には「御囲禍堤」が建造されるなど治水工事が進められた[6]。1610年(慶長15年)閏2月、未だ大阪城には豊臣秀頼が居る中、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始された。

造成・整地に当たる普請は普請奉行に滝川忠征、佐久間政実、牧長勝ら5名が任ぜられた。石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は普請助役として加藤清正が築いた。名古屋城築城普請助役としては、加藤清正以外に、寺沢広高、細川忠興、毛利高政、生駒正俊、黒田長政、木下延俊、福島正則、池田輝政、鍋島勝茂、毛利秀就、加藤嘉明、浅野幸長、田中忠政、山内忠義、竹中重利、稲葉典通、蜂須賀至鎮、金森可重、前田利光の外様大名が石に刻印を打って石垣工事を負担し、延べ558万人の工事役夫で8月末には天守台が完成し、9月頃には石垣を大方積み終え、遅い所も同年暮れまでには完成している[7]

普請の後、建築に当たる作事は、事奉行に大久保長安、小堀政一ら9名が当たり、大工頭は中井正清が担当したが、当時の正清は内裏や方広寺大仏殿の建築も担当したため、正清の手代衆が現場の監督をした。作事は普請と並行して材木の調達が行われ、1612年(慶長17年)6月から本格的な建築工事が始まる。しかし家康から御殿より先の完成を命じられた天守の建築は、用材調達が遅れたため壁塗りに支障が生じる冬期までの完成が危ぶまれた。このため、正清は内裏や大仏殿の大工を一時的に呼び寄せてた上、自身も名古屋に出向き突貫工事を行った。結果として8月下旬に天守用の金物入札が行われた後、11月上旬に懸案の壁塗り工事が完了し、同21日には上棟式を実施し年内に天守は完成した。金物入札時期から組立工事は3ヶ月弱しか掛かっておらず、短期に完成した。本丸御殿の建築は、同年正月から始まり、完成したのは1615年(元和元年)2月である。

そして大坂冬の陣後の1615年4月、義直と浅野幸長の娘・春姫の婚儀が行われ家康も駿河からそれに出席するが、その最中に豊臣方挙兵の報が入りそのまま大阪へ出陣し豊臣家を滅ぼしている。

清須からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から徳川義直が名古屋城に移った1616年(元和2年)の間に行われたと思われる。この移住は清須越しと称され、5万人を越える住民はもとより、社寺3社110か寺も移る徹底的なものである。こうして名古屋城の城下町は出来上がっていった。

また1615年に完成した本丸御殿だが、二の丸御殿が1617年に完成すると1620年に義直はそちらへ移り、本丸御殿は将軍上洛時の御成御殿とされた。そして1626年(寛永3年)に大御所徳川秀忠が、1634年(寛永11年)に、徳川家光が上洛の途中で立ち寄る。特に家光の御成の際は本丸御殿が大々的に増改築される。だがその後長い間将軍の御成は無かったか、1865年(慶応元年)に、14代将軍徳川家茂が上洛の途中で本丸御殿に宿泊している。宿泊は1泊のみで入城の翌日には名古屋城を出発した。

近代

明治維新後の1870年(明治3年)、徳川慶勝は新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出た。金鯱は鋳潰して武士の帰農手当や城地の整備費用に充当する予定であった。しかし、ドイツ公使マックス・フォン・ブラントと日本陸軍第四局長代理だった中村重遠工兵大佐の訴えにより、1879年(明治12年)12月、山縣有朋が名古屋城と姫路城の城郭の保存を決定。この時、天守は本丸御殿とともに保存された。

1872年(明治5年)東京鎮台第三分営が城内に置かれた。1873年(明治6年)に名古屋鎮台となり、1888年(明治21年)に第三師団に改組され、終戦まで続いた。

1893年(明治26年)本丸は陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮と称する。

1906年(明治39年)名古屋離宮、一日限り特別公開する。

1910年(明治43年)小天守閣、隅櫓に旧江戸城の青銅鯱を移設する。

1923年(大正12年)宮内省が西南隅櫓を修復[8]する。

1928年(昭和3年)昭和天皇の即位礼大典が京都御所で執り行われることに伴い、お召し列車(賢所乗御車を含む)を用いた東京の宮城~京都間の往路・復路に於いて昭和天皇及び香淳皇后が名古屋で途中下車して宿泊のため、名古屋離宮に滞在した。

1930年(昭和5年)離宮、御用邸の整理計画の中で名古屋離宮が廃止され、宮内省から名古屋市に下賜された[9]。同1930年、建造物(24棟)が当時の国宝保存法に基づき国宝(旧国宝)に指定された。城郭としては国宝第一号。本丸御殿障壁画も1942年国宝(旧国宝)に指定。

1931年(昭和6年)名古屋市は名古屋城を市民に一般公開した。「恩賜元離宮」とも呼ばれた[10]

1937年(昭和12年)1月7日、天守閣の金の鯱の鱗が58枚が盗難に遭う。この鱗の金の価格は当時の価格で40万円ほど。犯人は大阪の貴金属店にこの鱗を売却を図り発覚して1月28日に警察に逮捕された。

太平洋戦争時は空襲から金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させるなどしていたが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋大空襲で、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて焼失した。

現代

戦後、名古屋市の都市計画によって三之丸を除く城跡は北東にあった低湿地跡と併せ名城公園とされた。園内は戦災を免れた3棟の櫓と3棟の門、二之丸庭園の一部が保存され、一部の堀は埋め立てられるなど改変されたが、土塁・堀・門の桝形などは三之丸を含めて比較的よく残されている。天守は地元商店街の尽力や全国から寄付をうけて1959年(昭和34年)に再建され、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなった。天守に続いて本丸御殿の復元が計画されたが、資金難で中止も検討された。

  • 1994年(平成6年)5月14日 - 市民ボランティア団体「本丸御殿フォーラム」が設立された。
  • 2002年(平成14年) - 名古屋市が本丸御殿復元の「名古屋城本丸御殿積立基金」寄附募集を開始した。
  • 2007年(平成19年) - 本丸御殿の復元工事を文化庁が許可。
  • 2006年(平成18年)4月6日 - 財団法人日本城郭協会によって日本100名城(44番)に選定された。
  • 2009年(平成21年)
    • 1月19日 - 本丸御殿復元工事に着手。
    • 8月10日 - 河村たかし市長は定例記者会見で、名古屋城天守を現在のコンクリート造から木造に建て直すことを本格的に検討すると発表した。計画プロジェクトチームを8月24日に発足させて2010年度予算案に調査費を計上する。
  • 2011年(平成23年) - 西南隅櫓と旧二之丸東二之門が修理された。
  • 2013年(平成25年)1月4日 - 名古屋市は、2013年度から名古屋城の天守を現在の鉄筋コンクリート製から本来の木造に建て直す復元事業に着手すると発表した。これまでに2010年度予算案で調査費1500万円を計上し、2012年(平成24年)3月に市民検討会を催した。復元費用の試算は300億円で、寄付金を含め調達方法を検討する[11][12]
  • 2016年(平成28年)
    • 6月27日 - 市長と市会が、天守の再建につき完成予定を2027年とすることで合意した。後に竣工予定は2022年とされた。工費は試算で約500億円[13]だが圧縮を検討する。
    • 10月12日 - 市長が天守閣は耐震性能が低いとして入場禁止にする意向を示した[14]
      • 2017年(平成29年)4月24日 - 木造復元の賛否などを焦点とした市長選挙で河村市長が再選される。
      • 2018年(平成30年)
        • 5月7日 - 工事に先立ち天守閣の入場を禁止する。
        • 6月8日 - 復元された本丸御殿の一般公開を開始。
      • 2019年(平成31年/令和元年)
        • 6月21日 - 2022年12月に木造天守閣の復元が竣工する予定だったが、文化庁の文化審議会に諮問されていたコンクリート製現天守の解体申請が許可されず継続審議となり名古屋市は工期を見直す方針を示した[15]
        • 8月29日 - 市長の河村は、予定していた2022年末の復元天守閣完成を断念すると発表した。
      • 2023年(令和5年)3月 - 名古屋市は木造天守閣の工期を見直しで、具体的な完成時期を最短で2032年(令和14)度ごろになる見通しを初めて公表した。これは今後の工事の着手に必要な手続きや、その後の工事が想定通りに進んだ場合としての目安であるため、多少のずれが生ずる恐れもある[16]

      構造 

      立地

      名古屋城の城地は熱田台地の西北端に位置する。台地は濃尾平野に向かって突き出しており、平野を一望に監視できる軍事的な要地にあたる。築城以前、台地縁の西面と北面は切り立った崖で、崖下は低湿地と防御に適した地勢であった。伊勢湾に面した港の南に位置する熱田神宮門前町から、台地の西端に沿って堀川が掘削されて、築城物資の輸送とともに名古屋城下町の西の守りの機能を果たした。

      縄張

      名古屋城の縄張は、それぞれの郭が長方形で直線の城壁が多く、角が直角で単純なつくりである。

      構造の分類は一見三の丸の付き方から梯郭式とされるが本丸の周囲の6つの曲輪を一体と見なせば輪郭式と見なすこともできる、三分類のどれにも分類されない独特な縄張りである。また名古屋城は南方や東方から見れば高低差がほとんどなく平城であるが、北方や西方から見れば台地の上にある平山城とも言える。

      曲輪の配置はほぼ正方形の本丸を中心として南東を二之丸、南面東寄りに大手馬出、南西を西之丸、北西を御深井丸(おふけまる)、北面東寄りに塩蔵構、東面北寄りに搦手馬出が本丸の四周を取り囲む。さらにそれらの南と東を三之丸が覆う。城の西と北は水堀および低湿地によって防御され、高低差のほとんど無い南と東は広大な三之丸が二之丸と西之丸を取り巻き、外側の幅広い空堀や水堀に守られた外郭を構成した。

      外側に、総構え(そうがまえ)または総曲輪(そうぐるわ)と呼ばれる城と城下町を囲い込む郭も計画されていた。西は枇杷島橋、南は古渡旧城下、東は矢田川橋に及ぶ面積となる予定であったが、大坂夏の陣が終わると普請は中止された。また西の防備に、国境の木曾川に御囲堤を築造した

      本丸

      本丸は北西隅に天守、その他の3つの隅部に隅櫓が設けられ、多聞櫓が本丸の外周を取り囲んでいた。門は南に南御門(表門)、東に東御門(搦手門)、北に不明(あかず)御門の3つがあった。ほとんどの櫓や塀は、白漆喰を塗籠めた壁面であったが本丸の北面のみ下見板が張られていた。

      南御門・東御門は堀の内側に高麗門と櫓門の2重の城門で構成される枡形門[17]があり、堀の外側は、大手馬出と搦手馬出の大きな馬出しを構え、入口を2重3重に固めていた。外の郭から馬出を経由して本丸に入る場合、次の経路を通ることが強いられる。

      1.馬出しへの土橋を渡り、石塁に突き当たり横に折れ、 2.本丸に背を向けて馬出しの門を通過し、 3.馬出し内をUターンするように進み本丸への土橋を渡り、 4.二之門(高麗門)を通り、桝形に入って横に折れ、 5.一之門(櫓門・総鉄板張)を通る。

      大手馬出は三方を多聞櫓で構成している一方、搦手馬出は初期の計画では南と西を多門櫓が巡り、また北東に隅櫓台があるが、結局は塀すら無い未完の状態であった。現在大手馬出しの西面は埋められて平地になっており、搦手馬出は石垣の修復工事が行われている。

      現状、門は表二之門(南二之門)のみが現存する。不明御門は埋門(うずみもん)形式であったが、戦災で焼失した。

      隅櫓は総2層3階建てで、他城の天守に匹敵する規模である。外観は、それぞれで意匠を相違させた見栄えを重視した設計である。南東の辰巳隅櫓(たつみすみやぐら)、南西の未申隅櫓(ひつじさるすみやぐら)が現存し、北東の丑寅隅櫓(うしとらすみやぐら)は戦災で失われて櫓台のみ残る。多聞櫓は、濃尾地震ですべてが破損して取り壊されて現存しないが、奥行は5メートル強で、内部に武具類や非常食を収納するなど十分な防御能力があった。

      現在、空堀となっている本丸をめぐる内堀には鹿が放牧されている。

      天守

      天守は本丸の北西隅に位置し、形式は大天守と小天守を橋台によって連結した連結式層塔型である。橋台には多門櫓は無く塀を巡らせ、軒先には槍の穂先を並べた剣壁であった。なお、『金城温古録』によると名古屋城(尾張藩)では「大天守」ではなく「御天守」と呼称されていた(以下では一般的な「大天守」としている)。

      天守は政治権力の象徴とされ、特に名古屋城の大天守の屋根にある金鯱(金のしゃちほこ)はその究極にあるものといわれている。上記のように本丸には多門櫓が巡っていたが、大天守には小天守との渡り廊下を含めて全て土塀が接している。これは多門櫓からの類焼を防ぐためと見られる。

      大天守は層塔型で5層5階、地下1階、天守台19.5メートル、建屋36.1メートル、合計55.6メートルで18階建ての高層建築に相当する。高さは江戸城や徳川大坂城の天守に及ばないが、江戸城、大阪城天守は江戸時代前期にいずれも焼失しており、江戸時代通期で現存した天守で名古屋城天守が最も高かった。延べ床面積は4424.5m2で史上最大の規模である(各階平面の規模は、1階と2階が17間×15間、3階が13間×11間、4階が10間×8間、5階が8間×6間である)。体積は姫路城天守の約2.5倍で、柱数・窓数・破風数・最上階規模・総高・防弾壁・防火区画など14項目で日本一である[18][19]。内部は長辺が7尺の大京間畳が1759畳敷き詰められていたといわれる。

      最上層の5階と4階以下の下層階とは構造が異なり、下層階は防御のため壁面を多くし、最上層の5階は窓が四面に可能な限り広く取られ砲弾戦に備えられていた[20]

      大天守内部に使われる柱は主に2階まで通る長い柱の「通し柱」と階ごとの柱の「管柱」の2種類の柱を使い分けて組み立てており、1755年(宝暦5年)の地震があった際に名古屋城の大天守の修理工事が行われた時の「名古屋城御天守各階間取之図」と言う修理図面によると1階と2階は「通し柱」が多く、3階から5階の柱は階ごとの「管柱」が殆で造られていた。耐震性の事を考えて揺れにも耐えられる様に柱と梁をどういう風に組み合わせ、「通し柱」をどこに配置するかなど精密に計算されて江戸時代当時、考えて大天守が造られていたと言う。

      大天守の屋根は、1層目が通常の粘土瓦で、2層目以上のすべてが軽量で耐久性のある銅瓦で葺かれている。慶長年間に建てられた当時の大天守の屋根は、最上層にのみが銅瓦で葺かれており4層目以下はすべて粘土瓦だった。その後行われた1755年(宝暦5年)の大天守修復工事で現在の再建天守に見られる銅瓦葺とされた。同時に雨水による屋根の負担を軽減する銅製の縦樋、破風を保護する銅板張、地階に採光する明かり取り窓を石垣の上に設ける、など補修された。

      壁面は大砲による攻撃を考慮して樫の厚板を斜めに鎧状に落とし込んでいる。外面は土壁を厚く盛った上に漆喰を塗り、内面は檜の化粧板が張ってあった。土壁に塗り込められているが射撃用の隠狭間があり、戦闘時は土壁を抜いて使用した。

      小天守は2層2階、地下1階で、大天守の関門の役割をした。平面は長方形で外見は千鳥破風一つと簡素な意匠だが、規模は他の城の三重級の天守を上回る。

      大工頭を担当した中井家に小天守の描かれた指図[21]が残され、大天守台西面に開口部を塞いだ跡[22]が見られることなどから、大天守の西にもう一つの小天守があった、もしくは、計画されていたとする説がある。また入口も大天守に面した小天守北側でなく、指図には小天守西側に多門櫓による枡形門を介して入る形となっている。

      天守は1612年(慶長17年)に完成し、以来333年間、何度かの震災、大火から免れ、明治維新後の廃城も免れた。1891年(明治24年)に発災した推定マグニチュード8.0の濃尾地震にも耐えたが、1945年(昭和20年)の空襲で焼失した。焼夷弾が、金鯱を下ろすために設けられていた工事用足場に引っかかり、そこから引火した。

      なお、当時名古屋城副監視長を務め、金鯱の降下作業に当たっていた原田尊信の証言では、足場を組むために天守最上階の南側の3つの窓を開けていたところ、そこから焼夷弾が飛び込んできて天守に類焼した。この時の天守閣全体が炎に包まれていく光景が、大日本帝国陸軍東海軍管区報道部所属の軍属であった岩田一朗により、東海軍管区司令部の屋上から撮影されている[23]

      宮内省から名古屋城が下賜されて1930年(昭和5年)に天守が国宝に指定され、1932年(昭和7年)に国宝建造物の細部が実測されて1952年(昭和27年)に完了し、昭和実測図として清書図282枚、拓本貼付27枚の計309枚の図面が制作された。天守の図面は大天守56枚、小天守15枚である。

      1954年(昭和29年)に、名古屋市民らにより名古屋城再建基金[24][25]が始まる。1957年(昭和32年)に、名古屋市制70周年記念事業として天守の再建が開始された。請負者の間組は、昭和実測図を基に再建天守は木造か否かで議論したが、当時の消防法に従うと木造の再建は不可能であった。焼失で傷んだ石垣自体へ建物重量の負荷を軽減するため、天守台石垣内にケーソン基礎を新設し、鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)の再建天守を載せる外観復元とした。起工式は1958年(昭和33年)6月13日、竣工式は1959年(昭和34年)10月1日であった。再建天守の総工費は6億4千万円で、うち2億円は市民からの寄付である。竣工式は大々的に催す予定が伊勢湾台風の襲来直後となり極めて簡素に挙行された。再建大天守は5層7階、城内と石垣の外側にエレベータがそれぞれ設置されており、車椅子で5階へ昇ることができるバリアフリー構造である。5階から最上階展望室までは階段のみ。外観は昭和実測図に基づいてほぼ忠実に再現されたが、最上層の窓は展望窓として焼失前より大きなもので下層の窓と意匠が異なる。当時の再建天守は観光センターとして位置づけられ、1962年(昭和37年)3月に博物館相当施設に指定されて以後、展示や催事に活用されて市民生活に寄与した。

