一乗谷城(いちじょうだにじょう)

一乗谷城の基本情報

通称・別名

所在地

福井県福井市城戸ノ内町

旧国名

越前国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

朝倉氏

築城年

南北朝時代

主な改修者

桂田長俊

主な城主

朝倉氏、桂田氏

廃城年

天正3年(1575)

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀(水堀)、虎口、門

指定文化財

特別史跡(一乗谷朝倉氏遺跡)、特別名勝(庭園)、重要文化財(遺跡出土品)

再建造物

侍屋敷、町家、庭園、石碑、説明板

周辺の城

東郷槇山城(福井県福井市)[2.2km]
成願寺城(福井県福井市)[4.2km]
川島城(福井県鯖江市)[8.6km]
波多野城(福井県吉田郡)[9.7km]
福井城(福井県福井市)[10.0km]
藤島城(福井県福井市)[10.3km]
鯖江陣屋(福井県鯖江市)[11.8km]
清水山城(福井県福井市)[12.1km]
伊自良氏館(福井県福井市)[12.2km]
池田館(福井県今立郡)[12.4km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

37 一乗谷城

設置場所

「復原町並」入口(南)[地図
「復原町並」入口(北)[地図
一乗谷朝倉氏遺跡資料館[地図

一乗谷城の解説文



一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)は、福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡(日本の城)。戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる。

遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けている。

概要 

現在の福井市街の東南方向約10キロメートル離れた、九頭竜川支流の足羽川の、さらに支流である一乗谷川沿いの谷あいにある。戦国時代の城下町と館跡、および背後の山城から構成される。

一乗谷は東西約500メートル、南北約3キロメートルと狭小だが、福井平野の端から山地に入ってすぐの場所に位置し、数キロメートル先の目前に北陸道や大野盆地(大野市)に通じる美濃街道、鹿俣峠を抜け越前府中(越前市)へ続く街道、北陸道と連絡した朝倉街道[1][2]などが通る、交通の要衝をすぐ押さえられる位置であった。

一乗谷は東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7キロメートルの「城戸ノ内」に、朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備された道路の両面に立ち並び、日本有数の城下町の主要部を形成していた。周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群であった。武家屋敷、城下町の一部が木造復元されているが、予算の関係で一乗谷城、朝倉館、中の御殿、南陽寺、諏訪館、湯殿、武家屋敷、城下町、城戸と言ったこれ以上の木造復元計画はない。

歴史・沿革 

軍記物である『朝倉始末記』には1471年(文明3年)に戦国初代朝倉敏景(孝景・教景)が黒丸館(福井市黒丸町)から本拠を移したと記されている。しかし、「朝倉家伝記」や「朝倉家記」などの新資料によると、朝倉氏は南北朝時代には、一乗谷を本拠にしていたようである。文明年間には重臣が一乗谷に集住するようになり、また、足利将軍家の分家である鞍谷公方などもいたことから応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や高僧、文人、学者たちが避難してきたため一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。このため北ノ京とも呼ばれた。戦国4代朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え、越前の中心地として栄えていた。

1499年(明応8年)には足利義稙が朝倉貞景を頼り来訪する。1567年(永禄10年)11月21日には戦国5代朝倉義景が足利義昭(1568年(永禄11年)4月一乗谷で義昭に改名)を安養寺に迎える。義景は義昭を歓待するが、同年7月24日、義昭は上洛を果たすため織田信長を頼って美濃国に出国する。

1573年(天正元年)8月16日、刀禰坂の戦いに大敗した義景は一乗谷を放棄し大野へ逃れる。翌日、信長の軍勢によって火を放たれ一乗谷は灰燼に帰した。この戦の功績により信長から守護代職を与えられた朝倉氏旧臣の桂田長俊(前波吉継)が一乗谷に館を構え、越前を統治していた。しかし、同じ旧臣である富田長繁ら国人は長俊に反感を抱いており、民衆に一揆を起こさせるべく画策した。1575年(天正3年)1月18日、吉田郡志比庄で一揆勢が蜂起、翌日には長繁を先頭に坂井郡、吉田郡、足羽郡の一揆勢3万3千人が一乗谷に攻め入り、長俊は一族もろとも討ち取られた(越前一向一揆)。信長が一揆を平定した後、越前八郡を与えられた柴田勝家は本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄に構えたため、辺境となった一乗谷は田畑の下に埋もれていった。優れた造りの庭園も堆積する土砂に埋もれたが、1967年(昭和42年)に発掘が開始され注目されるようになった[3]

一乗谷城 

朝倉氏によって当主館の東側背後、西方に福井平野を一望できる標高473メートルの一乗城山に築城された中世山城。15世紀前半には築かれていたと考えられる。一度も戦闘に使用されることなく廃城となった。現在でも、曲輪、空堀、堀切、竪堀、土塁や伏兵穴跡などの遺構が尾根や谷筋に沿って残っている。全長1.5キロメートル、幅200メートルの曲輪を配し、主郭部分はおよそ600メートル×200メートルである。本丸(千畳敷)は標高416メートルに位置し、東南へ尾根伝いに一の丸(443メートル)、二の丸(463メートル)、三の丸(473メートル)となる。各曲輪は堀切によって区切られている(連郭式城郭)。

元亀年間には織田信長の侵攻に備えて約140条の畝状竪堀を築くなどの改修が行われたようである。

千畳敷(本丸)
千畳敷は本丸跡と伝えられる場所で、山城のうち最も広い部分である。主郭群の中では最も新しく、義景の代に山腹を削平して造営されたようである。北側には竪堀群が存在している。枡形虎口を設けた観音屋敷跡や福井平野を一望できる宿直(物見台)跡、赤淵明神跡や月見櫓跡などがあり、堀切、土塁で区切られている。西側には飲料水として利用された不動清水という湧水地がある。ここは文化的施設として使用されていたとも考えられている。