      復元木造と諸問題

      衆議院議員河村たかしは2009年に名古屋市長に就任すると、「名古屋を訪れても『行く所が無い』と言われるのはいかんこと。わしは天守閣を木造で再建しようと言う意見ですけど」などと述べ、名古屋城の木造復元化の主張を始めた[26]

      戦後の再建は当時の消防法の規定で木造復元できなかったが、炎検知器など火災をごく初期の段階で検知・通報できる防火設備を備えることや、木材を難燃加工する技術の開発などで木造復元が可能となり、1994年、戦後初めて掛川城の天守が木造復元され、名古屋城でも本丸御殿が木造復元された。 当時、河村市長はリーマンショックの影響から、市の財政的な予算面などの問題から本丸御殿の復元に難色を示し、一旦復元の中止も検討していたが、市民の多くが最後まで本丸御殿の完成を望んでいた為、中止検討を取り止め、本丸御殿と同じ様に天守にも図面資料があり、史実・忠実に木造での復元が可能である事を知った、河村市長は本丸御殿だけではなく、天守の木造復元にも意欲を示していた。

      市長の木造復元化計画を、かつては河村市長シンパであり市長選の舞台裏にも積極的に関与したことでも知られる行政学者の後房雄名古屋大学教授は「影響力が低下した河村市長による注目を浴びるためのネタの一つに過ぎず、文化庁への申請もなされていない無理な計画で、議会を押し切る力もない」、城郭史学者の三浦正幸広島大学教授は「名古屋城は資料が豊富に残る貴重な城で、木造復元は外国人へのアピールとなる」[27]とし、エコノミストの内田俊宏中京大学客員教授は「城は外国人観光客が訪れることの多いスポットで、木造化は外国人観光客への相当なインパクトが見込まれる」[28]と試算した。

      2010年代に、鉄筋コンクリート製天守閣の耐震性が現行の建築基準法で不適合なほかに老朽化が問題となり、再建の検討が開始された。2013年に木造再建の方針が示され、2016年に2027年の完成をめどに再建を実施する方針が名古屋市から示された。2016年時点では再建にかかる総工費は500億円と試算されている。

      当時、河村たかし市長は東京オリンピックが開催される2020年7月の木造復元の完成を強く主張していたが、名古屋市会の最大会派である自由民主党を中心とした市会側の反対で木造復元の関連予算案が可決出来ずにいた。しかし、市が2016年5月に行った市民2万人を対象にした木造復元に関する市民アンケートでは約6割が木造復元に賛成多数であった事から、市会の自由民主党や民進党も木造復元に賛成寄りの立場を取っていた。市と対立する市会側は河村たかし市長が目標にしていた、2020年7月の木造復元を完成させると言う計画には市民アンケートで賛成したのは約2割程度であった事も含め、市の完成時期の計画に反対し、リニア開業の2027年の木造復元完成にするべきだと主張していた。2016年6月の市会で、市は復元に向けた約10億円の補正予算案を提出したが、同委員会で「時間をかけて議論すべき話で、拙速」と主要会派が反発していた。その為、河村たかし市長は6月27日に木造復元の完成時期の2020年7月を断念し、早くても2022年の完成目標、又は愛知県・名古屋市で開催される「アジア競技大会の2026年やリニア開業の2027年に見直すことも、名古屋にとって大きな起爆剤になり得る」と語った。

      現行天守は、耐震性の観点から入場者制限が有識者から提言されたと2016年9月に報じられ、10月12日に市長は「早急に入場禁止をすることになる」と述べた。市の関係部局は「さらなる調査が必要」として制限を実施するか否か不透明な状況となった[29]。最終的に同年12月、名古屋市は木造復元着手前に入場規制は実施しないと発表した。2017年3月に木造復元に反対する日本共産党を除く自由民主党、民進党、公明党らの賛成多数により名古屋市会で10億円の木造復元関連予算案が可決された。2017年名古屋市長選挙は、木造復元に反対する弁護士の岩城正光元名古屋市副市長が立候補したが河村に大差で敗れた。

      2017年5月9日に、名古屋市は優先交渉権者の竹中工務店と基本協定を締結し、2022年12月完成を目指し最大505億円の事業が開始された。工事は国の特別史跡である天守台の石垣も修理するために文化庁の許可を要するが、市は文化庁の復元検討委員会で11月から3回の審議を経て2018年10月に許可が下りると想定した。この時点の報道では、文化庁の協議が順調に進めば2018年11月から天守閣の入場を禁止し、2019年3月に外部エレベーター、9月から天守閣本体を取り壊し、2020年6月から木造復元工事に入る予定とされた[30]

      障害者団体の要望により竹中工務店は当初、エレベーターが設置された木造天守案も考えていた。その案は4人乗りの小型のものを天守内部に設置する案か、11人乗りの大型のものを天守内部に設置する案、外部に設置する3つの案であった。内部に大型エレベーターを設置する案は、何十本もの柱や梁を取る必要があり忠実な復元が出来なくなる問題や、柱や梁の強度が低下し補強用に鉄骨の設置が必要な問題、木造天守の構造上3階までしか行けない問題があった。外部に大型エレベーターを取り付ける案も、景観上の好ましくない影響や、遺構を毀損しない基礎構造とするため到達階が1階に限定され、外壁に口部を設置し壁側の柱や梁を取り強度の為にやはり補強用に鉄骨の設置が必要な為、却下となった。2018年5月6日に竹中工務店は内部に4人乗りの小型エレベーターを設置する案を考えた。その案は柱と柱の四角い隙間の空間にエレベーターを設置し3階まで上がる取り外し可能なもので、エレベーターを取り外し天井部分に梁を嵌め込むと元の構造に戻ると言う。しかしその案は奥行100cm×間口80cmと狭く、一般的な車椅子がエレベーターに乗りきれない事が判明した。そのため市が用意した専用の小型車椅子に乗り換える事になるが、障害者団体は乗り換えが大変だと反発しこの案は断念となった。障害者団体側は大型のエレベーターの設置を求めているが、河村たかし市長は前出の理由でエレベーター不設置の方針である。

      2017年12月27日に、名古屋市は現天守への入場を2018年5月7日から2022年末の復元完成まで禁止すると正式発表した。天守以外はこれまで通り見学できる[31]。鉄筋コンクリート製復元天守公開終了間際の2018年のゴールデンウィークには、過去10年間で最多となる17万人の来場者があり、5月6日をもって予告通り一般公開は終了した。

      木造復元に当たり、1932年から行われた天守閣と本丸御殿の大規模調査による昭和実測図の図面、戦前のガラス乾板による多数の写真資料、江戸時代1755年(宝暦5年)の地震時の修理断面図や立面図、など多くの修理図面や、江戸時代後期の名古屋城のあらゆる事を書き残した『金城温古録』など歴史文書史料も充実しており、江戸時代当時の名古屋城の姿をほぼ正確に復元する事が可能だとしている。

      木造復元化工事に際し、鉄筋コンクリートの天守閣で展示、収蔵する重要文化財の旧本丸御殿障壁画、ガラス乾板写真などは西之丸に米蔵の外観の展示収蔵施設を2018年1月から1年の工事をかけ建設・整備し、展示収蔵施設の完成後は移設する[32]。その他の展示・収蔵物は名古屋城の近接地に新たな施設の建設などを検討して対応する。バリアフリー対策は障害者団体や高齢者団体の意見を聴いて決定し、手すりやスロープの設置、昇降円滑の手段、介助スタッフの配置など、ハード・ソフトの両面からの対応を検討する。2018年2月現在は、2019年9月から天守閣本体の取り壊しを開始して2019年6月頃に工事囲いを天守閣まわりに建て始める予定である。木造天守閣も、耐震性は現行の耐震基準と同等を確保し、万一火災が発生した場合も安全な避難を確保するため、防火設備や避難経路を検討する[33]

      2018年5月22日、障害者らが木造復元の名古屋城天守閣にエレベーター設置をしない名古屋市の方針に対し市役所前でデモ。新技術拒否、エレベーター絶対必要を宣言した[34]。2018年6月19日にも障害者ら抗議デモ。主催者によると愛知、東京、大阪、沖縄など16都府県から500人が参加。名古屋栄の久屋大通公園から名古屋城近くの名城公園までデモ行進し「名古屋市は差別をやめろ」とシュプレヒコールを上げた。河村たかし市長はあらためて(具体化されていない)新技術導入に意欲を見せ「はるかに、いいじゃないですか。」と話した[35]

      当初は2018年10月の文化庁の文化審議会で現天守の解体と木造再建の許可を得る予定だったが、市の有識者会議で承認が下りなかったため文化庁への申請ができず、河村は10月15日に2018年中の許可取得を断念することを表明した。2019年の新年挨拶における記者との質疑応答で河村は、「文化庁さんとも、今なかなか行き来しとれぇへんもんで」と文化庁と十分な整合が取れていないことを認めながらも、「市民の熱い期待があるということを、私は強く文化庁には申し上げております」と理解を求めて予定通りの完成を目指すことを改めて表明した[36]。市は1月17日より合計6箇所の会場で市民への説明会を開催したが、最初の会場(熱田区)では出席者から反対意見が続出した。

      2019年10月21日、名古屋市は名古屋城の木造新天守の実寸大の階段模型が入る体験施設「ステップなごや」を公開し、11月2日から一般公開された。これは図面資料などから名古屋城木造天守の1階の階段部分が実物大で再現されており、名古屋市はこの実寸大の階段模型を使い、階段昇降機など、木造復元天守のエレベーターに代るバリアフリーの新技術の実験に使うために建てた[37]

      文化庁は江戸時代の石垣を崩すことを問題視しており[38]、文化庁からの解体および木造再建許可は2019年も下りず、市長の河村は2019年8月29日に、予定していた2022年末の復元完成を断念すると発表した。河村は11月以降に市民に対する木造復元の説明会を実施した。一方で11月4日には岐阜県中津川市で復元に使用するヒノキ材の披露式典が実施された。愛知県知事の大村秀章は河村の復元事業の進め方を批判しており、2019年7月16日には文化庁の許可が下りない段階での木材調達契約について「事実関係を明らかにしてほしい」と会見で述べた。一方、市民グループが「文化庁の現状変更許可が出ていない段階での設計代金の支払」を違法として代金(支払先は竹中工務店)の返還を求める訴訟を名古屋地方裁判所に起こしたが、2020年11月に裁判所は市と竹中工務店の契約に違反したとは言えないとして原告敗訴の判決を下した。

      2021年4月11日の2021年名古屋市長選挙では、河村市長の対抗馬で自民党の元市議会議長横井利明候補が名古屋城木造復元で、エレベーターの設置を主張したため、名古屋城木造復元でのエレベーター設置の是非が市長選争の争点の1つにもなっていた。エレベーターの設置を望む、障害者団体の代表者が横井候補の事務所を訪れ、横井氏に市長に当選したらエレベーターの設置を頼み、横井氏はその要望を受理した。横井氏は市が以前断念した、エレベーター案の1つ、3階まで上がる天守内部に11人乗りの大型エレベーターを設置する案を主張し、最上階へは階段昇降機で対応すると主張していたが、従来通り、史実に忠実な復元の為、エレベーター不設置を主張する河村市長に敗北した。

      名古屋市観光文化交流局は2022年4月、同年8月までを期限として「史実に忠実な復元とバリアフリーを両立できる昇降技術」の公募を開始した。同年12月、船舶に使われる電動かごを検討しているとの報道があった[39]

      2024年3月15日と18日に開催された名古屋市議会の委員会で減税日本の中川敦史市議が、2019年12月に名古屋市中川区で開催された市民説明会の数日前に、ある市長特別秘書が「市長が(他地域での)説明会の参加者が少なく、しかも反対派の参加が多いのでさみしがっている。動員してくれないか」との電話を受けて、説明会で発言を希望する3人の顔写真とその名前をSNSで送り、その市長特別秘書は「(司会者に)うまく伝えておきます」「市長へもポジティブな質問が増えると伝えておく」とメールで返信したことを証言した。

      中川市議は、このメールのやり取りについて「その開催のたぶん数日前、2~3日前だったと思うんですが。木造復元に関しての、いわゆる否定的な意見が多かったと (市長特別秘書)が電話で述べられたわけです。12月3日中川区で開催されますけど、中川さんどのようにできますかっていうお話があったんですね。木造復元化に対して、いわゆるちょっと賛成的な発言をしていただける方を入れていただけないかと」と話した。その上で、「3名いたので、サクラの方の顔とお名前を田中さんのメッセンジャーに送ってきましたよというやり取りを携帯のSNSでやりとりをした」とも話している。

      本丸御殿

      城主(藩主)が居住する御殿だったが、1620年(元和6年)将軍上洛時の御成専用に改造された。以後、藩主は二之丸御殿に居住した。本丸御殿を使った将軍は秀忠、家光、家茂の3人で、上洛の途中に宿泊している。御成御殿となった後の本丸御殿は、尾張藩士により警備と手入れが行われるのみで、名古屋城主である尾張藩主ですら本丸に立ち入るのは巡覧の時のみであった。

      御成専用だけあって、格式の高さは当時の二条城本丸御殿に匹敵した。南御門から入ると正式な入口である式台があり、奥に玄関が建っていた。他、中玄関、広間(表書院)、対面所、書院(上洛殿)、上り場御殿(湯殿書院)、黒木書院、上御膳立所(かみごぜんだてしょ)、下御膳立所(しもごぜんだてしょ)、孔雀之間、上台所、下台所、大勝手などの殿舎が建ち並び、他各種の蔵や番所が建てられていた。車寄の屋根は将軍家や身分の高い一部の大名家の御殿に使用されることが多い唐破風で、黒漆塗りに金の金具の屋根は室町時代の将軍邸の形式で天下人の象徴とされた。

      御殿の内、慶長創建の建物は玄関・広間・対面所で、後に建築された書院と比較すると欄間にある障壁画の有無という差異が確認できる。

      戦災焼失前の本丸御殿は、桟瓦葺(一部銅瓦葺)だったが、創建当初は柿葺(台所など火を使う場所は瓦葺)で、2018年に復元した本丸御殿は創建当初の柿葺を再現している。

      中玄関(中之口部屋)、大勝手、下台所などの一部の建物は、明治初期に陸軍用地となった際に取り壊されている。これら殿舎等はすべて第二次世界大戦の空襲で失われたが、内部にあった障壁画のうち移動可能な襖などは取り外して倉庫に収められていたため焼失を免れ、戦後重要文化財に指定、保存されている。

      1985年10月(昭和60年)に発足した名古屋城整備基本構造調査会にて名古屋城の総合的な整備も含め、本丸御殿の再建を検討中とされていた。1986年(昭和61年)1月3日に名古屋市は3年後(1989年)の「市制100周年記念(世界デザイン博覧会)」に向けての事業の中の一環として「近代文化・技術の殿堂」としての本丸御殿の再建を検討していた。しかし本丸御殿の再建が大きな課題となっていて、再建の事業費の予算の課題から市議会での市の本丸御殿の再建計画の批判などもあり、本丸御殿の再建計画が難航し計画の延期の末に中々出来ずにいた。1994年(平成6年)に造形作家の夢童由里子らが中心となって市民の手で本丸御殿を復元しようと「本丸御殿フォーラム」が立ち上げられた。

      21世紀になって本丸御殿の復元が計画され、市民運動の高まりにより、2005年には松原武久市長が本丸御殿の復元を決定し、2006年(平成18年)の発掘調査と2007年(平成19年)には実施設計が行われた。そして2009年(平成21年)1月19日に復元費150億円を民間、国、市が三等分する形で着工。2013年(平成25年)5月29日より、玄関と表書院(謁見の場所)が一般公開された[40]。2016年(平成28年)6月1日からの対面所と下御膳所の公開[41]を経て、2017年度(平成29年度)に工事が完了。2018年(平成30年)6月8日より一般公開された[42]

      復元範囲は戦災焼失前の構成に、中玄関(観覧者用玄関)を加えている。孔雀の間は壁画が元々、本丸御殿になかった為、無地のままで隣接する柳の間と併せて宿として貸し出しが行われ、また濃尾地震後の改造でそれ以前の内装が改造された大台所はミュージアムショップになっている。柱と土台の固定方法は、当初の計画では将来の取り外しを考慮して外側から金具で固定する方式だったが許可が降りず、結局は取り外し不可能な柱内部と土台を杭で固定する形となったが予算の関係で復元できなかった本丸御殿土塀と土塀門を除いて、建物は全て復元される。

      なお、本丸御殿の建築材として木曽山のヒノキが使われており、木曽の山林地帯はかつて尾張藩の領地で、尾張藩は将来の為に森林保護や伐採抑制政策を進めていた。

      本丸御殿の上洛殿将軍御座所には、富山県の井波彫刻の彫刻師が透かし彫り手法で制作し、京都の職人が極彩色に色付けした欄間7枚が設置された。最大のものは幅3.24m、高さ1.4m、厚さ0.27mの大きさで、焼失前の写真等を基に7年の時をかけ忠実に復元されたものである[43][44]。上洛殿襖引手には七宝が施されている。

      二之丸

      当初藩主が本丸に居住していた頃は、この二之丸に将軍の御座所を設けていた。家康や初期の秀忠は上洛や大坂の陣の折にはこちらに滞在していたが、本丸御殿を御成専用にするため、二之丸にあった平岩親吉(1611年(慶長16年)没)の屋敷を改修して、1618年(元和4年)二之丸御殿とした。それ以後、二之丸御殿は「御城」と称され、藩主の住居兼尾張藩の藩庁機能を有することとなった。

      本丸の南東に位置し、南御門と東御門の馬出しに接している。その面積は、本丸・西之丸・御深井丸の3つをあわせたものに相当した。北東、南西、南東にLの字型の隅櫓を建て、南辺中央に太鼓櫓があったが、北辺中央隅部には逐涼閣、北西隅部には迎涼閣と、およそ防御施設とは思えない亭閣を配置したのは二之丸庭園からの景観との関係があったと思われる。西と東に鉄御門(くろがねごもん)を備え、どちらも三之丸と連絡していた。この鉄御門も桝形・2重城門の構造で、多聞櫓で囲まれていたが、これ以外の二之丸の外周は、基本的に土塀で囲まれていた。二之丸御殿は二之丸の北側に位置し、南側に弓道場や馬場があった。また徳川慶勝が写真機で撮影した取り壊される以前の二之丸御殿等の写真があり、当時の二之丸御殿等の姿を知る歴史的史料価値の高い写真として現在でも残っている。

      二之丸御殿の表門として南に黒御門があり、近くに不明門、西に孔雀御門、東鉄御門近くには女中門や召合門、内証門、不浄門、本丸東御門馬出し付近には埋門を設けていた。御殿の南面から東鉄御門にかけては多門(長屋)がたち、西面と東面は土塀をまわしていた。黒御門から入ると正面から西にかけて表御殿、その奥に西から中奥御殿と奥御殿、黒御門東側が御内証(大奥)御殿、その奥に広大な二之丸庭園があった。この二之丸庭園は藩主専用の庭で、城郭内部にある庭園の規模としては前代未聞であった。初期は中国風庭園だったが後に純和風回遊式庭園となった。

      二之丸御殿や4棟の櫓は名古屋鎮台となった1871年(明治4年)頃に取り壊され、現存しているのは西、東のそれぞれ鉄御門二之門の2棟であるが、東鉄御門二之門は本丸東御門二之門跡に移築されている。その他の二之丸内の建築物はすべて取り壊されたが、現在庭園の一部が復元整備されている。馬場跡には一時期名古屋大学本部など同大学の施設が置かれた後、同大学の東山キャンパス移転後は愛知県体育館が建てられている。なお現在、二之丸の整備計画があり、中長期的な目標として将来的に愛知県体育館を移転してかつての二之丸御殿・向屋敷、弓道場や馬場やそれを見物するための建物と大手門・東門と二之丸の櫓などを復元及び施設整備が出来ないか、関係各機関と協議を行っており、2017年(平成29年)度に二之丸南部の基本構想を策定したいとしている。アジア競技大会が開催される2026年までに愛知県体育館を名城公園北園に移転する事を検討しており、体育館の移転後に名古屋城を訪れる観光客の憩いの場として、二之丸御殿等の建物の図面は存在しないものの写真や平面図などの資料がある為、それらを参考に二之丸御殿と馬場・弓道場等の復元・整備したいとしている。徳川美術館の第2~4の展示室には二之丸御殿の猿画茶屋、書院上段の問と鎖の間、能舞台等の内部の一部などが部分的に再現されて展示されている。

      また、二之丸は名古屋城の前身で織田信長最初の居城であった那古野城の跡とされているため、それを記念する石碑が建てられている。

      西之丸

      西之丸(にしのまる)は名古屋城内の大手筋に位置し、南側に榎多御門(えのきだごもん)があり、桝形・二重城門構造で固めて三之丸と連絡していた。南辺を多聞櫓で防御し、その他の辺は土塀を建てまわし、その一部には物見窓が設けられていた。さらに南西隅部に未申櫓、御勘定多聞櫓、南蛮鉄多聞櫓、古木多聞櫓、榎多御門枡形に麻木多聞櫓、西面中央に月見櫓を建てていた。その内の古木多聞櫓には、天守や櫓の雛形(築城時のもの)が納められていたという(金城温古録)。郭内には6棟の米蔵が建てられ、食糧基地としての性格を持っていた。また、六番御蔵は今川氏豊の時代のという話や、福島正則の清洲城の蔵を移築したという話もある[45]

      西之丸の建築物はすべて明治年間に取り壊され、榎多御門のみは1911年(明治44年)に旧江戸城蓮池門を移築して正門と改称した[46]が、1945年(昭和20年)の空襲で焼失し、戦後再建された。現在の正門がこれである。なお、現在の西之丸には名古屋城総合事務所と、国の天然記念物に指定されている名古屋城のカヤがある。文化財の保存と公開ができる場として、現在の天守閣にある展示品と収蔵品の数々は天守閣の木造復元化によりここに移転され、かつて6棟あった米蔵のうち3番と4番の位置を米蔵の外観意匠に準拠した鉄筋コンクリート平屋造りの展示収蔵施設を建設し、残りの1番、2番、5番、6番の米蔵は地下遺構の平面表示を行う整備計画が進められている。明治期に撮影された米蔵が写っている西之丸の古写真や昔の西之丸の平面図などの米蔵の資料を参考に展示収蔵施設の基本・実施設計を安井建築設計事務所名古屋事務所が行い、2018年(平成30年)1月から建設工事を開始し、約1年の工事で展示収蔵施設を完成させた[47][48]。その後、2020年(令和2年)3月に発生した六番御蔵の破損事故により2020年度のオープンは延期となったが、2021年(令和3年)4月16日に「西の丸御蔵城宝館」がプレオープンし、5月9日まで限定公開された[49]のち、11月1日にグランドオープンを迎えた[50]

      御深井丸

      御深井丸(おふけまる)は本丸の北西に位置し、本丸とは不明御門で連絡でき、本丸北側の御塩蔵構(おしおぐらがまえ)や西之丸とも狭い通路でつながっていた。

      御深井丸は本丸の後衛を担う郭であり、当初は4棟の隅櫓と全周に多聞櫓を建造する計画であったが、元和偃武により工事が中断した結果、2棟の櫓と多門櫓の一部以外は土塀が巡らされてそのまま江戸時代を過ごした(櫓台のみは築かれており、この部分は石垣が他のところよりも一段高くなっている)。内部には大砲や弓等の飛び道具に関連する蔵が置かれており、かつては火薬庫もあったが、大坂城のように落雷による火薬庫爆発で大きな被害を受けた例があり、城外に移転した。火薬庫は、強度を高めるために周りを盛土で補強していた。

      2棟の櫓は、北西隅に3層3階の西北隅櫓(戌亥隅櫓)と、北東西寄に2層2階の弓矢櫓であり、うち西北隅櫓が現存している。西北隅櫓は三重櫓で、平面規模は桁行8間、梁間7間、高さは約16.3メートルある。その規模は宇和島城天守(高さ約15.7メートル、桁行6間、梁間6間)を上回り、3重5階の高知城天守(高さ約18.6メートル、桁行8間、梁間6間)とは高さでは及ばないものの平面規模では凌駕している。1611年(慶長16年)に清須城天守または小天守を移築したものと伝えられているため清洲櫓とも呼ばれている。解体修理の際には、移築や転用の痕跡も見つかっているため、実際に清須城から移築されてきた可能性も指摘されている。西北隅櫓は近年、市内の堀川を中心とするカワウの大量発生による屋根への糞害が著しくなっているが、抜本的対策がないままとなっている。

      また御深井丸には、「乃木倉庫」と呼ばれる明治初期に建てられた旧日本陸軍の弾薬庫が現存している。名古屋市内に現存する最古の煉瓦造といわれる倉庫で、太平洋戦争中は本丸御殿の障壁画などが収められていた。乃木希典が名古屋鎮台に在任中に建てられたので、いつしかこの名が付いたといわれる。1997年(平成9年)に国の登録有形文化財に登録された。

      その他に御深井丸の東には、天守再建工事の際に取り除かれた天守の礎石が置かれている。空襲時に礎石についた黒い焼け痕が、現在でも観察することができる。

      三之丸

      三之丸は現在名古屋市中区三の丸一丁目から四丁目までの地域とほぼ一致する広大な敷地にあった。郭内は重臣屋敷や各種神社が建てられていた。門は5つあり、西に巾下御門(はばしたごもん)(埋門)、南面西側に御園御門(みそのごもん)、南面中央に本町御門、東に東御門、北面二之丸横に清水御門である。それぞれに桝形を持っていた。ただし、門付近は石垣だったが、そのほかは土居となっていた。三之丸の土塁北側を御土居下と呼び、万一落城の事態へ陥った際には城主が脱出する経路とされ、専門の人員も配置された(御土居下御側組同心)。

      三之丸内の建造物はすべて取り壊されているが、春日井市上条町の泰岳寺と一宮市の妙興寺に清水御門を移築したものが残っている。1875年(明治8年)、名古屋鎮台が城内に置かれたのを機に三之丸東照宮、三之丸天王社は三之丸南側の現在地(名古屋市中区丸の内)に移され、東照宮は名古屋東照宮(1945年の空襲による戦災で国宝の社殿など焼失)となり、天王社は那古野神社となっている。現在、東照宮と天王社があった場所は名古屋農林総合庁舎第一号館、第二号館、水資源機構(独立行政法人)中部支社総務部総務課が建てられており、名古屋能楽堂や名城公園正門前駐車場などがある場所には台徳院殿、大猷院殿、厳有院殿などの寺院や神社や屋敷がかつてあった。なお2018年現在、東照宮と天王社があった場所の名古屋農林総合庁舎第一号館、第二号館が移転され、その北側半分の土地に『金シャチ横丁』と言う名古屋めしを提供する商業施設の建物群が造られている。

      明治以降は官庁街として発展した。現在、三の丸には愛知県庁、名古屋市役所、愛知県警察本部、各種合同庁舎などが建てられ、愛知県行政の中枢的な地域になっている。三之丸外の名古屋城外堀は、明治後期から昭和後期にかけて、一部が名鉄瀬戸線の線路敷として利用された(後述)。また1975年(昭和50年)、この外堀にヒメボタルの生息が確認され以後保護活動が始まっている。

      名古屋城の金鯱

      1612年(慶長17年)名古屋城天守が竣工した当時の金鯱は一対(一つい)で慶長大判1940枚分、純金にして215.3キログラムの金が使用されたといわれている。高さは約2.74メートルあった。

      しかし、鯱の鱗は藩財政の悪化により、1730年(享保15年)・1827年(文政10年)・1846年(弘化3年)の3度にわたって金板の改鋳を行って金純度を下げ続けた。そのため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張り、カモフラージュした。この金網は、表向きは盗難防止(後述の通り、実際に何度か盗難にあった)や鳥避けのためとされ、戦災により焼失するまで取り付けられていた。1871年(明治4年)に政府に献納され、東京の宮内省に納められた。その後、1872年(明治5年)に開催された湯島聖堂博覧会への出品、雄鯱は石川・大分・愛媛などで開催された博覧会へ出品、雌鯱は1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会に出品されたのち、雌雄金鯱が大天守に戻ったのは1879年(明治12年)2月である。

      1937年(昭和12年)に盗難に遭った(後述)際、愛知県警察と名古屋市が鱗の鑑定を行った。鱗の厚みは意外に薄く銅の上に紙より薄い金の薄板を張ったもので、鱗によっては葉書二枚ほどの厚みのあるものもあったが純金分は非常に少なかったとされている[51]

      徳川の金鯱の中では最も長く現存していたが、1945年(昭和20年)に名古屋大空襲で焼失した。残骸は、戦後GHQに接収され、のち大蔵省に移ったが、1967年(昭和42年)に名古屋市に返還された。名古屋市は残骸から金を取り出し、名古屋市旗の冠頭と、金茶釜に加工して保存している。 現在の金鯱は復元されたもので、再建天守建造の時、日本国内に数えるほどしか残っていなかった鎚金師であった大阪造幣局職員の手により製造された。一対に使用された金の重量は88キログラムである。現在の鯱の大きさは、雄2.62m、雌2.57m。

      盗難事件

      江戸時代、大凧に乗って金鯱に近づこうとした柿木金助(かきのききんすけ)の伝説がある。明治以降では4回発生し、犯人はいずれも盗んだ鱗を鋳潰し売却しようとして逮捕されている。

      • 1871年(明治4年)3月 - 廃藩置県後、宮内庁への献上の際、鱗3枚盗難。犯人の陸軍名古屋分営番兵は銃殺刑。
      • 1876年(明治9年)4月 - 東京博物館保管中に盗難。犯人は懲役10年。
      • 1878年(明治11年) - 復元作業中に盗難。犯人は陸軍兵卒であるとされ軍の機密として処理されたため詳細不明。
      • 1937年(昭和12年)1月6日 - 名古屋城下賜記念事業で実測調査中の1月6日朝、名古屋市建築局技師が雄の胴体の金鱗110枚のうち、58枚が盗難されている事に気付く。愛知県刑事課は報道を全面禁止し全国指名手配。下賜記念事業中だったため、当時の名古屋市長が引責辞任する事態となった。同月27日、金鯱の売却現場で犯人が逮捕され懲役10年[52]

      名古屋の金鯱に由来するもの

      スタンプメーカーのシヤチハタ(本社は愛知県名古屋市西区)もこれを由来にする。

      1936年から1940年まで存在したプロ野球球団に名古屋金鯱軍があり、現在ではJリーグクラブに名古屋グランパス(grampusは広義でシャチを指す)がある。また名古屋大学のアメリカンフットボール部のニックネームも「グランパス」を名乗る。

      鯱ノ里一郎。名古屋市出身の幕内力士。

      名古屋市交通局のマスコットキャラクター「ハッチー」も金鯱をモデルにしている。

      1986年から2000年には名古屋港の遊覧船でも金鯱をかたどった船が使われており、「金鯱」(きんこ)と呼ばれていた。「金鯱」は2種類存在した。

      中京競馬場では金鯱賞が開催される。

      名古屋牛乳シャチのマークの牛乳。

      パチスロ機「ナゴスロ金鯱だがね」

      「緊張して固くなる」という意味の「しゃちほこばる(「しゃっちょこばる」もしくは「しゃちこばる」とも)」の語源。城の金鯱を見た旅人が、いかめしいさまを例える言葉として広まったのが転じたもの。

      オーバークロック競技を行うTEAM SHACHI-HOKO。愛知中心のチーム。

      名古屋のローカルアイドルチームしゃちほこ(TEAM SHACHI)。メンバーも全員名古屋在住である。

      名古屋市守山区の守山駐屯地に司令部を置く、陸上自衛隊第10師団の愛称、金鯱師団。

      名妓連組合の伝統芸「金の鯱」。

      名古屋土産や一部の飲食店で提供されている食事に見られる。かつてジェイアール東海フードサービスが提供していた「シャチボン」や名古屋名物のエビフライを金の鯱に見立てた料理など。

      名古屋市にあるマンホールのフタにも金の鯱がデザインされたものが存在する。

      黄金鯱伝説グランスピアーの主人公の変身するヒーローのデザイン。

      金鯱の外部施設展示

      名古屋城の金鯱が2005年(平成17年)3月24日に開会した愛・地球博の開会式典で展示された。これまでにも名古屋城の博覧会開催により、天守から地上に降ろして名城公園内の博物館に展示された事はあった(今回の場合は愛・地球博に併せて開催された新世紀・名古屋城博のための展示だった)が、外部施設での展示は1959年(昭和34年)に再建されてからは初めてのことだった。

      また前日の3月23日は名古屋市内16区を雄・雌に分けて周り、一般市民にお披露目し中区栄では2体揃ってのパレードを行った。

      その時の公開された各区の場所は以下のとおり。

      • 雄:北区役所(北区) - 守山区役所(守山区) - 徳川園(東区) - 榎公園・榎小学校(西区) - 稲葉地公園(中村区) - 富田支所(中川区)

      • 雌:鶴舞公園(中区) - 瑞穂運動公園野球場(瑞穂区) - 植田公園(天白区) - 緑区役所(緑区) - 南区役所(南区) - 名古屋港ガーデンふ頭(港区) - 熱田区役所(熱田区)

      • 2体合流ルート:UFJ銀行別館跡地(中区) - 栄公園までパレード - 東山公園新池駐車場(千種区) - 藤が丘駅前(名東区) - 愛知万博長久手会場EXPOドーム(愛知郡長久手町(当時))

      城周辺 

      お堀周辺の自然環境

      名古屋城のお堀は都心では貴重な水鳥の生息地となっていて、毎年、数多くのカモ類、サギ類が観察されている。また、お堀の北東部にある葦原は、潜行性の野鳥の越冬地となっている。お堀の水面と水辺で毎年観察される野鳥は20種類以上である。[53]

      お堀電車

      名古屋城三之丸を囲む外堀の底には、明治末期から昭和後期にかけて電車が走っており、「お堀電車」(お濠電車)とも呼ばれた[54]

      大曽根と瀬戸との間を結んでいた瀬戸電気鉄道が、名古屋城西側の堀川の水運を利用した瀬戸物輸送の便と名古屋市内への乗り入れを図り、1911年(明治44年)5月23日に土居下 - 大曽根間、10月1日に堀川 - 土居下間を開業させた。土居下駅は三之丸北東部の外堀にかかった位置にあり、そこから外堀の中を通って南下し、南東隅部で右折して西進し、南西隅部の堀川駅まで複線線路が敷かれていた。城の堀の中に線路を敷く例は、東京の中央本線四ツ谷駅や茨城の水郡線水戸駅付近[55]などでも見られるが、ここでは堀の原形を保ったまま線路が敷かれているのが特徴である。城の堀を利用した鉄道は名古屋城が日本で唯一とされる。堀の原形を保ったことから、堀の南東隅部で半径60メートルの急曲線(通称、サンチャインカーブ)があったり、本町駅西側の本町橋下のみ複線分の幅員が取れなかったことから、日本鉄道史上でも採用例の極端に少ない単複線(ガントレット、狭窄軌道)という構造を採用したり、と線路配置に苦労が見られた。