本来の一乗谷城は以下の一の丸・二の丸・三の丸で存在していた。

一の丸
山頂(標高443メートル)を削って造られており、西側には空堀を配している。
二の丸
四方を大きな堀切で完全に防御している。
三の丸
最高所の一部で、竪堀群や堀切などが複雑に配されている。

北西の低い場所には小見放城という出城が築かれ、馬出しなどが設けられていた。なお、一乗谷の周辺の山峰にも、東に東郷槙山城、北に成願寺城、南に三峰城などの出城が築かれていた。

遺構 

唐門

朝倉館跡正面の堀に面して建つ、幅2.3メートルの唐破風造り屋根の門(向唐門)。朝倉氏の遺構ではなく、のちに建てられていた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝わる。門表には朝倉家の三ッ木瓜の紋が刻まれている。現存するものは江戸時代中期頃に再建されたものである。

朝倉館跡

一乗谷の中心部に位置する朝倉家当主が居住した館である。東側後背に山城があり、西、南、北の三方を高さ1.2メートルないし3メートルほどの土塁で、その外側を幅約8メートル、深さ約3メートルの堀で囲んでいる。三方の土塁にはそれぞれ隅櫓や門があった。西方にある門が正門(御門)であり、現在は唐門が建てられている。平坦部の面積は約6,400平方メートルあり、内部には17棟の建築物があった。館内最大の常御殿(東西約21.4メートル、南北約14.2メートル)を中心に、南側には主殿や会所・数寄屋・庭園・花壇など接客用の施設群が、北側には台所や持仏堂・湯殿・蔵・厩など日常生活のための施設群が存在した。建物はすべて礎石に角柱を立てて建てられており、屋根はこけら板等を葺いていたと考えられているが、鬼瓦や棟石等も発掘されている。舞良戸や明障子などの引き戸を多用し、畳を敷きつめた部屋も多かった。

花壇
1968年(昭和43年)に常御殿の南側中庭で花壇の遺構が発見された。東西9.8メートル、南北2.8メートルの長方形をなし、花粉分析等により、春にはシャクナゲやボタンなどが、秋にはキクやハギなどが植えられていたことが判明した。花壇は、日本最古の遺構である。
朝倉義景墓
館跡の東南の隅にある。1576年(天正4年)に村民が建てた小祠の場所に、1663年(寛文3年)、福井藩主松平光通が墓塔を建立した。なお、大野市にも江戸時代に建てられた義景の墓がある。
中の御殿跡
義景館跡の南隣にあり、空堀を隔てて湯殿跡庭園とほぼ同じ高さの場所にある。足利義秋から従二位に叙せられた朝倉義景の母である光徳院が居住したと伝えられている御殿跡。東と南を土塁で囲んでいる。1972年(昭和47年)以降の発掘調査により、門や庭園跡、建物跡の一部が検出された。

館の背後には朝倉一族の屋敷が建ち並び、館の西方には犬馬場、柳馬場などの外郭が存在した。

資料館には発掘調査に基づいて製作された館の復元模型が展示されている。

庭園

庭池と石組の豪壮な林泉庭園から砂礫と立石、伏石の枯淡な枯山水庭園まで多くの庭園が遺存している。後世の改変がなく、室町時代末期の庭園様式をよく伝えている。湯殿跡庭園以外は石組の形式などが類似しているため朝倉義景時代の作庭と考えられている。

湯殿跡、南陽寺、諏訪館跡の3庭園は以前より庭石が地上に出ており1930年(昭和5年)7月8日には国の名勝に指定されていたが、その後の管理が不十分であったため荒廃していた。そのため、1967年(昭和42年)、表土の除去や雑木の伐採などの整備が行われた。1987年(昭和62年)には湯殿跡、諏訪館跡で湧水用の石組溝や暗渠が発掘された。

一乗谷朝倉氏庭園

1991年(平成3年)5月28日、以下の4庭園が国の特別名勝に指定された。

湯殿跡庭園(御湯殿跡庭園とも)
海抜63メートルの高台にあり、朝倉館跡を見下ろす位置にある。「観音山」という小山を背景に苔むした庭石が林立している。戦国気風がただよう荒々しくて勇壮な石組であることから、4つの庭園の中で最も古いものだと考えられる。16世紀初頭、10代目当主、朝倉孝景の時代に造られたと推定される。南北に細長く複雑に入り組んだ形の庭池があり、当時は導水路が備えられ、水がたたえられていたと考えられる。凝灰角礫岩の巨石を用いて護岸石組や滝石組、三尊石組などが周囲に組まれている。左右ほぼ同じ高さの滝副石があり、1段の水落石と水分石がある。園路跡もあり、池尻付近には橋挟石相当の石があることから石橋が架けられていたと考えられる。また、南側には空堀の石垣が残っている。池の東端には「亀島」と呼ばれる小さな石組で出来た島がある。またその反対側の西端には、「鶴石組」という石組が造られている。

湯殿跡庭園の池に見られる「亀島」と呼ばれる造りの石組は、滋賀県にある「旧秀隣寺庭園」にも存在する。この庭園は、湯殿跡庭園と構造が類似したところがあり、ほぼ同時代に造られたものである。