      瀬戸電気鉄道は、1939年(昭和14年)に名古屋鉄道と合併して名鉄瀬戸線となる。戦後、瀬戸線の栄地区への乗り入れが決定し、工事が着工された1976年(昭和51年)2月15日をもって堀川 - 土居下間が休廃止された。現在、ごく一部を除いて鉄道施設は全て撤去されており、地表からはほとんど確認できないが、わずかにガントレットポイント跡をまたぐ本町橋の煉瓦アーチ、旧大津町駅駅舎跡へ降りる階段(名鉄私有地のため立入禁止)などを観察することができる。 なお、路線廃止後も名鉄が敷地を保有している。

      名城国家公務員宿舎跡地再開発

      名古屋城と大津通を挟んだ33,800m2の敷地は2009年まで国家公務員宿舎(名城住宅)として利用されていた。新宿舎の建設に伴い、中国政府が領事館設置のため跡地を購入しようとしているが、名古屋市民が反対活動を行うなど[56][57]、再開発は凍結状態となっている。また、愛知学院も当該敷地の購入を希望していたが、結局2011年9月に北側の23000m2の土地を購入し、愛知学院大学の経営学部、商学部と2013年度から新設の経済学部の3学部が入る「名城公園キャンパス」が2014年4月に開設された。また旧二の丸御殿等の復元・整備の為、二の丸にある愛知県体育館の移転先の候補地として国家公務員宿舎跡地が挙がっていたが大学法人の移転計画が持ち上がったため白紙となった。

      金シャチ横丁

      河村たかし名古屋市長の公約として、2012年に策定された「世界の金シャチ横丁(仮称)」基本構想[58]に基づき整備された観光施設である。三重県のおかげ横丁をモデルに名古屋城の城下町を再現するもので、三の丸にある名古屋城正門前駐車場の東側用地(かつて東照宮や天王社が存在していた場所の北側半分に)や二の丸東駐車場[59]に名古屋めしを提供する飲食店や芝居小屋などを整備するとされた。

      2014年2月8日には正式名称が「金シャチ横丁」となることが決定した[60]。2016年7月に新東通信とMULプロパティを代表とする5社の企業グループが事業者に決定した[61]

      2018年1月、同年3月29日にオープンすることが報じられた。

      義直ゾーン

      正門側にある初代藩主徳川義直の名を冠した「義直ゾーン」は、伝統・正統エリアとして定番・老舗のなごやめしのお店が並ぶ。お店は下記の通り。

      • 名古屋城に関連した清酒の販売・有料試飲ができる十代目儀助
      • 味噌煮込みうどん・きしめんの山本屋総本家
      • 名古屋コーチン親子丼・手羽先唐揚げの鳥開総本家
      • ひつまぶし名古屋備長
      • みそかつ矢場とん
      • 味噌田楽の名古屋とうふ河口
      • 魚の粕漬け、守口漬の尾張屋
      • 和菓子の那古野茶屋
      • えびせんべいの里
      • 尾張那古野天丼徳川忠兵衛
      • 土産の鯱上々

      宗春ゾーン

      東門側にある第7代藩主の徳川宗春の名を冠した「宗春ゾーン」は、新風・変化のエリアとして新しい食文化を描く気鋭のお店が並ぶ。お店は以下の通り。

      • SHIROMACHI GRILL(城町グリル)
      • あんかけスパゲティのあんかけ太郎
      • ビストロ那古野
      • 台湾まぜそばのフジヤマ55
      • チョップドサラダのvegetable cafe & seafood bar saien
      • 創作串揚げつだ
      • 肉料理のcafe diner POP OVER

      営業開始時間は両ゾーン共に10時30分。営業終了時間は義直ゾーンが18時30分、宗春ゾーンが22時30分[62]。店舗によって営業時間は異なる。また、大相撲名古屋場所の開催期間は、営業時間を延長している。

      遺構・文化財 

      第二次世界大戦前は、旧国宝24棟をはじめ、多数の建造物が城内に現存していたが、太平洋戦争中の1945年(昭和20年)5月14日8時20分頃、アメリカ陸軍のB-29が投下した焼夷弾により大小天守を含むほとんどを焼失した。

      現在残る尾張藩時代の建物は、本丸辰巳隅櫓、本丸未申隅櫓、本丸南二之門、旧二之丸東鉄門二之門(現在本丸東二之門跡に移築)、二之丸西鉄門二之門、御深井丸戌亥隅櫓の6棟のみ。すべて重要文化財である。現存する門3か所はもとは櫓門(一之門、内門)と高麗門(二之門、外門)の二重構えであったが、いずれも高麗門のみが現存する[63]

      また、1952年(昭和27年)3月29日に城域内が国の特別史跡に指定され、1953年(昭和28年)に二之丸庭園が名勝に指定された。このほか、二之丸北側の石垣上に、「南蛮たたき」の工法で固められた土塀の遺構が現存している。

      特別史跡

      名古屋城跡

      名古屋城跡は1932年12月12日に国の史跡に指定された。指定範囲は本丸、西之丸、御深井丸の区域、西之丸西側と御深井丸・二之丸の北側の水掘、二之丸東側から西之丸南側までの空掘、並びに三之丸周囲の空堀および土塁である。1935年5月15日に御園橋西側の土塁が追加指定された。追加指定部分を含む指定範囲の面積は390,217.48平方メートル。1952年3月29日に同区域が特別史跡に指定された。近世築城技術の最盛期に造営された城郭であること、公儀による普請であり、徳川家康の意向が強く反映された城であること、史料や遺構が豊富に遺存し、築城以降の変遷がたどれることなどが特別史跡指定にふさわしいと判断された理由である。

      特別史跡指定範囲には、堀や土塁を除く二之丸の内側の区域、ならびに三之丸の内側の区域は含まれていない。これらの区域は明治時代初期以来、陸軍省所轄の軍用地であったため、1932年の史跡指定時に指定対象から除外されたと推定されている。

      1977年6月27日、文化財保護審議会(当時)は、二之丸の内側の区域および三之丸北東の土塁について特別史跡に追加指定するよう、文部大臣に答申した。しかし、当該区域内に特別史跡の保存活用とは無関係の施設である愛知県体育館が所在することから、上述の答申を受けての官報告示は見送られ、追加指定は行われなかった。なお、一部資料で「1977年に二之丸の内側および三之丸北東の土塁が特別史跡に追加指定された」と説明しているものがあるが[64]、これは誤りである。

      名勝(国指定)

      名古屋城二之丸庭園

      1953年3月31日に庭園の一部が国の名勝に指定。2018年3月31日に追加指定が行われ、庭園全体が指定対象となった。

      現存する有形文化財

      重要文化財

      以下4棟は1930年(昭和5年)、国宝保存法に基づき当時の国宝に指定、1950年(昭和25年)文化財保護法施行にともない重要文化財となる。

      • 西南隅櫓(本丸未申隅櫓)
      • 東南隅櫓(本丸辰巳隅櫓)
      • 西北隅櫓(御深井丸戌亥隅櫓)
      • 表二之門(本丸南二之門)

      以下2棟は1975年(昭和50年)、重要文化財に指定、所有者は財務省。

      • 二之丸大手二之門(二之丸西鉄門二之門)
      • 旧二之丸東二之門(二之丸東鉄門二之門) - 愛知県体育館建設に伴いいったん撤去され、本丸東二之門跡に移築

      壁画・天井版。

      • 旧本丸御殿障壁画 331面(附16面)(明細は後出)
      • 旧本丸御殿天井板絵 331面(附369面)(明細は後出)

      焼失した文化財

      以下20棟は1930年(昭和5年)、国宝保存法に基づき当時の国宝に指定。1945年(昭和20年)の戦災で焼失した。本丸御殿障壁画の一部(壁貼付絵などの移動不可能だったもの)や、鯱(足場を築き取り外し中だったもの)も同時に焼失した。なお名古屋市の河村たかし市長は市長定例記者会見の時、東北隅櫓(本丸丑寅隅櫓)の復元について言及している。

      • 大天守
      • 小天守
      • 東北隅櫓(本丸丑寅隅櫓)
      • 表一之門(本丸南一之門)
      • 東一之門(本丸)
      • 東二之門(本丸)
      • 不明門(本丸)
      • 正門(旧江戸城蓮池門)
      • 本丸御殿(以下の12棟)
        • 玄関(附 車寄)
        • 大廊下
        • 表書院(附 溜ノ間、渡廊下)
        • 対面所
        • 梅之間および鷺廊下(附 廊下)
        • 上洛殿(附 廊下)
        • 湯殿書院
        • 黒木書院(附 朝顔廊下)
        • 上御膳所(附 廊下)
        • 下御膳所
        • 柳之間および孔雀之間
        • 上台所

      本丸御殿障壁画

      戦災焼失前の旧本丸御殿の諸室には、狩野探幽ら狩野派の絵師による障壁画と天井画があり、このうち345面が1942年に旧国宝(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定された。本丸御殿は太平洋戦争末期1945年5月14日の空襲で焼失した。障壁画のうち、襖、障子、天井画など取り外し可能なものは空襲直前の1945年1月に取り外し、城内御深井丸の乃木倉庫に移動させ、難を逃れたが、取り外し不可能であった壁貼付絵、床(とこ)貼付絵などは建物とともに焼失した。焼失をまぬがれた襖絵等は1950年の文化財保護法施行以降は重要文化財となっている。その後、従来未指定であった襖絵、天井画などが重要文化財に追加指定され、指定物件は附(つけたり)指定を含めて計1,047面となっている[65]

      本丸御殿の諸殿のうち、障壁画があったのは玄関、表書院、対面所、梅之間、上洛殿、黒木書院、上御膳所、御湯殿書院などである。これらの諸殿の障壁画は、各建物の用途や格式に応じて、技法や画題に変化をつけていた。

      戦災焼失以前の旧本丸御殿の建物のうち、東側の玄関、表書院、対面所などは慶長度造営(1615年完成)、西側に位置する上洛殿などの奥向きの諸殿は寛永度造営(1634年完成)で、両者の年代には約20年の開きがある。慶長度造営と寛永度造営とでは建物の細部様式や障壁画の筆者も異なっており、こうした異なった時期の建築や絵画の様式変遷がたどれるという意味でも本丸御殿は貴重な文化財であった。

      慶長度造営の御殿は慶長20年(1615年)に落成。当初は藩主徳川義直の居所として使用されていたが、元和6年(1620年)に義直は二之丸御殿に移り、本丸御殿は賓客の宿舎などとして臨時に使われるとき以外は空家となっていた。その後、将軍徳川家光の上洛時の宿舎として使用するために本丸御殿の大改修が行われた。このとき、西側にあった奥向きの諸殿は取り払われて、御成書院(上洛殿)などの建物が新たに建立された。これら寛永度造営の諸殿は寛永11年(1634年)に落成したが、家光の上洛時に宿舎として使用された後はほとんど使用されることがなかった。こうして長年空家状態であったことが、結果的には障壁画の劣化を防いだ。本丸御殿は、明治維新後は陸軍の司令部として使用され、明治26年(1893年)からは皇室の名古屋離宮として使用されたが、昭和5年(1930年)に離宮は廃止され、建物は名古屋市に下賜された。

      御殿内部

      玄関(遠侍とも)は、御殿の正式の入口であり、藩主に面会する者の控えの場でもあった。一之間と二之間からなり、障壁画は金地著色の竹虎図であった。一之間の竹虎図は狩野長信の作。

      表書院は近世には「広間」と称され、藩主との正式の対面に用いられた、表向きの儀礼的空間であった。表書院は上段之間、一之間、二之間、三之間、納戸之間の5室からなり、納戸之間を除く4室に障壁画があった。各室の障壁画は金地濃彩の花鳥図が主体である。障壁画の筆者は不明であるが、上段之間の梅松禽鳥図(大部分が戦災焼失)は、当時の狩野家の当主であった狩野貞信の筆と推定されている。

      表書院(広間)が公的・儀礼的空間であったのに対し、対面所は藩主の私的な対面などに用いられた建物である。対面所は上段之間、次之間、納戸一之間、納戸二之間の4室からなり、各室に障壁画があった。上段之間と次之間の画題は風俗図で、吉田神社、上賀茂神社、愛宕山などの京名所図や職人尽し風の図があった。これらの風俗図は大和絵風の穏やかな筆致で描かれており、金地濃彩で人物の登場しない表書院の障壁画とは対照的である。筆者は狩野甚之丞と推定されている。

      上洛殿(書院)は寛永11年(1634年)に落成したもので、将軍御成りの際の宿舎として建てられたため、「御成書院」と呼ばれた。上洛殿の障壁画は、尾張藩の公式記録(『事績録』)と作風の両面から狩野探幽の筆とすることが定説である。上段之間、一之間、二之間、三之間、松之間、納戸之間の6室からなり、各室に障壁画がある。慶長度造営の諸殿と異なり、上洛殿の上段之間、一之間、二之間、三之間では、各室の長押上の小壁まで障壁画で飾られており、上段之間、一之間、二之間の格天井には水墨と淡彩で山水や花鳥が描かれていた。さらに欄間には彩色彫刻を施し、長押には大型の飾金具を打つなど、装飾に富んでいた。上段之間、一之間、二之間、三之間の障壁画は、表書院のような濃彩ではなく、水墨を主体にして、要所に彩色を加えたものである。当時の狩野派においては、水墨がもっとも格上の技法であった。上段之間と一之間の障壁画の画題は帝鑑図、すなわち為政者の戒めとするための絵であり、古代中国の皇帝の善行が主題となっている。上洛殿の北側から西側に連なる上御膳所、黒木書院、御湯殿書院(上り場御殿)は上洛殿と同時期に建立された内向きの諸殿で、上御膳所の上段之間と上之間、黒木書院の一之間と二之間、御湯殿書院の上段之間、一之間、二之間に障壁画があった。前述の『事績録』には、狩野采女(探幽)と狩野杢之助に障壁画を描かせたとあり、杢之助は御湯殿書院などの絵を担当したと推定される[66]

      1992年から障壁画の復元模写が開始されている。これは江戸時代の技法や材料を用いて、制作当時の障壁画を忠実に再現しようとするもので、林功(2000年没)、加藤純子の指導のもと、愛知県立芸術大学の協力を得て行われている。また、名古屋市では2009年から本丸御殿の建物の伝統工法・材料による復元に着手し、2013年から一部復元建物の公開が開始されている。復元された本丸御殿には前述の復元模写された障壁画が設置されている。名古屋城には、昭和戦前期に作成された各建物の詳細な実測図と、古写真のガラス乾板が保存されていたため、建物、障壁画ともに焼失前の状況が明らかであり、これらの資料をもとに、忠実な復元が行われている。なお、戦災をまぬがれて現存する障壁画は、名古屋城天守閣の展示室で順次公開されている。天守閣の木造復元化により、重要文化財や刀剣や甲冑の展示はできなくなる。鉄筋コンクリートの天守閣で展示、収蔵している重要文化財の旧本丸御殿障壁画やガラス乾版写真などは西之丸に建設予定の重要文化財等展示施設に移動。その他の展示・収蔵物は名古屋城の近接地に新たな施設の建設などを検討・対応。

      文化財指定履歴

      1942年6月26日、本丸御殿障壁画345面が当時の国宝保存法に基づく旧国宝(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。この時指定されたのは、玄関(一之間、二之間)、表書院(上段之間、一之間、二之間、三之間)、対面所(上段之間、次之間)、上洛殿(上段之間、一之間、二之間、三之間)、黒木書院(一之間、二之間)の障壁画である。(昭和17年文部省告示第519号)(明細は後出)

      1945年5月14日、空襲により本丸御殿は焼失。取り外して保管されていた襖、障子、天袋などの絵は難を逃れたが、移動不可能であった壁貼付絵や床(とこ)・棚の貼付絵など140面余は建物とともに焼失した。焼失分については、1949年10月13日、昭和24年文部省告示第179号により正式に指定解除された。

      1950年8月29日、文化財保護法施行に伴い、焼け残った障壁画は、重要文化財となった。

      1955年6月22日付で、従来未指定であった襖絵、杉戸絵などが重要文化財に追加指定された。この時追加指定されたのは、対面所(納戸一之間、納戸二之間)、上洛殿(松之間、納戸之間、菊之廊下)、梅之間、黒木書院(一之間廊下、二之間廊下)、上御膳所(上段之間、上之間)、御湯殿書院(上段之間、一之間、二之間)の障壁画83面と杉戸絵66面の計149面である(昭和30年文化財保護委員会告示第38号)。これにより、重要文化財指定点数は計347面(附指定16面を含む)となった。

      1956年6月28日付で旧天井板絵331面(附指定369面)が重要文化財に指定された。(昭和31年文化財保護委員会告示第29号)

      石垣石材産地 

      石垣石材として、トーナル岩(神原トーナル岩=幡豆石)、砂岩(河戸石)、黒雲母花崗岩(岩崎石、山陽帯)、花崗斑岩(熊野石)、斑レイ岩などが使用されている[67]。判明している産地は、三河湾周辺、岐阜県養老山地東麓、小牧市岩崎山、三重県熊野市周辺、瀬戸[68]、本巣市船来山周辺とされている。ほかに、佐賀県唐津市、香川県小豆島産が使用された。

      作品 

      映画

      • 「モスラ対ゴジラ」
        • ゴジラが堀で転んで天守を壊す場面がある。
      • 「大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス」
        • 空中飛行で名古屋を襲うギャオスに屋根を破壊される。
      • 「ゴジラvsモスラ」
        • 出現直後のバトラに御深井丸を破壊される。

      ゲーム

      • 「首都高バトル01」
        • オープニングでWESTコルベットが名古屋城で停車している。
      • 「ガンスリンガー ストラトス」
        • 対戦ステージ「名古屋」での舞台。
      • 御城プロジェクト」
        • DMMのオンラインゲームで擬人化された「名古屋城」が登場する他、ゲームのビジュアル背景に登場する。