南陽寺跡庭園
南陽寺は朝倉氏景の妻、天心清祐大姉が建立し、その後、戦国3代朝倉貞景が再興した寺である。朝倉館の北東の高台にあり、朝倉代々の女性が尼として居住していた。当時は多くの建物があったが、現在は山すそに庭園の一部が残るのみである。
1568年(永禄11年)3月の桜の季節には、この庭園で朝倉義景が足利義秋(のちの15代将軍義昭)を招いて宴、歌会を催した。現在、その時に二人が詠んだ歌の碑が建てられている。
「もろともに月も忘るな糸桜 年の緒長き契と思はゞ」義秋
「君が代の時にあひあふ糸桜 いともかしこきけふのことの葉」義景
諏訪館跡庭園
諏訪館は朝倉義景が4人目の側室である小少将のために造ったと伝えられる館である。近くにある資料館には諏訪館の屋根板の重しや、魔除けの鬼瓦が展示されている。
上下二段構成の回遊式庭園で、上段は滝石組と湧泉石組、下段は大きなヤマモミジの下に高さ4.13メートル、幅2.5メートルの日本最大の滝副石を使った豪壮な滝石組がある。落差が大きいため水落石は4段組みである。水分石が滝口の前方にあり、立派な石橋が池尻に架けられている。礼拝石、橋挟石なども型通りに配置されており、当時の庭園様式をよく伝えている。大変形式的な構成であるため、専門庭師の作庭であると推察される。4つの庭園の中で最も規模が大きく、回遊式林泉庭園としては日本でも第一級の豪華さを誇るといわれる。
1847年(弘化4年)、滝副石の表面に心月寺十八世月泉和尚の筆により教景、貞景、孝景の法号を刻み供養している。
朝倉館(義景館)跡庭園
館跡内の南方にある庭園。完全に埋没していたが1968年(昭和43年)に発掘された。
護岸石を館の礎石に兼用し、庭園を囲むように接客用の館が建てられていたと考えられる。庭池は数寄屋跡南の山すそにあり、滝口前方には水分石がある。滝石組が中央に配されており、付近には橋挟石と石橋の残片が遺存している。池には大きくて平らな川石が敷きつめられている。東側の急斜面には導水路があり、庭池へつづら折れに流れ落ちるようになっている。数寄屋跡西には小砂利を化粧敷きにして庭石を数個配置した枯山水がある。
ちなみに、この庭園の庭石の一部には海石である安島石(普通輝石紫蘇輝石安山岩)や青石(緑色片岩)が使われている。

城下町

南北を城戸に囲まれた約1.7キロメートルの谷間に形成されていた。100尺(約30m)を基準に計画的に町割がなされた町並みは京都のように整然としていたようである。1995年(平成7年)には発掘結果や史料等を参考に200メートルにわたって当時の町並みが復元され、復原町並として公開されている。原寸大の立体模型は日本初である。

侍屋敷

朝倉館から一乗谷川を隔てた場所には周囲に土塁をめぐらした大屋敷が立ち並んでいた。 現在は、復原町並として復元整備されている場所で、それらのうち一軒を史料等を参考に、30坪の主殿を中心に門、庭園、蔵、納屋、井戸、厠まですべてが再現されている。

町屋

小規模な建物が細く並んでいた。平面復原地区、城戸の近くもびっしりと町屋が並んでおり、人口密度が相当高かったとされる。現在、復原町並内に10軒の町屋が復元され、裏庭、井戸、厠なども再現されている。

寺院

一乗谷には約40の寺院があったと考えられている。

安養寺跡
朝倉敏景が1473年(文明5年)に一乗谷東新町に建立した浄土宗の寺。開山は顕要。1488年(長享2年)8月には越前府中に滞在していた真盛(天台宗真盛派の祖)が朝倉貞景の招きに応じてこの寺で説法を行い、貞景は真盛に帰依した。1547年(天文16年)頃には一乗谷に滞在していた清原宣賢が「大学」、「中庸」などを講じた。1567年(永禄10年)には朝倉義景が足利義秋をこの寺で迎えた。この寺の隣に義秋の御所が造られた。朝倉氏が滅亡した後、1575年(天正3年)に北ノ庄へ移った。一乗谷時代の寺院遺構は朝倉館の一乗谷川対岸に位置する平面復元地区で確認されている。
盛源寺
上城戸の外に位置する天台宗真盛派の寺院。1492年(明応元年)に真盛が建立したといわれる。3メートル近い大きな地蔵菩薩をはじめ不動明王、毘沙門天など700体余りの石仏・石塔がある。
西山光照寺跡
下城戸の外、その北西に位置した寺院。寺伝によると創建は平安時代とされる。朝倉敏景(孝景・教景)が叔父の将景の菩提を弔うために再興した。天台宗真盛派で、一乗谷で最大の寺院であったと推測されている。朝倉氏滅亡後の1611年(慶長16年)に北ノ庄に移った。現在は旧参道両脇に屋根が設けられ38体の石仏が残されている。最も大きい不動明王は2.6メートルもある。
石仏群
現在でも石仏、石塔が3,000体以上残っている。そのほとんどが天台宗真盛派のもので、天文年間から永禄年間に多くつくられた。これらは合戦で戦死した将兵を弔うためにつくられたと考えられている。なお、石仏、石塔の大部分はやわらかく加工しやすい笏谷石で出来ている。

城戸内その他

英林塚
館跡の後背、一乗谷の山腹にある朝倉敏景(孝景・教景)の墓。敏景の法名である一乗寺殿英林宗雄から英林塚と呼ばれる。高さ約2メートルの笏谷石製の宝筐印塔である。現在は、保存のため建物で覆われている。昔から、越前に危機が迫ると鳴動するとの伝説がある。最近の研究では江戸時代の元禄、宝永年間に朝倉氏の菩提寺、心月寺の十八世住職龍堂が室町時代の古い石塔を転用、修復して再建した事が分かっている。

瓜割清水(うりわりしょうず)
広さ80平方メートルほどの湧水池。南の高台には南陽寺跡がある。あまりにも水が冷たかったため、冷やしていた瓜が二つに割れてしまったので「瓜割清水」と呼ばれる。一年中10℃前後の水温を保っている。現在も生活用水として地元の人たちに使用されている。