      唱歌

      • 「名古屋城」(大和田建樹)
        • 童謡唱歌名曲全集 第3巻に掲載[69][70]
      • 「名古屋城」(青柳善吾)
        • 童謡唱歌名曲全集 第3巻に掲載

      歌舞伎

      • 「傾城黄金鯱」
        • 初代並木五瓶作。柿木金助による金鯱の鱗盗難事件を描いた演目[71]
      • 「通し狂言 旭輝黄金鯱」
      • 傾城黄金鯱を元に7代目尾上菊五郎が監修、アレンジしたもの[72]

      現地情報 

      所在地

      • 愛知県名古屋市中区本丸1番1号

      交通アクセス

      鉄道

      • 名鉄瀬戸線 東大手駅下車、徒歩で約15分。

      路線バス

      • 名古屋市営バス
        • 「名古屋城正門前」バス停下車、徒歩で約1分。
        • 「市役所」バス停下車、徒歩で約5分。
      • 基幹バス(名古屋市営バス、名鉄バス)
        • 「市役所」バス停下車、徒歩で約5分。
      • メーグル(なごや観光ルートバス)「名古屋城」バス停下車。

      自動車

      • 駐車場:520台。
        • 30分毎に180円。

      西の丸御蔵 城宝館

      2021年(令和3年)11月1日に開場した、西の丸にあった蔵を基に再現した展示・収蔵施設で、『名古屋城本丸御殿障壁画』など名古屋城に関する資料(史料)を保存・展示している。入城料を支払っていれば、この施設へは入場無料。

      イベント

      名古屋城宵まつり(旧称:名古屋城夏まつり)

      毎年、8月上旬から中旬にかけて行われる夏祭りである。城内で、大盆踊りやステージイベントなどが催される。

      1984年(昭和59年)から毎年東海ラジオで公開生放送されていた時期もあったが、現在は同局で放送されている番組の公開収録が行われている。また東海ラジオでは同じく夏のビッグイベントだった全国選抜名古屋大花火が2005年から中止になってからは、宵まつりが夏の同局におけるビッグイベントとなっている。

      2005年(平成17年)は新世紀・名古屋城博と愛・地球博開催のため中止。なお、2004年までは財団法人2005年日本国際博覧会協会が連携協力として参加していた時期がある。

      2006年(平成18年)からは名古屋城宵まつりとして開催される。

      その他

      2009年(平成21年)と2010年(平成22年)と2012年(平成24年)、ピンクリボン運動の一環として、10月1日夜にピンク色のライトアップが実行された。

      2010年(平成22年)10月2日 - 3日、名古屋城 ゆるキャラ®祭りが開催され、はち丸、だなも、エビザベスとともに各地方のマスコットが参加した[73]

      参考文献 

      • 『戦国の堅城II 戦略・戦術に応じた多彩な城郭群』学習研究社、2006年
      • 『名古屋城 尾張を守護する金の鯱』学習研究社、2000年
      • 『復元大系日本の城4 東海』ぎょうせい、1992年
      • 『日本100名城公式ガイドブック』
      • 【書籍】「重要文化財名古屋城障壁画 : 本丸御殿の至宝 」 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I056419933-00 |ref=}}
        • 【書籍】「近世武家文化の精華名古屋城本丸御殿 」
        • 【書籍】「名古屋城本丸御殿の障壁画 」
      • 『名古屋城障壁画名作展図録』、石川県立美術館、1989
        • 武田恒夫「名古屋城本丸御殿障壁画について」『名古屋城障壁画名作展図録』
        • 奥出賢治「名古屋城本丸御殿障壁画の保存」『名古屋城障壁画名作展図録』、石川県立美術館、1989、p,32
      • 名古屋城総合事務所編『よみがえる輝き 名古屋城本丸御殿障壁画復元模写』、名古屋城本丸御殿PRイベント実行委員会刊、2009
      • 『名古屋城』(『歴史群像』名城シリーズ)、学習研究社、2000
      • 【書籍】「特別史跡名古屋城跡保存活用計画 」 |ref=}}
      • 『近世城郭の最高峰 名古屋城』名古屋城検定実行委員会発行、監修三浦正幸

名古屋城の口コミ情報

2024年04月02日 武田縫殿允悠成
名古屋城

大きく1日ですべて見るのは難しいです。入れないとこもまあまああります。

2023年11月25日 だい
西の丸御蔵城宝館[名古屋城  関連施設]



入館無料で色々な企画展をやっています。令和5年12月17日までは家康と名古屋東照宮。

2023年11月07日 とらねこver.旅人
名古屋城



天守閣には入れなかったです。100名城スタンプは正門入ってすぐ右の建物内にありました。

遠くから見る名古屋城と近くから見る名古屋城の違いがわかります。天守閣周辺をひと回りしました。外国人の多さに少し戸惑いましたが、晴れていて良かったです。

2023年10月12日 ヨシヤ
名古屋城

名古屋駅から徒歩でも行ける距離(少し遠い)にある名古屋城。思っている以上に立派でした。耐震の関係で天守には登れませんが満足できる場所だと思います。

2023年10月09日 ひこ左兵衛督
名古屋城



天守閣は現在改装中ですが、本丸御殿内がその分一見の価値ありです。

2023年09月28日 備前大納言マサトシ
名古屋城



天守閣には入れませんが本丸御殿、湯殿、黒木御殿はきれいで見応えありますよ

2023年05月08日 宮内卿ピロシキ
名古屋城

5月中は名鉄のアプリで入場料が無料になります。

2023年04月30日 尾張守しゅうや城
高梨五左衛門邸趾[名古屋城  碑・説明板]



現在、高梨五左衛門邸趾には妙道寺が建っていて、「高梨五左衛門邸趾」と刻まれている石碑がありました

2023年03月31日 RED副将軍
名古屋城



⁡織田信長、徳川家康 ふたりの天下人ゆかりの城郭🏯

日本100名城

大永年間(1521年〜1527年)に今川氏親によって築かれた那古屋城が前身とされます。
元々は今川氏の尾張侵攻の拠点で今川氏豊が在城していましたが、1534年には織田信秀の拠点となり、1542年頃にその嫡男である織田信長の居城となりました。
織田信長が誕生したのも初めて城主となったのも那古屋城と云われます。
1555年に織田信長は清洲城へと居城を移し、那古屋城には織田信光、林通勝などが城主となりましたが、1582年頃には廃城となった様です。
1610年、徳川家康は廃城となっていた那古屋城跡に新たに名古屋城を築城。
天下普請により、前田、池田、加藤、福島、黒田などの西国諸国二十家の大名によって築かれました。
名古屋城が完成すると、徳川家康の九男である徳川義直が清洲城から入城。以降も徳川御三家筆頭である尾張徳川家代々の居城となりました。

見所
現在は、名城公園として整備されています。
大天守と小天守を橋台で連結した連結式層塔型の天守や、木造復元された本丸御殿に目が行きますが、やはり一番の見所は櫓です。
西南隅櫓(本丸未申隅櫓)、東南隅櫓(本丸辰巳隅櫓)、西北隅櫓(御深井丸戌亥隅櫓)は現存する櫓でいずれも重要文化財に指定。櫓といえ他の城の天守以上の大きさです。
内堀で飼われている2頭のシカも注目です。

2023年02月26日 石田治部少輔
名古屋城



天守閣は現在耐震不足で入れません。堀には鹿がいました。

2023年02月12日 
名古屋城



名古屋の中心部にある豪華絢爛なお城。空襲がなければと思いますが、現在の復元も希望があります。休日のギリギリで行ったため少し慌ただしかったですが、復元御殿の昇太師匠の音声ガイダンスは借りてくださいませ。湯殿も別で公開されております。あとは耐震工事の天守がどの様になるか楽しみですね。堀の鹿も見に行ってあげてください。

2022年11月21日 大膳大夫マイリバ
福島正則公像[名古屋城  その他]



この秋、小布施の岩松院に行った際にこの像のことを知り訪問してきました🤔
肥後のせいしょこさん&伊予の沈勇の士さんに遅れること何年かはわかりませんが、何はともあれ、像が建立されてめでたしめでたし😚
なんだかイメージどおりで、「(開削作業を)さぼっとったら、叩っ斬るに!」と言われそうで草🤣

〜以下、現地解説プレートより〜

名古屋発展の礎 福島正則公

福島正則公は永禄4年(1561) に現在の愛知県あま市で大工の息子として生まれた。
若くして豊臣秀吉公に仕え、賤ヶ岳の戦いで手柄 (七本槍の筆頭)をたて、出世の端緒をつかんでい る。
加藤清正公とともに秀吉公の子飼の武将として活躍し、35歳で24万石の清須城主となった。
関ヶ原の合戦では東軍に加わり、40歳で広島などを領有する50万石の大名にまで出世し、慶長15年(1610年) の名古屋城築城の時を同じくして、正則公により堀川が開削された。
しかし、水害に遭った広島城を勝手に修繕したという口実で、元和5年(1619) に4万5千石の高井野藩主 (現: 長野県高山村)に改易され、失意のなか寛永元年(1624) に64歳で亡くなった。
正則公が開削した堀川は、城下への幹線輸送路や身近な憩いの水辺として人々の暮らしを支え、明治になると沿川には多くの工場や製材所ができ、行き来する艀や筏が工業都市名古屋を支えてきた。
このため堀川は「名古屋の母なる川 堀川」と言われている。
しかし、昭和30年代 (1955年~64年) からトラックが普及して静かな水面となり今は都心の貴重な憩いの水辺として親しまれている。

2022年11月14日 Amatsudo
多目的トイレ[名古屋城  トイレ]

多目的トイレあります。安心して使えます。

2022年10月08日 【城郭道】たっきー
瀬戸電堀川駅跡[名古屋城  寺社・史跡]



名古屋城、愛知県名古屋市。
【瀬戸電の噺】 
名古屋城の外堀にはかつて電車が走ってました。
1906年、瀬戸から大曽根までの鉄道が開通、1911年5月、大曽根から土居下まで開通し、同年10月に堀川駅まで直結、堀を走る電車が完成しました。そして、1971年に廃線となるまで名古屋の発展に尽力しました。

ちなみに瀬戸電は瀬戸電気鉄道の略称です。

2022年09月29日 Ciel式部大輔bleu
名古屋城



名古屋城天守は耐震が危惧されるため閉館中。そのかわり本丸御殿が豪華!

2022年09月29日 キャサリン丸
名古屋城

名古屋城天守閣は今地震の耐久工事中で、中を見学は出来ませんが、広い敷地内を隅々まで、見てください♪敷地内に山が3つもあったり(発掘調査中)

人懐っこい猫が居たりと、色々と楽しめると思います。その足で、名古屋東照宮にも是非♪

2022年09月22日 【城郭道】たっきー
清正石[名古屋城  遺構・復元物]



【清正石の噺】
本丸搦手である東門にある城内最大の巨石で、約八畳敷で重さは推定10トン。加藤清正が運んだことよりこの名称が付けられたと思われがちですが、このあたりの石垣の担当は黒田長政であることから単なる説話だと思われています。搦手に城内最大の巨石か。

2022年08月02日 あざみう
名古屋城

名古屋城訪問。
前回訪れたのは2011年。その時は天守閣は博物館になっていましたが、現在は耐震性に問題があるということで、まさかの登城不可。
代わりと言ってはなんですが、復元した本丸御殿は見事でした。一見の価値あり。
入ってすぐの総合案内で100名城スタンプを押し、内苑売店で御城印を買いました。

2022年06月13日 かげちゃん参號
バイク用駐車場[名古屋城  駐車場]

名古屋城にバイクで行った場合は、名城公園正門前駐車場に駐める事が出来ます。

駐車場入り口過ぎて地下駐車場に行かずに左に行くとバイク専用スペースがありますが、3,4台くらいしか駐めれないと思うので、もし、専用スペースがいっぱいだったら、出入り口に管理棟があるので、係員のおじさんに聞いた方が良いと思います。

2022年05月13日 あこ
名古屋城



天守閣は残念ながらまだまだ入れない状況で残念…ですが、GW明けの平日だったのできらびやかな本丸御殿や御蔵城宝館での企画展・ボランティアさんのガイドなどゆっくりと見て回れました

2022年04月29日 【城郭道】たっきー
八幡社[名古屋城  寺社・史跡]



中村公園にある八幡社は名古屋城ゆかりの地となっています。この神社は加藤清正公出陣に際し、武運長久を祈願せし御社になりました。名古屋城天守に境内の楠の大木が使用されたと伝わり、その後に植えられた楠で今なお生殖しています。

2022年03月31日 【城郭道】たっきー
上洛殿[名古屋城  遺構・復元物]



上洛殿は1634年に徳川家光が京都に行く際に名古屋城で宿泊する時のために作られた部分です。本丸御殿の中で最も豪華絢爛な場所で、各式の高さを表すための折上式天井が最大の見どころとなっています。上洛殿に行った際には必ず見るべき点です。
(写真は過去二年半の上洛殿の写真を掘り出したものです)

2022年03月31日 【城郭道】たっきー
本丸御殿[名古屋城  遺構・復元物]



【夜の名古屋城】
たまに営業時間延長して公開している時がありますよね。そういう時ほど普段見られない名古屋城が見られます。
特に本丸御殿は圧巻です。昼の本丸御殿では感じられない雰囲気が醸し出されています。
本丸表一之門跡を通った後に現れる車寄から威厳が違います。御殿内に入ってみると薄暗いです。この薄暗さが癖になるのでたまんないですね。障壁画も貫禄があります。写真を撮りたいなら、個人的には誰もいない薄暗くなった廊下がおすすめです。
そんな風景がこの本丸御殿の中には広がっています。見たいんだったら現在進行形で行われている春祭りに行くべきです。

2022年03月30日 茗荷紋内蔵助康政
名古屋城



何年かぶりに訪問🏯色々な施設ができてました。天守閣に入れなくて残念でしたが、まだまだこれからも新しい施設などで楽しませてくれそうな事が期待できる感じがしました。

2022年03月29日 しぇるふぁ加賀守
名古屋城



3月26日〜4月3日に開催中の西南隅櫓の内部特別公開に行って参りました。11時頃に到着しましたが、すでに300人ぐらい並んでおり、櫓内の入場が24人までと制限されていたため、90分程度待ちました。かなりの時間ロスになりましたが、初めて見る中の様子は素晴らしく、特に3階から見た天守の様子は、窓枠が額縁のようでまるで切り取って絵画にしたような風景でした。とても貴重な機会でしたのでぜひ訪問してみてください。

2022年03月18日 【城郭道】たっきー
那古野城[名古屋城  周辺城郭]



1522年に今川氏親が築城。『柳の丸』と言ったという。1538年頃、織田信秀が今川氏豊から奪取。後に信長が城主となる。信長が清須に移ると叔父・信光、重臣・林秀貞永が一時的に入ったが、やがて廃業となる。現在は名古屋城二の丸にあり、石碑と説明板のみ建つ。

名古屋城に訪れた際は行ってね。以城。

2022年02月12日 鳥羽釆女佑
御園口門跡[名古屋城  遺構・復元物]

枡形虎口がしっかりと確認できる御園口門。名古屋城に行く際は時間と体力に余裕のある人は是非丸の内駅で降りてみてください

2022年01月22日 左近衛少将たちこ
名古屋城



武者演舞が楽しかった!記念撮影させてくれます。天守閣内は残念ながら入れませんでした。けど本丸御殿で色々と展示が見れます。

2021年12月12日 しげしげ主税頭信繁
名古屋城



土曜日日曜日は結構周辺の道路に路駐(公認)出来ます。また現在は耐震問題で天守にははいれまけんでしたが、二の丸庭園など見所はいっぱいあります。外堀を一周回ってたら白猫が器用に石垣で遊んでました。

2021年11月15日 ともさお
名古屋城

西の丸御蔵城宝館が11月1日にオーブンし、また新たな見所が増えた名古屋城。コロナの影響で、黒書院の公開がされていないのは残念ですが、それ以外の本丸御殿は大人気です。

2021年11月07日 【城郭道】たっきー
外堀[名古屋城  遺構・復元物]



【愛知県図書館あたりの石垣】
名古屋城の長い外堀の中で、愛知県図書館なかなか良いですね。石垣を間近に見られるので胸が騒ぎます。地下鉄桜通線丸の内駅で降りて、ここの石垣を見てから歩いて名古屋城本丸方面へ歩いて行くのがおすすめです。愛知県図書館にはお城に関する書籍が数多くあるのでやってみるのもおすすめです。

ちなみに、このあたりの外堀には名鉄瀬戸線が走っていたそうです。想像しただけで楽しくなる…。

2021年09月20日 【城郭道】たっきー
西南隅櫓[名古屋城  遺構・復元物]



西南隅櫓の内部は重要文化財であるからか、なかなか興味深くなっています。最上階からは大天守が立派に見えます。名古屋城へ行った際は是非、行ってみてください。

2021年09月19日 【城郭道】たっきー
表書院[名古屋城  遺構・復元物]



本丸御殿のうち、名古屋城創建時期から築かれていた建物。1945年に空襲にやって大天守などとともに焼失。一之間、ニ之間、三之間、上段之間、納戸之間で構成される。

2021年08月02日 【城郭道】たっきー
天守[名古屋城  遺構・復元物]



本丸北西隅に位置する五重五階、地下一階の巨大天守。徳川三家にふさわしい姿をしています。

1959年に鉄筋コンクリートで外観復元されたのが現在の天守です。今後、木造復元に建て替えられる可能性があるので、注目がよく集まります。

現在の姿は宝暦改修時の時のもので、それより前の慶長創建時の天守は最上階を除いて、土瓦でした(最上階は銅瓦)。宝暦の改修で軽くするために一重目以外全て銅瓦にされたんですよね。木造復元でどちら建つんでしょう?なかなか気になる未来です。