城戸

一乗谷を防御するため、城下町の南北に土塁を築いて城門を配した。京に近い南側は上城戸、北側は下城戸と呼ばれる。この間の約1.7キロメートルの「城戸ノ内」に朝倉館や侍屋敷などがつくられ城下町の主要部を形成していた。

下城戸
東西の山が狭まった谷の入り口に設けられた。現在は幅18メートル、高さ5メートル、長さ20メートルの土塁が残っている。枡形虎口である門跡には重さ10トン超の石が積み上げられている。なかには40トンを超す巨石もある。また、城戸の外側には幅10メートル、深さ3メートルの堀があり、かつては一乗谷川と直接繋がっていたと考えられている。
上城戸
現在は幅13メートル、高さ5メートル、長さ50メートルの土塁が残存している。巨石は残っていない。外堀も設けられていた。

城戸外

城戸の外にも町が形成されており、特に下城戸の北の阿波賀(福井市安波賀町)や前波(福井市前波町)は三国湊につながる足羽川が流れ、一乗谷の川湊として栄えた。美濃街道、朝倉街道も通っており、多くの物資が集積していた。米はもとより、唐物等も売買されていたようである。市場も設けられており、主要物資の相場を決定していた。

発掘・復元 

当主館や侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋、庭園から道路に至るまで、戦国時代の町並みがほぼ完全な姿で発掘されている。また、遺跡からは約5,000基の遺構が検出され、1万点を超える遺物が出土している。

  • 以前より、唐門が現存しており、また、山沿いには庭石の一部が露出していた。
  • 1930年(昭和5年) 地上に出ていた庭園が国の名勝に指定された。
  • 1967年(昭和42年) 庭園の整備・調査が行われ、地下から見事な庭園が発掘された。
  • 1968年(昭和43年)より館跡にあった松雲院と足羽町(1971年(昭和46年)9月、福井市と合併)の支所をそれぞれ移転して、館跡を整備するための発掘調査が行われた。礎石や庭石が次々と発掘され、その保存状態が大変良いため遺構を全面発掘することになった。
  • 1971年(昭和46年)7月29日 山城跡を含めた約278ヘクタールが国の特別史跡に指定された。
  • 1972年(昭和47年)4月1日 福井県は朝倉氏遺跡調査研究所を設立し、史跡公園として本格的な発掘調査と環境整備を実施することになった。
  • 1981年(昭和56年) 発掘結果を保存展示する福井県一乗谷朝倉氏遺跡資料館が遺跡の付近に開館した。
  • 1991年(平成3年)5月28日 諏訪館跡庭園、湯殿跡庭園、館跡庭園、南陽寺跡庭園が国の特別名勝の指定を受けた。
  • 1995年(平成7年) 発掘調査に基づき、当時の町並が約200メートルにわたり復元された。
  • 2004年(平成16年)7月18日 福井豪雨に際し付近を流れる一乗谷川が氾濫し、遺構の一部と資料館が浸水の被害を受けた。
  • 2007年(平成19年)6月 遺跡からの出土品のうち2343点が国の重要文化財指定を受けた。
  • 2008年(平成20年)3月13日 戦国時代のものとみられる目貫(めぬき)や笄(こうがい)など、刀装具の鋳型37点が出土したことを発表した。

現地情報 

所在地

福井県福井市城戸ノ内町ほか

復原町並へのアクセス

公共交通機関

  • 福井駅(北陸新幹線・ハピラインふくい線・えちぜん鉄道勝山永平寺線・福井鉄道福武線)から以下の一般路線バスにて「復原町並」下車。
    • 京福バス62系統 一乗谷東郷線 福井駅(西口)5番のりば発、福井駅東口(アオッサ東側)にも停車。おおむね1時間に1本運行。
    • 「朝倉・永平寺ダイレクトバス」や「朝倉ゆめまる号」など、臨時バスを運行する年もある。
  • JR越美北線 一乗谷駅から徒歩5分で下城戸および西山光照寺跡、徒歩約30分で朝倉館跡および復原町並。運賃はバスよりも安いものの、本数が少なく、2 ‐ 3時間に1本程度運転。
自動車
  • 北陸自動車道福井ICから、国道158号、福井県道31号篠尾勝山線、福井県道18号鯖江美山線経由 約10分。

周辺

  • 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館 - 武器武具(刀、火縄銃など)、生活用品(下駄、化粧具、調理器具や食器など)、遊芸品(生け花、お香、将棋の駒、茶器など)、文房具(硯石や墨)、鬼板や棟石、建築部材、暖房器具、越前焼大がめなどの職人道具類や中国・朝鮮製の陶磁器など、遺跡から発掘された出土品を展示している。また、一乗谷全体模型や朝倉館復元模型、写真パネルなどもあり、遺跡に関わる各種資料が展示されている。
  • 道の駅一乗谷あさくら水の駅
  • 安波賀春日神社
  • 心月寺 - 朝倉敏景が祖父教景(1463年没)の菩提を弔うため15世紀後半に建立。以後、朝倉家の菩提寺となった。かつては300人近くの僧がいたとされている。朝倉貞景の代には奥州の大名が700人を率いて寄宿したとの伝説が残る。当時の寺院は現在の一乗小学校(福井市西新町・上城戸の近く)のあたりにあったと考えられている。一乗谷焼失後、一旦、丹生郡(鯖江市域)に移り、1599年(慶長4年)には朝倉館跡に再興されたが、1601年(慶長6年)、結城秀康の越前入りにともない北ノ庄に移った。朝倉館跡に残された寺は朝倉義景の法名である松雲院殿太球宗光大居士から松雲院と名付けられ心月寺の末寺となった。
  • 伝承遺構
福井県敦賀市の西福寺に阿弥陀堂が移築されたと伝わる。
  • 槇山城