2021年08月01日 【城郭道】たっきー
東鉄門枡形[名古屋城  遺構・復元物]



二之丸御殿や庭園があった二之丸への入り口の一つで、現在は、石垣が一部削られながらも残存しています。二之門(高麗門)跡の両袖にある雁木が趣で溢れてなかなか楽しませてくれますね。

もし、二之丸御殿が復元されることとなった場合、東鉄門枡形はどうなるんでしょうね。

2021年08月01日 【城郭道】たっきー
『尾張勤王青葉松事件之遺跡』碑[名古屋城  寺社・史跡]



【青葉松事件】
慶応四年(明治元年)一月二十日
二之丸御殿南側にあった向屋敷(現在の愛知県体育館)の庭で、渡辺新左衛門ら三人の重臣が『朝廷により死を賜う』とだけ宣告され、処刑された。さらに、二十五日までに、評定所(現在の愛知県産業貿易会館)で十一名の命が奪われた。

当時、京都にいた前藩主・徳川慶勝は、尾張藩が天皇方につくか、幕府方につくかの決断に迫られていた。藩士の中でも対立があった。なお、尾張藩の決断は中部地方の藩に影響を与えるものであった。

そうした中、朝廷は倒幕の大号令を出し、東征を開始。慶勝は、朝廷に、藩論統一と周辺大名の動きを誘引するよう、京都から帰国を命令された。慶勝は名古屋に帰ってくると、佐幕派と目をつけた渡辺新左衛門らを処刑し、藩論を勤皇倒幕に統一。これを青葉松事件(当時、渡辺新左衛門家では、自ら『青葉松』と名乗っていたことが由来)という。

しかし、事件に関する証拠が隠滅されていることから、真相は不明である。

【昭和五十六年】
名古屋出身の作家・城山三郎が事件に興味を持ち、中日新聞に『冬の派閥』を執筆。

【現在】
二之丸に石碑と説明板が建つ。

【考察】
我の考えです。
何か裏で隠されていそうな事件ですね。慶勝が朝廷からの命令を守るためにやった可能性がありますし、何かもっと大きな存在が裏で操っていた可能性もあります。真相は不明。でも、こうやって考えるのが楽しいんですよね。

2021年07月16日 鬼図書頭陽姫
名古屋城



フォトコーナーで専門カメラマンが常駐していますので、一人でも金シャチとツーショットがとれるようになってました。

2021年07月12日 【城郭道】たっきー
乃木倉庫[名古屋城  寺社・史跡]



名古屋城御深井丸にある旧陸軍の火薬庫。1872年、後々、日露戦争で旅順攻囲戦を指揮することとなる乃木希典が名古屋に赴任してきたことにちなんで乃木倉庫という名が付けられた。
1997年、国の登録文化財に指定された。
明治初期の煉瓦造建築物として名古屋市内では極めて貴重なものである。

2021年03月27日 菩提玄蕃頭山城
名古屋城



16年ぶりに金鯱が地上に降りているので、天守閣の外観は少し物足りなさを感じますが、その代わり、金鯱を間近に見ることができます。桜もきれいだし、本丸御殿も一見の価値があります。今なら金の御城印も購入できます。

2021年03月06日 【城郭道】たっきー
堀川[名古屋城  寺社・史跡]



慶長15年、家康は福島正則に川の造成を指示。軍事上、河川は重要であるからと城下町発展を図るためと言われる。ルートは城の西側の幅下、辰之口を起点として広井、日置、古渡を経て南下し、熱田から海へ出る全長約7.24キロ。工事は翌16年に完了した。当初は正則の官名から『太夫堀』と呼ばれた。当時の名古屋経済は堀川があって成立したと言っても過言ではない。
スポットとなっているところからは清須櫓がよく見える。また、三枚目の写真は日置城(古渡城スポット)がすぐそこにある日置橋である。

2021年03月06日 【城郭道】たっきー
二之丸東北隅櫓跡[名古屋城  遺構・復元物]



二の丸庭園付近にあった二之丸東北隅櫓。現在は石垣のみが残ります。どうやらL字型の櫓だったようですね。名古屋城東の駐車場から石垣がよく見えます。
説明板は何もありませんが、是非、行ってみてください。


2021年03月06日 【城郭道】たっきー
多聞櫓跡[名古屋城  遺構・復元物]



この辺りの石垣は細川忠興、寺沢広高、鍋島勝茂、浅野幸長が担当しました。刻印もあります。現在、名古屋城本丸の中で一番人が少ないところですが、良いところなので是非、見てみてください。

2021年03月06日 【城郭道】たっきー
多聞櫓跡[名古屋城  遺構・復元物]



この辺りの多聞櫓を支えていた石垣は外側は山内忠義、池田輝政。内側は黒田長政が築きました。打込接が綺麗に続いています。また、名古屋城らしく石垣に刻印がたくさん刻まれています。探してみては。

2021年03月03日 【城郭道】たっきー
夢童由里子氏記念銘板[名古屋城  その他]



下御膳所の近くにある夢童由里子氏記念銘板。彼女の話は道徳の教科書に載ったこともあります。
彼女は名古屋城本丸御殿復元運動の提唱者で市民団体の代表者として活動されました。この記念銘板はその功績を讃えるものです。
残念ながら彼女は本丸御殿完全復元が完了する前にお亡くなりになりました。彼女がいたからこそ本丸御殿は復元されたということを知って本丸御殿を見ると良いかも知れません。彼女に感謝ですね。

2021年03月01日 【城郭道】たっきー
二子山[名古屋城  遺構・復元物]



名古屋城二の丸庭園にある築山のひとつ。南蛮たたき塀付近にあります。付近には説明板があります。

2021年02月27日 【城郭道】たっきー
二の丸大手二之門[名古屋城  遺構・復元物]



現存する門の一つ。二の丸の大手に構えられた枡形門の高麗門。 
両側の土塀や櫓門・多聞櫓は明治初期に取り壊された。本丸表二の門と同型だが、鉄板は筋状に張る。 ディアゴスティーニ日本の城2巻、116巻より

2021年02月27日 【城郭道】たっきー
二の丸庭園[名古屋城  遺構・復元物]

二の丸御殿造営に伴い、北側に聖堂を中心として設けられた庭園。もとは藩主専用の庭園であった。たびたび改修したのち回遊式庭園に姿を変えた。 ディアゴスティーニ日本の城2巻より

2021年02月27日 【城郭道】たっきー
西ノ丸西南隅櫓跡[名古屋城  遺構・復元物]



西の丸の正面は総多聞櫓で、西南隅にはL字型平面の隅櫓があった。同型の櫓は二の丸にも3棟あり、本丸の二重三階櫓とともに名古屋城独特の櫓だった。 ディアゴスティーニ日本の城116巻より


上記の3棟は二の丸西南隅櫓、二の丸東南隅櫓、二の丸東北隅櫓を指す。

2021年02月27日 【城郭道】たっきー
西北櫓[名古屋城  遺構・復元物]



西北隅櫓は、築城以来、城内唯一の三重三階櫓で、名古屋城築城以前の尾張国(愛知県西部)の府城(国の中心の城)だった清須(清洲)城天守(一説には小天守)を解体移築したものと伝えられ、それに因んで通称は清洲櫓である。柱や梁に不必要な仕口(部材を接合するための切り欠き)が多く見られ、前身の建物の再利用が考えられるので、清須城天守を移築したのは確実である。現状は層塔型という新式の三重三階櫓であるが、清須城天守は時期的に旧式の望楼型だったはずで、それを大幅に改造したものである。一階平面が8間(約16m)に7間(約14m)もあり、望楼型であれば四重五階や五重六階の天守に匹敵する規模である。現存12天守と比べても、三重の宇和島城天守の1.5倍以上もあり、第6位の松本城天守に次ぐ大きさだ。一階の城外側2面には、幅4間という大きな出窓を設け、その床下を石落にしている。出窓型石落は幕府系城郭の特色で、その現存最古例である。 ディアゴスティーニ日本の城116巻より

2021年02月21日 【城郭道】たっきー
対面所[名古屋城  遺構・復元物]



対面所は玄関、表書院の次に通る部屋です。入側を通って最初に見るのが次の間でその次が上段之間(出っ張りがある方)です。
この口コミについている写真は対面所次之間東側戸襖絵の風俗図(綱引、見世物)です。
上洛殿、上御膳所を通ってから下御膳所に行く途中に見える部屋は対面所の納戸上之間と納戸次之間です。
対面所は創建時に造られたものでそれが蘇ったということなのでしっかりみていってください。じっくり見るにはやっぱり人が少ない時に一人で来るのが一番ですね。

2021年02月20日 【城郭道】たっきー
埋門跡[名古屋城  遺構・復元物]



二の丸庭園西にある埋門跡。藩主が戦などの時に脱出するために造られたもので『臆病門』とも言われています。
土塀の下の門をくぐって石段を降り、水堀を舟で渡って対岸の下深井御庭へ。そこから清水、大曽根、勝川、定光寺を経て木曽に行くルートです。脱出ルートにはそれぞれ事情を知っている人がいましたが、知っての通り名古屋城は戦となったことがないため、埋門も各地の人も出番は一度もありませんでした。
現在は跡が残るのみです。

2021年02月20日 【城郭道】たっきー
御深井焼窯跡[名古屋城  寺社・史跡]



寛永年間(1624〜1644)に尾張藩初代藩主、徳川義直がこの地に築き、瀬戸の陶工を招いた。ここで作られた陶磁器は御庭焼、御深井焼とも呼ばれたが、明治に絶えた。

2021年02月20日 【城郭道】たっきー
西南隅櫓[名古屋城  遺構・復元物]



東南隅櫓と同じ構造の櫓であるが、破風、石落としのある方向などが違う。瓦が菊の紋章なのが特徴で内部公開などがされることもある。

2021年02月15日 能登守さとみっくす
本丸御殿[名古屋城  遺構・復元物]



名古屋城本丸にある御殿。中は立派で見応えがあります。名古屋城へ行ったら行くべきところです。

2021年01月31日 我流尾張守クール
朝宮御殿跡[名古屋城  寺社・史跡]



尾張藩初代藩主の徳川義直公が鷹狩りの休憩場所として造営したようです。朝宮神社の横にひっそり案内板がありました。

名古屋城からは現在のR19沿いに約12㎞程、庄内川(土岐川)は川底が浅く、乗馬していればそのまま渡れたかもしれないです。
現地に当時を偲ぶものはありませんが、八田川に架かる御殿橋や御殿公園が朝宮御殿に由来するものだと思います。

当時の春日井市は荒野で春日井原と呼ばれていたようですが、御殿跡の北側には鷹来(たかき)という町名があることから、江戸時代初期は広大な鷹狩り場であったことが容易に想像出来ます。


2021年01月04日 【城郭道】たっきー
対面所[名古屋城  遺構・復元物]



名古屋城本丸御殿にある対面所。この部屋は身内などとの内々の対面や宴に使われました。対面所に描かれている絵は洛中、洛外の年中行事が画題となっています。美しい部屋ですよね。

2020年12月23日 【城郭道】たっきー
本丸御殿ミュージアムショップ[名古屋城  その他]



本丸御殿ミュージアムショップでは様々なお土産が販売されています。本丸御殿の雰囲気にあった商品が沢山あってなかなか良いところです。
リア攻めした際には是非、行ってみてください。

2020年12月13日 【城郭道】たっきー
中之口部屋[名古屋城  遺構・復元物]



現在は下駄箱や荷物置き場、本丸御殿内の中心の場となっています。ここから各部屋へ向かいます。

2020年12月12日 【城郭道】たっきー
玄関[名古屋城  遺構・復元物]



玄関一之間北東面の障壁画は入り口にふさわしく、威厳ある『竹林に虎』の画題であらわされています。
本丸御殿の障壁画の中で最もよく知られたものです。

2020年11月22日 【城郭道】たっきー
表ニ之門[名古屋城  遺構・復元物]

本丸への入り口のひとつで小さいですがとても立派な門があります。重要文化財でずっと見てられます。

2020年11月18日 【城郭道】たっきー
小天守[名古屋城  遺構・復元物]



大天守にそうように存在している小天守。重要な役割を持っていてすごく立派です。現在中は入れません。最後に入ったのは二年半前かな…?

2020年11月16日 【城郭道】たっきー
加藤清正公銅像[名古屋城  その他]



本丸大手馬出付近に加藤清正公の銅像があります。
江戸時代、清正は天守台などの石垣普請を担当し、天守台は三ヶ月で完成しました。
現在は名古屋城の写真スポットのひとつとなっています。


2020年11月15日 【城郭道】たっきー
二の丸石垣と空堀[名古屋城  遺構・復元物]



二、三週間ぶりに名古屋城に行ってきました。何度行っても新たな発見がある城です。市役所駅を出てすぐ目の前に広がる二の丸の石垣と堀はもう最高です。ずっとみてられます。

2020年11月12日 【城郭道】たっきー
旧小天守出入り口[名古屋城  遺構・復元物]



名古屋城大天守台西側に幻の小天守への入り口があります。かつて西側にも小天守を作る予定ですが、白紙になり石垣で塞がれています。よく見ると幻の小天守への入り口の跡があるので探してみるといいですよ。

2020年11月09日 【城郭道】たっきー
西北櫓[名古屋城  遺構・復元物]



重要文化財に指定されている西北隅櫓(清須櫓)=戌亥櫓。御深井丸の西北隅に立つ三重三階の櫓で清洲城の小天守を移築したものともいわれています。
たまに内部が公開されていることもありますが、公開されているときは長蛇の列ができているので早めに行ったほうがいいと思います。

2020年11月07日 【城郭道】たっきー
不明門[名古屋城  遺構・復元物]



不明門は名古屋城大天守の東にある門で本丸にある門のひとつです。
江戸時代、普段は閉ざされて特別なことがないと開かない門でした。高塀の下に埋まる形で作られ、塀は軒桁に槍の穂先を並べた剣塀となっています。
昭和20年5月14日の名古屋空襲で天守や本丸御殿と共に焼失しましたが、昭和53年3月に復元されました。

2020年11月02日 【城郭道】たっきー
トイレ[名古屋城  トイレ]



名古屋城正門から歩いて1〜2分のところに小さなトイレがあります。中は綺麗で普通に使える状況です。正門から西北隅櫓(清洲櫓)をみに行くときに利用するといいかもしれません。

2020年11月01日 櫓守潔人
名古屋城



久しぶりに名古屋に行き城郭見物しました。現在天守閣内は、整備計画の関係だと思いますが閉鎖されています。でも改めて天守の巨大さを実感しました。本丸御殿は、キラキラで豪華そのものでした。写真反転❓

2020年10月26日 拓之助中務少輔【若者組】
旧小天守出入り口[名古屋城  遺構・復元物]



名古屋城天守普請に最初は現在の堀の中にもう一つ石垣を建てその上に二層の小天守を立てようとしましたが、計画の途中に頓挫。その代わり大天守石垣に旧小天守と連結するため開けられた門跡の算木積みが現在うっすら残ってます。門跡は石垣により埋められています。算木積みが残るのは雨樋のあたりにうっすら見えます。
〜幻の小天守〜

2020年10月26日 【城郭道】たっきー
二の丸石垣と空堀[名古屋城  遺構・復元物]



地下鉄名城線市役所駅から出て一番最初に目に飛び込んでくるのが二の丸石垣と空堀です。石垣は算木積みが綺麗でもうここで最高の気分になってしまいます。じっくり眺めるだけで過ごすことができます。
まずはここで名古屋城の凄さを知ってください。そこから本丸へ行くとさらに凄いことになります。

2020年10月25日 【城郭道】たっきー
名古屋城木造天守閣階段体験館[名古屋城  関連施設]



名古屋城正門のすぐそこに名古屋城木造天守閣階段体験館があります。この中には名古屋城大天守の一層から二層へかけての表階段を実物大で復元したものがあり、登ったり降りたりすることができます。また、奥にはVRがあり、天守の中を見る?ことができます。

中は無料なので名古屋城リア攻めの際に行ってみてはいかがでしょうか。開館日は12月29日から1月3日にかけての年末年始を除いた土、日曜日、祝日となっています。開館時間は午前10時から午後5時です。中の人はとても良い人でした。

2020年10月19日 ぱぱ〜ん伊豆守
名古屋城



天守に入れないのは残念だけど、本丸御殿はまだ新築の木の匂いがして、見処もあって、十分楽しめる。大手門近くで盆栽展示してました。

2020年09月25日 風の杜弾正尹
名古屋城



本丸御殿の豪華さに圧倒されました。内装は大変煌びやかで徳川家の繁栄を見て取れます。係の人に聞くと、ここが手狭になったので当時の殿様が二の丸御殿を建てたと聞きました。これで手狭なのか…と唖然としてしまいます。現在耐震の関係で天守閣の中は見学できません。地元で動きがあるようにぜひ木造天守を再建して欲しいです。

2020年05月06日 【城郭道】たっきー
那古野城跡地[名古屋城  碑・説明板]



16世紀前半に今川氏親が尾張進出のために『柳の丸』という名で築いたのが名古屋城の起源とされている。後の名古屋城二の丸一帯にあったとされる。1532年、織田信秀が今川氏豊から柳の丸を奪い、那古野城という名前に改名した。
一時期、信秀はこの城に住んでいたとされ、信秀が古渡城に移った後は信長が2歳というとんでもない若さで那古野城の城主となったなった。しかし、1555年には信長が清洲城へ拠点を移した後は、那古野城は廃城となった。

現在、那古野城のものだと言われる遺構はなく、二の丸にある石碑が今の名古屋城を見守っている。
一枚目の写真は那古野城の石碑。
二枚目の写真は那古野城の石碑の辺りから見た現在の名古屋城本丸の大天守と東南隅櫓。

2020年03月24日 【城郭道】たっきー
名古屋城

名古屋城の最寄り駅である市役所駅が名古屋城駅に名前が変わるかもしれないらしいです。どうやら観光客が隣の名城公園駅が最寄り駅だと勘違いしてまぎわらしいと言って来たかららしいです。たしかに自分も初めて電車で名古屋城に行ったときに間違えてしまったことがあったので駅名が変わるのは自分は別に良いと思います。

2019年07月22日 長月河内守十六夜
名古屋城



刻印石がたくさんあってテンションアップ!卍や⛩️とかもあった。
天守は入れないけど、あの石垣のたわみを見ると、木造復元の前に石垣補修が大変そう、と感じました。
口コミにあった本丸御殿の音声案内、100円は安いな、と借りてみました。充実し過ぎて、ちょっと長いかなぁ(^^;)))障壁画の解説が充実してます。
以前訪れたときにはなかった金シャチ横丁も活気あって楽しめました。
地元大阪城も、最近ようやく食べるところ出来たみたいなので、行ってみたくなりました。

2019年05月04日 安芸守ガラス職人
名古屋城

戌亥櫓GW中は45分待ちです

2019年04月24日 OROKA参議
外堀[名古屋城  遺構・復元物]



三の丸を巡る外堀も大きく深く、土塁もあり見ごたえあります♪

2018年12月03日 はぎじろう
名古屋城

復元された本丸御殿に行ってきました。徳川家の栄光を充分にうかがい知る事ができます。湯殿書院と黒木書院はガイドさんが案内してくださるツアー形式です。費用はかかりませんが、その場での申し込み制ですので、時間に余裕を持って参加される事をオススメします。

2018年11月08日 ああ福島県大膳大夫城弾正
名古屋城

現在の名古屋城天守台は空襲の火災で焼けただれ、石材にヒビも見られます。
昭和の再建時、石垣を守る為、石垣に一切荷重がかからない工法を取り、現在の鉄筋コンクリート製天守は天守台には載っていません。
木造再建時、現在の鉄筋コンクリート天守を解体する際、石垣の破損が免れないとの指摘がある事、木造再建した際、焼けただれ老朽化した石垣に掛かる荷重を現在と同じくクリア出来るのか疑問です。文化財保護だけでなく何より安全性はどうなのか?