関連作品 

* 赤神諒『酔象の流儀 朝倉盛衰記』(講談社、2018年12月18日)ISBN 978-4-06-514035-2

参考画像 

参考文献 

  • 小野正敏『戦国城下町の考古学 一乗谷からのメッセージ』(講談社選書メチエ、1997年) ISBN 4-06-258108-6
  • 水野克比古『一乗谷朝倉氏遺跡 甦る乱世の夢』(集英社、1989年) ISBN 4-08-598009-2
  • 重森千青「日本の10大庭園」(祥伝社新書)

一乗谷城の口コミ情報

2024年04月10日 百済門徒衆修理大夫とら❖
一乗谷朝倉氏遺跡博物館[一乗谷城  関連施設]



常設展示料金700円で見応え有りました。朝倉館原寸再現は見事な出来です。朝倉氏の文化の高さに驚きました。栄華を極めた一乗谷も戦乱で全て灰燼に帰し、儚さを感じました。朝倉家代々の墓にて手を合わせて帰りました。

2024年03月19日 RED副将軍
一乗谷山城[一乗谷城  周辺城郭]



ご存知、越前朝倉氏の詰め城🏯

日本100名城

1471年に初代当主の朝倉孝景が黒丸館より一乗谷に居館を移したことが始まりと朝倉始末記に記載があります。しかし、南北朝時代には既に本拠地としていた様です。
朝倉氏は孝徳天皇の系譜である日下部氏を祖とする名族であり、但馬国養父郡朝倉荘を領して朝倉氏を称したのが始まりです。
越前守護である斯波氏の足利高経に従い、越前に下向した朝倉広景が越前朝倉氏の祖であり、朝倉広景以降の代々が黒丸館を居城としていました。
守護職の斯波氏が内紛により弱体化する中で、守護代の甲斐氏や織田氏とともに朝倉氏は勢力を拡大。
応仁の乱においては西軍の斯波義兼に従い戦功を上げましたが、1471年に朝倉孝景は東軍に寝返り、越前の守護職が与えられました。
その後、越前から若狭、近江にも朝倉氏は進出しました。
1570年、織田信長の越前侵攻により金ヶ崎城・天筒山城を落とされますが、小谷城の浅井長政が織田信長に反旗を翻して急襲。金ヶ崎の退き口にて織田信長はなんとか退却。
1573年、織田信長は小谷城の浅井氏を攻め寄せ、五代当主の朝倉義景は援軍を出すも小谷城は落城し退却。朝倉義景は朝倉景鏡の勧めで大野城へ退却し立て直しを図ろうとするも、朝倉景鏡の謀反により朝倉義景は自害し朝倉氏は滅亡。
その後、一乗谷城には織田信長の命により桂田長俊が守護代として入城。
しかし、1575年に一向一揆衆の襲撃により討死。
その後、柴田勝家が越前に入部するも北庄城を居城とした為、一乗谷城は廃城となりました。

見所
一乗谷の東背後に聳える標高443mの一乗山に築かれています。
北側の大手からは千畳敷・観音屋敷・宿直・月見櫓として広大な郭群が区画されており、南の尾根筋に一の丸、二の丸、三の丸と連なります。
一の丸から三の丸は堀切で区切られ、側面には2、3mの短い畝状竪堀群が広がります。
千畳敷・観音屋敷が主郭とされ、低土塁で区切られています。奥深い山中とは思えないくらい広い削平地こそが一乗谷山城の最大の見所かと存じます。

行き方は、4つの登城ルートがありますが、朝倉義景館背後の英林塚ルートで登城。比高は約400mで約1時間の登山でした。

2024年03月19日 RED副将軍
一乗谷城



ご存知、越前朝倉氏の本拠地🏯

日本100名城

1471年に初代当主の朝倉孝景が黒丸館より一乗谷に居館を移したことが始まりと朝倉始末記に記載があります。しかし、南北朝時代には既に本拠地としていた様です。
朝倉氏は孝徳天皇の系譜である日下部氏を祖とする名族であり、但馬国養父郡朝倉荘を領して朝倉氏を称したのが始まりです。
越前守護である斯波氏の足利高経に従い、越前に下向した朝倉広景が越前朝倉氏の祖であり、朝倉広景以降の代々が黒丸館を居城としていました。
守護職の斯波氏が内紛により弱体化する中で、守護代の甲斐氏や織田氏とともに朝倉氏は勢力を拡大。
応仁の乱においては西軍の斯波義兼に従い戦功を上げましたが、1471年に朝倉孝景は東軍に寝返り、越前の守護職が与えられました。
その後、越前から若狭、近江にも朝倉氏は進出しました。
1570年、織田信長の越前侵攻により金ヶ崎城・天筒山城を落とされますが、小谷城の浅井長政が織田信長に反旗を翻して急襲。金ヶ崎の退き口にて織田信長はなんとか退却。
1573年、織田信長は小谷城の浅井氏を攻め寄せ、五代当主の朝倉義景は援軍を出すも小谷城は落城し退却。朝倉義景は朝倉景鏡の勧めで大野城へ退却し立て直しを図ろうとするも、朝倉景鏡の謀反により朝倉義景は自害し朝倉氏は滅亡。
その後、一乗谷城には織田信長の命により桂田長俊が守護代として入城。
しかし、1575年に一向一揆衆の襲撃により討死。
その後、柴田勝家が越前に入部するも北庄城を居城とした為、一乗谷城は廃城となりました。

見所
足羽川の支流である一乗谷川流域の谷間に築かれています。
現在は一乗谷朝倉氏遺跡として特別史跡に指定されています。
朝倉義景館を中心として北の谷の入口に下城戸、南の谷の入口に上城戸を設けられており、その1.7kmの内側に家臣の屋敷や寺院などの城下町を形成。
土塁と堀で囲まれた朝倉義景館の背後には一乗山城の詰め城があり、西側が正面口で豊臣秀吉の寄進と伝わる有名な唐門があります。
東側には湯殿庭園と呼ばれる四代当主の朝倉孝景が造営した廻遊式林泉庭園があります。
南西には朝倉義景の母である光徳院の屋敷と伝わる中の御殿があり、その南には朝倉義景の正室とされる小少将の屋敷と伝わる諏訪館があります。
一乗谷川の西側には復原町並として往時の街並みが復元されています。

2023年12月29日 かべ
一乗谷城



雪の中の唐門は、風情があってとても良かったです。朝倉家の霊廟もお参り可能です。ぜひ、蝋燭とお線香を手向けてください。
とても寒かったですが、雲が低く立ち込める幻想的な風景も楽しめました。
雪のため一部入れない場所もありますので、ご注意下さい!