2018年04月15日 
名古屋城

本丸御殿×大坂夏の陣

慶長20年(1615年)4月に完成した本丸御殿対面所で、家康公九男初代尾張藩主義直公15歳と紀州和歌山浅野幸長二女春姫さま12歳との婚儀が執り行われました。
その宴は3日間続いたと言われています。

そして翌日家康公は、名古屋城から義直公と共に大坂夏の陣に向けて出陣しました。

現在公開中の本丸御殿では対面所上段の間が最上級の造りで、その格式の違いは部屋の天井にあり☆なので天井に注目してください。

また障壁画は25年前から復元模写プロジェクトが始まっており、完成まであと10年かかるそうです。
当時の材料や手法、絵師の思いを研究し、可能な限り本物に近づけた復元模写です。
400年前家康公も見たであろう豪華絢爛な障壁画を是非ご覧下さい。

2017年12月11日 我流尾張守クール
名古屋城

【入場禁止】
2018年5月7日~2022年12月31日

焼失前は城郭建築で元々国宝第1号の名古屋城天守閣。EV問題もありますが、どのような出で立ちか楽しみです。
GWは混雑必須かな?
木造復元前に訪れてはどうですか。


2017年08月03日 織田上総介晃司
名古屋城

天守へ最短距離で行ける駐車場は正門前駐車場になります。

空堀越しの天守に目が行きがちですが、西南隅櫓・東南隅櫓と表二之門の重要文化財も見所です。

本丸御殿は2018年完成予定で、そうなるも本丸は大天守・小天守・本丸御殿と壮麗な姿を見ることができます。

城内の食堂で名古屋名物きしめんを食べましたが、名古屋駅新幹線ホームのきしめんが美味しいらしく、きしめんを食べるためだけに名古屋駅に行く方もいるそうです。

2017年06月04日 我流尾張守クール
名古屋城

【清正の枕石】
篠島(知多郡南知多町)に所在しています。
5.2×2.0×1.8の大きさで数年前まで運び出す為の枕が挟まっていたそうです。
篠島は良質な花崗岩があり、島には石切場が点在しており、矢穴石も散見されるそうです。運び出せずに残念がった清正公が当石の上で寝そべったとか、いないとか…
名古屋城の石垣採石場は他に小牧市岩崎、瀬戸市赤津等々。篠島から運び出される石は熱田や桑名で引き揚げられ、石曳きされたそうです。篠島は三河、志摩、伊勢と属国が変遷していて、名古屋城築城の際(1610年)は尾張国でした。当時は20,000人もの人夫が島にいたそうです。
伊勢神宮と深い関わりがある島で、お伊勢詣りは篠島来島で完結とも云われ、叶わない人は夫婦岩(志摩)の間(篠島の方角)を拝んだそうです。
現地へは港から徒歩で30分程度、篠島小学校の敷地内を抜けて行きます。
篠島余談~①トイレは前浜ビーチに有ります。
②1979年には吉田拓郎さんのコンサートが開催されました。
《2017年6月3日 非公認第2回名城会の18名でリア攻め》



2017年06月04日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

先日、1~4日まで西南隅櫓の特別公開がされると口コミの投稿をしましたが、西北隅櫓の間違いでした。申し訳ありません。
口コミではありますが、お詫び申し上げます。




2017年05月28日 我流尾張守クール
名古屋城

名古屋城へのアクセス

メーグルバスが便利です。
名古屋駅JPタワーバスターミナル11番乗場から出発です。
車内アナウンスも良いです♪
ドニチエコキップでも大丈夫、乗り替え無しで地下鉄より早いですよ( v^-゜)♪


2017年05月28日 我流尾張守クール
名古屋城

名古屋城からの移築建造物その弐

■移築門 妙興寺~一宮市大和町妙興寺2438
三間薬医門→総門として移築、成瀬家の門とも言われています。この中では一番大きいです。妙興寺は尾張の正倉院とも言われていて、新陰流上泉信綱の無刀取り発祥の地。一見の価値あります。

■車寄 個人宅~名古屋市西区児玉3丁目
志水甲斐守屋敷車寄→門に改造。中には入れません。近くに丹羽長秀の生誕地あります。

もっと多くあるかもしれませんが実見した限りです。
情報提供してくれた武蔵国オナショーの先輩城友さんに謝意を表します。


2017年05月28日 我流尾張守クール
名古屋城

名古屋城からの移築建造物その壱

■移築門 泰岳寺~春日井市上条町10-198
清水御門→赤い門です。

■移築門 八事山興正寺~名古屋市昭和区八事本町78
本丸大手馬出門→地下鉄八事駅1番出口から直ぐ。東門として移築、傷みが激しい。

■藩校 永照寺~羽島市福寿平方1372
尾張藩校明倫堂→お寺の本堂です。

■茶屋 個人宅~弥富市前ヶ須町
竹長押茶屋→中には入れません。

■移築門 正福寺~一宮市大和町苅安賀字西北出3017
山門→彫り物が誂えてあります。

■移築門 園乗寺~北名古屋市石橋大日99
山門→何処かの裏門。文化財として指定されない為に手入れはされるものの、原型を留めていないようです。



2017年05月28日 
名古屋城

宵まつりのお得な情報です。

名古屋城では毎年8月上旬から中旬の10日間、名古屋城宵まつりが開催され、西の丸での大盆踊りやアイドルから伝統芸能まで日替わりのイベントが行われます。

この宵祭りの入場の際、浴衣を着ていくと入城料が100円オフになります。
更に甚兵衛でも100円オフです。

天守閣からの名古屋の夜景も楽しめますが、この冬には天守閣へ登城ができなくなるようなので、この夜景も暫く見れなくなりそうです。

小粋な浴衣姿、或いは涼しい甚兵衛で、夏の夜の名古屋城を楽しむのも良いのではないでしょうか。

2017年05月28日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

本日で口コミキャンペーンも終わりますが、毎日名古屋城のことを投稿してきました。最後に来場者数について口コミします。


近年は、お城ブームになり名古屋城も全国のお城の中ではいつもトップ10には入っております。

特に今では当たり前のようになった武将隊も平成21年に結成された名古屋おもてなし武将隊が最初であり、来場者のリピーターに大きく貢献していると思います。

過去2年間の来場者数は、平成27年174万人、平成28年192万人となっていますが、中々トップになれません。

しかし、これまで一度だけトップになったことがあります。

平成17年に198万人が来場されました。その時は愛知万博も開催しており、何と金シャチが地上に降りた年でもありました。

河村名古屋市長は、名古屋城を木造化にすることで、最初の2年間は450万人と試算しております。

ダントツの第1位となりますが、名古屋城が入場制限となる前代未聞があるかも知れません。

これもまた楽しみです。





2017年05月27日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

先日の5月26日に西南隅櫓について口コミをしましたが、何と6月1日~4日までの間に3年ぶりに特別公開があるようです。

名古屋城のホームページには記載はありませんが、さつき展のちらしには書いてあったそうで間違いではないようです。

ご興味を持たれ見学をされる際は、事前に名古屋城総合事務所に確認されると良いと思います。

私も見に行こうと思います。



2017年05月27日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

今から41年前までは名古屋城の外堀(空堀)に何と電車が走っていたことはご存知でしょうか。


今でも瀬戸電の愛称で親しまわれ、瀬戸焼で有名な瀬戸市から名古屋の中心部の栄町までの間で運転していますが、昔は瀬戸市から外堀(空堀)を通って福島正則が工事した堀川までの間でした。

昭和51年にルート変更になり外堀は通らなくなりましたが、今でも外堀を覗いてみると駅のホームや土地の所有者である名古屋鉄道の看板が立っていますよ。

外堀は、名古屋鉄道のものですから、決して外堀には入れませんのでご注意をして下さい。





2017年05月26日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

重要文化財の一つである西南隅櫓は、これまで一度だけ1日限りの特別公開がありました。

これまで著しく老朽化が進んでいたことから4年弱を掛けて2014年に完成をしました。これを記念として内部公開された訳です。


では、次は何時ですか?となるとチャンスは来年の本丸御殿の完成した時であると思われます。

何故ならば西南隅櫓まで行くには本丸御殿の南側を歩いていくしかなく、工事が終わらないと歩いて行けないからです。1日限定の特別公開も工事はおやすみになっていました。


本丸御殿の完成記念の一環として、来年の特別公開に期待したいと思います。名古屋城のホームページは要チェックです。




2017年05月25日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

名古屋城の櫓の数は、当初11棟ありましたが、現在3棟しか残っていません。

また、名古屋城には最高の防備を誇る多聞櫓がありましたが、明治時代の濃尾地震によって崩壊して解体されてしまいました。


今回は、名古屋城に多聞櫓があった痕跡をご紹介します。

多聞櫓は、本丸の外周や西の丸の南側、ニの丸の西側にありました。

本丸の多聞櫓は、隅櫓と繋がっていたため、現存する東南隅櫓内の1階の壁には大きな引き戸が今でも残っています。東南隅櫓は、毎年お城の日に特別公開がありますのでご確認下さい。


また、西の丸の西側の石垣の上には多聞櫓の礎石が綺麗に並んでいることが確認できます。ここは何時でも散策できます。


既に多聞櫓はありませんが、古地図を片手に城内を散策してみて下さい。
きっと楽しさは倍増しますよ。

2017年05月24日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

名古屋城の天守閣にある金シャチに雄と雌があることはご存知ですか。


雄と雌があると言うことは、大きな違いがあります。大きさや鱗の枚数はもちろん違いますが、一目で分かる違いを口コミします。


目の大きさ…… 雌の方が大きい。黒い瞳が前にあり見つめている 

歯の数…… 雌の方が歯の本数が多い。

背びれの数…… 雌は背びれが3つ。雄は4つ。


ここまでは近くまで行かないと確認できませんが、地上から見てもはっきりと違いが分かるものがあります。

それは形です。

雌は、身体が柔らかいイナバウアーのように尻尾が反っています。雄は、男らしく尻尾は上に伸びています。

是非、違いを確認して下さい。


ちなみに金シャチが地上に降りた直近は、2005年の愛知万博のときです。

きっと天守閣の木造化工事の時に降りるのでしょうね。楽しみです。







2017年05月23日 
名古屋城

名古屋城西南隅櫓の見所です。

この櫓は入城すると真っ先に目に入ってきます。
そして、名古屋城大天守とのフォトスポットでもあります。
大天守を目にしてこの櫓をスルーしがちですが、この櫓は入母屋破風と唐破風を重ねた珍しい重ね破風構造です。

そして、離宮時代に修理したため葵の御紋ではなく菊の御紋が鬼瓦に施されていますから、要チェックです。

更に、春姫様の嫁入り道中をこの櫓から家康公が見物したと言われている櫓です。
現存の西南隅櫓は、あの家康公も上った櫓だと思うと感慨深いものがあります。

2017年05月23日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

名古屋城本丸御殿の虎ノ間は、お殿様に謁見する者が控える部屋ですが、車寄せから通された者は誰でも驚く虎と豹が描かれています。


何故ならば、当時は生きたままの虎や豹は国内にはおらず、障壁画の作者は雄と雌の区別が分からないので虎が雄、豹が雌と思っていたそうです。

部屋の広さは、一の間は18畳、ニの間は28畳ほどあります。天井は、竿縁天井ですが、本丸御殿の奥に行けば行くほど天井のグレードがどんどん高くなっていきます。

特に一の間の違い棚の小襖は左から朝顔、菊、牡丹、百合が描かれており、小襖の下には赤と白のバラと黄色のびょうやなぎがあります。


表書院も虎の間も定期的に部屋の中に入れますので間近で確認出来ます。

名古屋城のホームページでチェックしてからお越しください。





2017年05月22日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

昭和20年5月14日に戦災で焼失する前の名古屋城と本丸御殿に入った方からお聞きした話です。

その方は、いまも健在であり今年で85歳なられます。幼少の頃には、度々学校の行事で名古屋城に行かれたそうです。


名古屋城内は、日中でも薄暗く、怖いイメージがありましたが、一番高い部屋から南側を見るとはっきりと海が見えて、とても眺めは良く爽快な気持ちに変わったそうです。


当時は高い建物がありませんが、今でも展望室から景色を眺めると
東は御嶽山、西は関ヶ原や清須城、北は岐阜城が見えます。南は、もちろん名港トリトンの橋脚が見えます。


本丸御殿では、廊下を歩くと、きゅつきゅつと音がしたウグイス張りの廊下であったそうです。

現在、再建中の本丸御殿は、まったく音がしませんが、京都の二条城ではウグイス張りです。

この部分も当時のように再建して欲しかったと残念な気持ちになりましたが、いよいよ来年には本丸御殿が完成します。

是非とも豪華絢爛の本丸御殿を見に来て下さい。







2017年05月21日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

名物と言えば、ひつまぶしや味噌煮込みうどんなどがありますが、もう一つ忘れてはいけないきしめん が名古屋城内にあります。

今回は、きしめんの由来を口コミします。諸説色々ありますが、二つの由来が有名です。

一つ目は、その昔、お殿様が食べるきしめんの具には、雉の肉が入っていました。
やがて庶民が口にするようになり、これは美味しい!と評判が広がり雉を乱獲するようになりました。雉が徐々に取れなくなり、食べれなくなった時に代わりに入れたものが油揚げとなります。

新幹線のホームにあるお店を覗いてみて下さい。必ず油揚げが入っていますよ。

従って、雉めん→きじめん→きしめん。ばんざーい

二つ目は、至ってシンプルに尾張徳川家は、紀州浅野家と親戚関係であり紀州から料理人もやって来ました。

紀州の料理人が作る麺がとても美味しく、あっという間に庶民まで広がりました。

従って、紀州麺→きしゅうめん→きしめん。ばんざーい!

城内にあるきしめん亭は、だし汁を鰹節から取っており一切に添加物は入っていません。

是非ともご賞味ください。
味は一級品です。


2017年05月20日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

第14段 尾張藩の飛び抜けた技術力の高さについてご紹介します。


名古屋城天守台の北面の左右の扇勾配は、何となく右側の石垣造りが左側より時代が新しく見えることはご存知でしょうか。


名古屋城は1614年にほぼ完成しましたが、徐々に北西角(右側)の石垣が約60㎝ぐらい沈み込み、天守の柱も垂直より1~3度傾いてきました。

これは大変なことだと作事奉行が行ったことは、長さ100mの太縄を用意し、天守の北西側の床下材に太縄を縛り付け、縄の先端には地面に固定した巨大なろくろの軸棒に太縄を巻き付けて、職人が力を合わせて引っ張り、何と!高さ約36mの天守閣を持ち上げました。

その後、急いで西面の石垣を積み直したアクロバティックな難工事をしました。

これは嘘のような話ですが本当です。これを宝暦の大修理と言います。


クレーンもないトラックもない時代に、人の知恵と力だけで問題を解決していく驚くべき出来事だと思いませんか!

ちなみに天守台は、加藤清正がたったの3ヶ月で造りあげたものです。是非、確かめて下さい。


2017年05月19日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

5月19日6時54分に投稿した熊の木彫りについて、補足します。


名古屋城天守閣の5階には、写真撮影が出来る大きな金シャチの横にひっそりとガラスケースに入った熊の木彫りの陶器製の置物があります。

何故、熊の木彫りなのか?と疑問を持つ方もいると考えて、熊の木彫りと名古屋城との関係を解説しました。


ちなみに旧尾張藩士は、八雲の地に約380人が移住し、その内の1人は名古屋城の留守を預かった時に、許可なく松を城の外周に植えたため、お殿様に怒られてしまったが、その後にお許しが出てご褒美まで頂いた高木志摩のご子孫は、現在旅館を経営されておられます。






2017年05月19日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

以外と知らない驚きの情報です。


北海道に行かれると熊の木彫りをお土産に買われる方も多いと思いますが、初めて作ったのは地元アイヌの方ではなく、尾張藩士であることをご存知でしょうか。


明治維新後、禄を失った旧藩士の困窮を見て尾張徳川家17代の徳川義勝公は、北海道の渡島半島に位置する八雲に開墾のために移住を勧めました。

その後、19代徳川義親公は、スイスに旅行中に木彫りの民芸品を見つけ、八雲町に暮らしている旧藩士の冬場の仕事として熊の木彫りの制作を勧め、義親公は『すべて私が買い上げるから作りなさい』と後押したそうです。

開拓民として旧藩士が未開の地の八雲に移住し、苦難と試練を繰り返しながら生活することは大変なことだと思います。

その地でお亡くなりになった旧藩士のお墓は、すべて名古屋に向いていることはご存知でしょうか。








2017年05月18日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

名古屋城に鹿がいることをご存知でしょうか?

全国に動物園があるお城はありますが、名古屋城は柵の中にいるのではなく、なんと内堀の中にいます。


1673~1680年頃に、城内に放されたことが『蓬左旧記』の中に書いてあります。
本丸などで放し飼いにされていましたが、木の若葉を食い尽くしたり、暴れたりしたので、堀の中で飼うようになったとの話のようです。

その後、戦争で絶滅してしまいましたが、昭和27年に県内の動物園から3頭のヤクシカや平成3年に和歌山県の動物園からホンシュウシカを貰い受けました。

一時期は50頭以上になりましたが、現在は2頭になりました。しかし、雌の鹿なので可愛い赤ちゃんは望めそうもありません。


お城の内堀を見て頂くと仲良くいますので、『お~い!』呼び掛けるとこちらを振り向きますよ。

ちなみに名古屋城のお堀は空堀です






2017年05月16日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

名古屋城の口コミを専門に投稿していますが、多くの方に『いいね』と評価して頂き、誠にありがとうございます。

今回もニッチな情報です。

名古屋城には多くの松の木が植えてありますが、幹の根元近くの表面に刃物でV字型の傷がある木が数本あります。

それは太平洋戦争の末期に飛行機の燃料確保が困難となり、松の木の油で燃料の実用化の検討をした跡となります。

この油を松根油と言いますが、結果として手間が掛かり過ぎて実用化にはならなかったそうです。

名古屋城も直接的に戦争に関わっていた証人となりますが、代表的な松として埋御門跡の北側の木、天守礎石の東側の木、西の丸の土手にあります。

是非とも散策して探してみて下さい。







2017年05月15日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

とてもニッチな情報です。

名古屋城の天守閣の北側の石垣は、中央辺りにはらみがあります。築城400年余り経過しているため、はらみが出来ることは仕方がないことです。

そのはらみに何と!ビール瓶が3本刺さっていることをご存知ですか?特に目立った所でもなく、解説する看板もないので何も感じずに通り過ぎてします方が多いと思います。

実は、石垣の歪みや崩れを事前に知らせるための物なのです。万一、石垣に異変が起こればビール瓶は割れます。

アナログの発見方法ですが、非常に分かりやすい方法ですね。分かりにくい場所にありますが、一度探してみて下さい。

2017年05月14日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

これからの旬な話題からです。

地元の人でもあまり知られていませんが、名古屋城にはホタルが生息しています。

その場所は、名古屋城の三の丸。現在の護国神社や本町通りと外堀通りが交わる橋の周辺に生息しています。

ホタルと言っても源氏ボタルや平家ボタルではなく、とても小さいですがヒメボタルと言うものです。

ホタルの見頃は、5月中旬から6月下旬頃です。夕方の17時頃に訪れると初夏の夜空を舞う美しいホタルが見れると思いますよ。

是非、ライトアップの名古屋城と小さく明るいホタルのコラボレーションを味わって下さい。

2017年05月13日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

本丸御殿の虎ノ間は、一ノ間と二ノ間に分かれおり、藩主に謁見する者の控える部屋です。
部屋の広さは、18畳と28畳であり、襖絵には虎と豹が描かれています。

当時の日本には生きた虎はおらず、作者は毛皮を見て描いたものと思われます。雄と雌の区別もつかないので虎を雄、豹を雌と考えたようです。ちなみに虎ノ間には18頭が描かれており、初めて部屋に入った者は、さぞや驚いたことでしょう。

一ノ間の違い棚の小襖には、夏と秋の草花である朝顔、菊、牡丹、百合が描かれており、二ノ間には、土筆も描かれています。

徳川の威厳を見せつける虎ノ間に通された武将は、誰でも今後は徳川様に刃向かうことを躊躇うことになったと思います。


2017年05月13日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

現在、建築中の本丸御殿は、昭和5年に国宝に指定され、二条城と並んで双璧と言われました。

現在、平成21年から開始された復元工事によって、玄関と表書院、対面所が順次公開され、来年には上洛殿などが完成し、すべてが出来上がります。

何よりも拘りは、当時の材料と工法による再現をすることです。匠と言われる宮大工は、数が少なく、近い将来に宮大工を志す若い方に先輩から色々と指導して頂きながら、技術の継承も目的としています。

特に注目するところは、豪華絢爛の襖絵です。当時の絵師が使っていた素材や技法を使って1枚一枚、丁寧に正確に作成しています。これも日本画家を志す方が関わっています。戦争で本丸御殿は消失してしまいましたが、消失前に襖絵や天井画の1049枚を運びだした結果、作成できる訳です。

平成21年から工事が始まり、来年の完成まで長い年月を要しますが、時間とお金が多く費やしていることが理解できます。

ちなみに総工事費150億円、そのうち寄付金が52億円です。3分の1を寄付金で賄っていることは名古屋市民や近隣市民の気持ちの表れであると思います。






2017年05月11日 
名古屋城

名古屋城本丸御殿対面所が公開されて、間もなく一年になります。
この対面所は、初代藩主義直と春姫の婚儀が行われたお部屋とされていて、対面所次之間の障壁画には、春姫様の故郷和歌山の風俗・風景が描かれています。
また、対面所上段之間は、京都吉田神社や加茂競馬の様子が描かれています。
その中に時代錯誤の見物人、甲冑武士や南蛮人がこっそり?描かれています。
本丸御殿へは双眼鏡を持って見学にいくと楽しい発見があります。

2017年05月11日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

天守台の北東の石垣には、加藤肥後守小代下総と刻んでいますが、南西の一番下の石垣には、加藤肥後守中川太郎平とあります。しかし、石垣の半分は埋まっているので、すべては確認出来ません。

また、その石垣には漢数字の二と刻んであり、その上には三と刻んでいます。一番下の石垣は、完全に埋まっています。

2017年05月10日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

名古屋城は天下普請のお城であり豊臣の西国大名が工事をしましたが、本丸西側一面のお堀の石垣は、細川家と寺澤家、鍋島家が担当しました。

細川家は綺麗な布積み、寺澤家と鍋島家は乱積みと石垣の積み方が明らかに違い境目が確認できます。色々な刻紋を見ながら石垣を見ると当時の家康の力が分かるような気がします。


2017年05月09日 五瓜ニ唐花紋太政大臣や~きみ
名古屋城

名古屋に住んで居たときは年間パスで入場してました。
年に四回以上行けば元はとれたはず。

四月は城内も場外も桜の見所ですね。
桜や夏は夜もお城に入れる期間があって出店とか出てましたね。

鹿はいつの頃からか空堀に住んでいました。
大昔にも居たから、また、空堀で飼い始めたみたいですがもう 10年位たつのでは。

駐車場はあります。

食事は能楽堂横などに色々ありますが、ひつまぶしなら遠くの有名店に行きましょう。蓬莱軒や白河とか。

味噌煮込みうどんも遠くの山本家総本店に行った方がいいです。

観光はお城、食事は別にして食事は本物の有名店で食べるのがベター。

味噌カツなら矢場とんとか。

また、名古屋城の中に那古城も含まれてます。
信長が父親の葬式で焼香を投げた寺は、大須の商店街に移設されてます。

市内も見てから名古屋城行くと更に面白いですね。
歴史が分ります。



2017年05月09日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

重要文化財である西北隅櫓(清須櫓とも言う)の一般公開は7日で終了しましたが、西北隅櫓は家康が清須城下にある神社寺社やお城の廃材を利用しているとのことです。その証拠として幾つもの柱には明らかに色や目が異なる木と接ぎ手がしてありました。1年先ですが、一見の価値あり。

2017年05月09日 山手乃不二
名古屋城

三の丸辺りの休日路駐オッケーなことについて、補足というか注意です。

桜並木がとても綺麗です。ということは、毛虫もかなりおります。車に帰って来て乗ろうと思ったら、窓が毛虫のカーテン状態になっていることがありました。

2017年05月08日 伊賀守しゅうさい
名古屋城

ゴールデンウィークも終わりましたが、名古屋城周辺の無料駐車についてお知らせします。名古屋城の三の丸周辺の道路は、休日、祝日に限り路駐オッケーとなります。但し、路駐オッケーの区間は、道路標識を見て注意して下さい。

2017年05月08日 よシー!
名古屋城

本丸御殿の建設現場が見れるのは今の名古屋城しかない❗今でしょ

2017年05月03日 クノール尾張守
名古屋城

4月23日、名古屋市長選は河村たかしさんが再選‼︎。ということは、名古屋城の木造再建がより現実化したということ!
500年後、国の宝となるのを目指すなら今まさに木造再建目指すべし。

2015年11月28日 まるき〜出雲守
名古屋城

夜の名古屋城をサクッと
名城公園南の交差点から西に入った道路側から天守がライトアップされた姿が良ーく見えます。
写真を撮るのには少し公園内に入るのがGOODです。

道路突き当たり手前辺りで堀の水に映る西北隅櫓も撮影できますが
ここは路駐になるので自己責任で…。

2015年03月22日 
名古屋城

二ノ丸茶亭近くに那古野城跡の石碑と説明書きがあります。那古野城は今川氏親築城と伝わり、城主であった今川一門の氏豊から織田信秀が謀略をもって奪いとりました。

桶狭間の戦いにおける今川義元の尾張侵攻は上洛目的ではなく、旧来今川氏の城であった那古野城の奪取を目的としていたという説もあります。現在は近世名古屋城の二ノ丸に完全にとりこまれてしまい、中世那古野城を偲ばせるものは上記の石碑と説明書きのみです。

2014年08月17日 太政大臣 大神信貫
名古屋城

1年に1日だけ無料で入館できます。毎年10月の第3日曜日。名古屋まつりのある日です。

2013年11月10日 クノール尾張守
名古屋城

西北隅櫓は清須城の小天守を移築したものと伝承されているせいか、映画「清須会議」に合わせての特別公開なのでしょうか?普段では中は見られないので、ラッキーでした。

2013年11月10日 クノール尾張守
名古屋城

11月24日まで重要文化財の西北隅櫓が特別公開中です。

2013年06月01日 百華
名古屋城

本丸御殿公開から、初の週末でした。朝、10時くらいについて本丸に入るのが30分待ちでした。
でも結構すすみが早く、そんなに待った感じはありませんでした。
中の撮影は出来ますがフラッシュは禁止とのこと。
補足ですがスタンプは
正門近くの総合案内所にありました。


2013年02月05日 ぽえぞお弾正少弼黄金旅程
名古屋城

復元中の本丸御殿の作業風景を見学出来ます!
材料の木材の木切れも漏れなく1個お持ち帰り可能(^_^)v
何も書いたりしてないから、ただの木切れにしか見えませんが…(‾∀‾;)

2012年08月24日 勘解由次官ぷんちゃん
名古屋城

石垣に彫られた大名サインを指先でなぞってほくそ笑み…。写真は名古屋城宵祭りにて、ピンぼけ~

2011年01月09日 うさチ左衛門尉
名古屋城

名古屋城には年間パスポートがあります。通常、チケット売り場に表記してないので売り場の販売員さんに聞いてみて下さい。二千円で一年間入城がフリーです。

2011年01月02日 摂政M三郎
名古屋城

名古屋城には、某有名清涼飲料水メーカー発売による『でら!珈琲 』という『金鯱ラベル]の缶コーヒーがある。ちなみにノンシュガーである。


2010年10月20日 tomm加賀守
名古屋城

本丸御殿玄関の復元過程とゆるキャラ(左から)「やっとカメのだなも」「400年の旅人のはち丸」「なごやジョウのエビザベス」の写真をアップしてみました
期間限定ですが「お堀めぐり」や「武家と玄関 虎の美術」もお薦めです


2010年08月21日 傾奇揚げ仙兵衛
名古屋城

戦国武将隊のお陰で女性客が多い。記念撮影で足軽の衣装は着たくない。

名古屋城の周辺スポット情報

 東南隅櫓(遺構・復元物)

 二の丸石垣と空堀(遺構・復元物)

 石垣(遺構・復元物)

 表ニ之門(遺構・復元物)

 外堀(遺構・復元物)

 た中ちくこ守石(遺構・復元物)

 西北櫓(遺構・復元物)

 正門(遺構・復元物)

 二の丸庭園(遺構・復元物)

 本丸御殿(遺構・復元物)

 東門(遺構・復元物)

 西南隅櫓(遺構・復元物)

 西ノ丸(遺構・復元物)

 天守礎石(遺構・復元物)

 清正石(遺構・復元物)

 旧二の丸東二之門(遺構・復元物)

 二の丸大手二之門(遺構・復元物)

 天守(遺構・復元物)

 小天守(遺構・復元物)

 築城普請小屋(浅野幸長)(遺構・復元物)

 本丸搦手馬出し(遺構・復元物)

 兼松家屋敷長屋門(移築)(遺構・復元物)

 鵜の首(遺構・復元物)

 埋門跡(遺構・復元物)

 米蔵跡(遺構・復元物)

 旧小天守出入り口(遺構・復元物)

 玄関(遺構・復元物)

 中之口部屋(遺構・復元物)

 表書院(遺構・復元物)

 下御膳所(遺構・復元物)

 対面所(遺構・復元物)

 鷺之廊下(遺構・復元物)

 梅之間(遺構・復元物)

 上洛殿(遺構・復元物)

 湯殿書院(遺構・復元物)

 黒木書院(遺構・復元物)

 上御膳所(遺構・復元物)

 柳之間(遺構・復元物)

 上台所(遺構・復元物)

 本丸東一之門(遺構・復元物)

 東北隅櫓跡(遺構・復元物)

 不明門(遺構・復元物)

 巾下門跡(遺構・復元物)

 車寄(遺構・復元物)

 二之丸西南隅櫓跡(遺構・復元物)

 太鼓櫓跡(遺構・復元物)

 二之丸東北隅櫓跡(遺構・復元物)

 弓櫓跡(遺構・復元物)

 月見櫓跡(遺構・復元物)

 西ノ丸西南隅櫓跡(遺構・復元物)

 多聞櫓跡(遺構・復元物)

 多聞櫓跡(遺構・復元物)

 多聞櫓跡(遺構・復元物)

 二之丸東南隅櫓跡(遺構・復元物)

 大天守台(遺構・復元物)

 北暗しょう跡(遺構・復元物)

 霜傑跡(遺構・復元物)

 栄螺山(遺構・復元物)

 北園池(遺構・復元物)

 権現山(遺構・復元物)

 二子山(遺構・復元物)

 南蛮たたき鉄砲狭間(遺構・復元物)

 菊之廊下(遺構・復元物)

 大手馬出(遺構・復元物)

 東鉄門枡形(遺構・復元物)

 西鉄門枡形(遺構・復元物)

 本丸表門枡形(遺構・復元物)

 本丸東門枡形(遺構・復元物)

 多聞櫓跡(遺構・復元物)

 二之丸(遺構・復元物)

 二之丸御殿跡(遺構・復元物)

 本丸空堀(遺構・復元物)

 三ノ丸(遺構・復元物)

 水堀(遺構・復元物)

 主税町長屋門(遺構・復元物)

 小天守台(遺構・復元物)

 御園口門跡(遺構・復元物)

 深井丸(遺構・復元物)

 長畝跡(遺構・復元物)

 本町門跡(遺構・復元物)

 那古野城跡地(碑・説明板)

 表一之門跡(碑・説明板)

 石碑(碑・説明板)

 高梨五左衛門邸趾(碑・説明板)

 明倫堂跡(碑・説明板)

 堀川堀留跡の碑(碑・説明板)

 那古野城(周辺城郭)

 八事山興正寺(寺社・史跡)

 乃木倉庫(寺社・史跡)

 朝宮御殿跡(寺社・史跡)

 御深井焼窯跡(寺社・史跡)

 堀川(寺社・史跡)

 『尾張勤王青葉松事件之遺跡』碑(寺社・史跡)

 篠島の矢穴石(寺社・史跡)

 瀬戸電堀川駅跡(寺社・史跡)

 愛知縣護國神社(寺社・史跡)

 名古屋東照宮(寺社・史跡)

 石棺式石室(寺社・史跡)

 八幡社(寺社・史跡)

 建中寺(寺社・史跡)

 万松寺(寺社・史跡)

 小鳥町遺跡(寺社・史跡)

 正門改札所(スタンプ)

 東門改札所(スタンプ)

 総合案内所(スタンプ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 多目的トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 バイク用駐車場(駐車場)

 金シャチ横丁(関連施設)

 御深井丸展示館(関連施設)

 名古屋城木造天守閣階段体験館(関連施設)

 西の丸御蔵城宝館(関連施設)

 名城公園(関連施設)

 徳川園(関連施設)

 菖蒲園(関連施設)

 四間道(その他)

 名城公園駅(その他)

 交番(その他)

 納屋橋(その他)

 伝馬橋(その他)

 撮影スポット(その他)

 加藤清正公銅像(その他)

 市役所駅(その他)

 本丸御殿ミュージアムショップ(その他)

 売店(その他)

 夢童由里子氏記念銘板(その他)

 金シャチ横丁義直ゾーン(その他)

 加藤清正像(その他)

 愛知平和記念館(その他)

 福島正則公像(その他)

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