2023年12月07日 弾正少弼和虎
一乗谷城



初めて訪問、復元された町並みがあり唐門からの浅井館跡等散策出来ます。小雨の為山登りは断念しましたが、近くに博物館もあり遺構が見れます

2023年07月30日 備前大納言マサトシ
一乗谷城



きれいに整備されていて見やすいです。バスの本数少なめ要注意

2023年05月06日 百里風★蔵人頭
一乗谷城

他のお城ではあまり見れない感じなので、おすすめです。

2023年05月06日 たぬきち但馬守
一乗谷城



唐門から朝倉氏館跡を通り、高い所から見下ろすとここに一万人もの人が暮らしていた城下町があったんだなと浪漫を感じることができます。復原町並、城下町の守りの要、城戸跡もご覧ください。

2023年05月03日 ドラ宗右馬助
一乗谷城



思った以上に広い範囲で見学でした。綺麗な博物館があって素敵な場所でした。散策しながら回るのもいいと思います。

2023年02月08日 在来線男右京進
一乗谷朝倉氏遺跡博物館[一乗谷城  関連施設]

月曜日は休みです。駐車場は除雪してあり使えます。

2023年01月09日 美濃守可児の戦熊
義景公墓所[一乗谷城  寺社・史跡]

毎日誰かが焼香してるようです。綺麗になってました

2022年09月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
一乗谷川左岸丘陵遺構群ー3[一乗谷城  遺構・復元物]



一乗谷川左岸丘陵遺構群ー3は一乗谷川西岸(左岸)、南北に延びる山塊尾根上、標高296mのピークの一つを中心に遺構が存します。東麓の福井県道238号線、一乗谷朝倉氏遺跡東大味線からの比高は235m位でしょか。

一乗谷川左岸丘陵遺構群については同じ一乗谷城のリア攻めマップにある一乗谷川左岸丘陵遺構群ー1を参照して下さい。便宜上この遺構群は1〜6まで区分されますが、3は古墳群を活用した小郭の集合体で、一部には古墳の土壙・粘土槨が露出しているものも見る事が出来ます。

意図的に墳丘の高まりを活用した事は明白で、要所で古墳間を堀切で遮断、それ以外のはっきりした遺構は特に見られませんが、段郭を構成している箇所も確認出来ます。削平地は少なく、且つ削平面は墳丘を避けているようにも思えます。

戦国時代の初期には越前一国の支配を安定化させる事に成功していた朝倉氏ですが、この遺構群は一乗谷に本拠を置いたとされる文明三年(西暦1471年)からその滅亡まで一乗谷の拠点化を推し進め順次拡張に及んだ結果なのでしょう。外郭としては未完成と言っても過言ではないような気がしますし、その成立を朝倉氏が滅亡した天正元年(西暦1573年)の直前にまで求める事も可能でしょう。

自分が今回訪ねたのは遺構群1〜3まで、それでもリア攻め総時間は4時間となりました。3を訪ねた後、南下して4を訪ねようかと思いましたが、3からは結構下る事になるので、登り返す事を考えたら別の場所から直登した方が早いかなと判断して諦めちゃいました。今はこれを心の底から後悔…知らない土地の誰も登らない山の中を歩き廻る勇気が足りなかった(面倒になった。)です。この根性無しが…

※たぶん福井市深見町の明徳寺付近へ抜けると思われる林道が付いてるのを発見しました。流石に確認するよな冒険はしません(根本的に優雅にイベントを終わらせるつもりで越前入りしたのさ。)が参考までに…往時も一乗谷に至る間道が通っていたとしても不思議ではないんでしょう。

※写真にあるとおり沼田場が散見されます。熊さんは知らんけど猪や鹿の類いは必ずお山に住んでいるので被突進注意です。て事はマダニにも当然注意が必要っす。

※遺構群の内、5と6は旧朝倉街道以南となるのでアプローチは全く異なります。又、かなりハードなリア攻めになるのかなとは思います。

2022年09月23日 【国替準備】国府左京大夫城介
上城戸櫓城[一乗谷城  周辺城郭]



上城戸を監視するための櫓

【歴史】
築城に関する詳細は不明。

【遺構】
上城戸の南にある山の突端(標高100m/比高40m)に築かれている。
曲輪・土塁・堀切が明瞭に残っており、主郭を中心に腰曲輪がある。
堀切は南北にそれぞれあり、南側は尾根からの侵入を、北側は麓から主郭への侵入を防ぐために掘られている。

【感想】
一乗谷の南側に位置していおり、現地地図でも櫓として載っているが、特段整備されていません。そのため、明確な登城方法はありません。基本的に直登していく必要がありますが、南側の斜面は特段藪もないので登りやすいです。(泥濘などがあるので注意して登ってください)

書籍等では上城戸櫓城と記載されていますが、一乗谷城を構成する砦の一つだと思います。この砦の役目は、一乗谷山城から目視することができない上城戸の南側を監視する役目があったと思われます。上城戸の外側には、朝倉氏の家臣団以外が居住しており、足利義昭や斎藤龍興の館もありました。一方で、あくまでも監視するための砦としての機能として、最低限侵入を防ぐ堀切のみを備えただけで、一乗谷山城のような畝状空堀群は備えていません。

【アクセス】
上城戸から徒歩で10分程度で城郭に到達可能。(登城口が見つかれば)

【写真】
①上城戸からの遠景
②上城戸櫓城の南側麓
③南側の堀切
④主郭の土塁
⑤北側の堀切
⑥西側の腰曲輪

2022年09月22日 千葉相模守早雲
一乗谷城



山麓の谷間に屋敷が立ち並び、城下町を形成。公家や僧が多く流れてきて、北ノ京とも呼ばれ栄えました。史料を基に大規模に町並みが復元されていて、当時の雰囲気を味わえます。川を挟み武家屋敷の向かいには朝倉氏館や庭園が並んでいます。

山城リア攻めもいいですが、たまには当時の雰囲気を感じながら、館跡や武家屋敷を眺めて歩くのもオツなもんです😁

1.狭い谷間に城下町を形成。
2.武家屋敷。
3.整然とした町並み。
4.至る所に石積みが残る。
5.諏訪館跡。
6.朝倉氏館跡。土塁と水堀で防御。

2022年09月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
一乗谷川左岸丘陵遺構群ー2[一乗谷城  遺構・復元物]



一乗谷川左岸丘陵遺構群ー2は一乗谷川西岸(左岸)、南北に延びる山塊尾根上、標高296.9mのピークの一つを中心に遺構が存します。東麓の福井県道238号線、一乗谷朝倉氏遺跡東大味線からの比高は240m位でしょか。

一乗谷川左岸丘陵遺構群については同じ一乗谷城のリア攻めマップにある一乗谷川左岸丘陵遺構群ー1を参照して下さい。便宜上この遺構群は1〜6まで区分されますが、2は旧朝倉街道以北の遺構群としては最も高位標高に位置します。

福井市一乗小学校裏から直登すると最初に辿り着く遺構群です。この遺構群の中では最も纏まりが良く、かなりの面積を持つ削平地の存在からか誰でも砦感を簡単に感じ取れると思います。越前中世城郭図面集Ⅱでは削平が甘いとの記述がありますが、貧乏感MAXの信濃の山城に比べたらそりゃぁもう比べ物にはなりませんわ…びっくりするのは外郭遺構のくせに写真に収めるのが大変難しいぐらいの巨大堀切を持っている事でして、朝倉氏の偉大さを誰でも強制的に見せ付けられる事でしょう。古墳の残る(おいらは判らなかった。)削平地の南西側にも大堀切が1条、これにはほっそりした土橋君なんかも付いてますね。

何処までがこの遺構群の範囲なのかは難しいところなんですが、立地から単純に外郭としての中核を担っていたように思えます。越前中世城郭図面集は縄張に対して結構厳しい判定をしていますが、周辺は他にも城郭遺構と判定出来る幾つかの削平地を持っていたりもします。ただ縄張図にある福井市一乗小学校からの登山道途中で確認出来る小堀切1条と削平地は逆に判定の難しいところだと思います。

道形はほぼ消滅してるけど尾根筋に出れば苦労はそんなにしないと思います。遺物から朝倉トレイルランのコースだったみたいだけど、今年も10月16日に開催するらしいので遺構を楽しみたい城好きな方は走らない方向で途中棄権して調整すればOK♪じゃないかな…

2022年09月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
一乗谷川左岸丘陵遺構群ー1[一乗谷城  遺構・復元物]



一乗谷川左岸丘陵遺構群ー1は一乗谷川西岸(左岸)、南北に延びる山塊尾根上、標高約211mのピークの一つを中心に遺構が存します。東麓の福井県道238号線、一乗谷朝倉氏遺跡東大味線からの比高は170m位でしょか。

単純に言えば朝倉氏が本拠を置いた一乗谷の西方山塊に、東郷槇山城を北限とし、東西に走る旧朝倉街道を越えた三峰山城を南限とする南北に延びる尾根筋を中心に設けられた外郭遺構です。越前中世城郭図面集Ⅱ(極めてリーズナブルな良書っす。)に掲載があり、便宜上この遺構群は1〜6まで存在しますが明確な区分自体は持たないと思います。一乗谷の守りは西方で不安を抱えている(大軍の通行は不可能かもしれないが、福井平野からの侵入を容易とする。)と考えられますので、難しい事は抜きにしてこれに対処する前哨、警戒線の役割なのでしょう。

整備が進んでいる一乗谷朝倉氏遺跡群ですが、この遺構群に関しては全くの未整備、過去にはこの尾根筋に道が付いていたようだけど今は踏み跡さえ殆ど残っていない。が、この遺構群の中では最も北寄りに位置する1はGoogleマップに位置登録されている槇山(東郷)城跡・入口から遊歩道を使えば容易に辿り着ける。明確な範囲は特に無く、自身で位置を確認しなくてはならないので登山系アプリは必須でしょう。

遺構群は技巧的なものは持たないけど、尾根筋に展開する堀切の数は相当なもの。この1も尾根上のピーク(八地山古墳の一部なのかな。)を中心にして小規模なものから大規模なものまで数条の堀切を持ち、少人数ながら人の常駐を窺わせる番所機能を有していたように思える。又、一乗谷から東郷槇山城への連絡も確保される。

おいらにとってはなんせ知らない土地だし、正直不安だらけだったので情報をネットで探しまくったんですが全くヒットしない…縦走に使えそうな福井市一乗小学校の裏から延びる登山道を地図上で確認したけど道形すら既に最初から消滅、結局尾根上に出るまでは結構な藪の中を直登するはめに…観光客で賑わう一乗谷を尻目にアドベンチャーを体験したい方は訪ねてみるがいいさ。それからデカい百足(こいつ人類が永遠に友達になれない最たる生き物だと思う。)が沢山住んでます。

※越前中世城郭図面集掲載の位置図の範囲からやや外れているのだが…

2022年09月09日 尼崎城阿波守一口城主
一乗谷城



[一乗谷朝倉氏遺跡散策編]9月3日、一乗谷駅から遺跡に向かい散策。まず月見やぐら展望所から周囲を見渡してみました。当日は雨が降ったり止んだりする日だったためか山にモヤが掛かり良い雰囲気が出ていました。復元町並みから小川を渡り、諏訪館跡庭園、湯殿跡庭園、南陽寺跡庭園を散策したり、初代孝景公墓所(英林塚)、五代義景公墓所にお参りしました。散策中青紅葉のところがありましたが紅葉の時期🍁はさぞ綺麗な景色になるのだろうなと思われます。
在りし日の朝倉氏の繁栄が感じられる優雅な遺跡でした。今回の登城で色々とリサーチ出来たので、次回は新資料館の入館と一乗谷城の登山をしにまた訪れたいと思います。

2022年09月09日 尼崎城阿波守一口城主
一乗谷城



[進軍編]9月3日、九頭竜線の一乗谷駅で下車し、まず近くにある一乗谷朝倉氏遺跡資料館に向かいました。当日は一乗谷駅到着時間が15:11と遅かった為、リア攻めと御城印、武将印集めと次回の城山登山のリサーチ目的で当地にお邪魔しました。次回予定している一乗谷城の登山について資料館の方に尋ねたところ馬出しコースがお勧めとのことでした。
資料館を出て、10/1にオープンする新資料館を眺めて復元町並み方面に向けて出発しました。西山光照寺跡の石仏を眺めながら歩んでいるとタイミングよく九頭竜線の列車がやって来ました。結構、史跡の近くを走っていました🛤進軍を再開していくと朝倉氏が戦の時に必勝祈願をしていたという春日神社がありました。さらに進んで行くと城戸がありました。急に巨石の入口がドーンと現れて迫力がありました。
復元町並みの受付で御城印・武将印を購入し遺跡を散策しました。

2022年08月23日 左衛門督源氏嫡流末裔@狗鷲
一乗谷城

のどかで良い場所ですし、復元街並はなぜか懐かしい気持ちになるような、そんな風景でした。
夏に訪れる際の注意点です!暑いですし、最寄駅からは結構歩きますので、熱中症対策と水分補給の準備は怠らないようにお願いします。

2022年05月29日 七星屋伊賀守黒龍
一乗谷城



山城(一乗城山473.58m,三の丸に基準点)。2022.5現在は下城戸、三万谷、馬出、英林塚の4つのルートが可能ですが初心者でなくとも馬出ルートがオススメ。往路馬出、帰路は英林塚で散策しました。英林塚は急登、泥濘み、岩登、沢登、沢越あり。どちらも前日降雨なら再考すべし。でも畝状竪堀、堀切、宿直跡の眺望は最高でした!滑りにくく防水の靴とクマ鈴が必須、しっかり準備して登城してくださいね。

2022年05月22日 しぇるふぁ加賀守
三峯城[一乗谷城  周辺城郭]



太平記に登場する山城です。鯖江市史跡に指定されています。「三峯城保存会」という地元の城郭整備保存会が設立されており、2022年2月にはその保存会が作成した三峯城紹介パンフレットの配布を鯖江市北中山公民館で行っており、私もゲットしてきました。ちなみに、webパンフレットとしても公開されており、遠くて現地に来れない人でも鯖江市公式サイト内に北中山公民館公式ページからみることができます。また、同年4月から御城印の販売も実施されています。

駐車場は、県道25号の上戸口トンネル付近にある「刀那清水」と呼ばれる湧泉地そばの無料駐車場があります。ただし、城跡頂上まで徒歩1時間かかりましたので、時間短縮したい人は城跡付近まで続いている林道に入って三峯村跡にある無料駐車場の利用が効率的です。ただし、林道は倒木落石で荒れ放題でしたのでボディがキズキズになることを覚悟して下さい。城跡頂上には「三峯城址 脇屋義助守戦之地」と書かれた石碑と案内板が設置してあります。また、ここから一乗谷を一望できます。

【三峯城の歴史について】
案内板ならびに保存会のパンフレットによると、もともとは斯波高経を首領とする北朝方に味方していた平泉寺僧兵でしたが、1337年(延元2年)にに新田義貞らが率いる南朝方に寝返り、この三峯城に入城しました。これを受けて、新田義貞は弟である脇屋義助を三峯城に派遣し、防衛にあたらせたとされます。しかし1340年(暦応3年)に三山重行に攻められ、落城しました。戦国時代になると、一乗谷城の支城として活用されています。

2022年04月03日 すぎすぎ修理大夫
一乗谷城



復元された町並みや館は、すぐにいけますが、城址は山の上なのでご準備を。

2022年03月23日 ほむら「近江守
一乗谷城



見どころいっぱい。天守とか派手なのはありませんが、街並みも復元され、石垣や堀、館の配置など、すごく良かったです

2022年01月31日 びーたろ尾張守
一乗谷城

雪の一乗谷城に行きましたがすごく綺麗な日本庭園でした、また山頂まで色々あるみたい次回は山頂まで行ってみたいです

2021年09月28日 図書頭桜姫
一乗谷城



2時間近く佇む。彼岸花が咲き始め人影少なく哀愁漂う。程よい荒廃が、寂寥感を伴う。全部本当は埋まっていたんだな〜と考えると、発掘展示センスに脱帽。唐門のみが、逆に良い。山谷に囲まれ、堀が巡り、良い所だった。黄昏時に行った事もよかったかも。また来たい。

2021年08月07日 骨皮ガラしゃ淡路守しば姫
一乗谷城

整備が進んでいて、とても綺麗だった。戦国時代の城下町の生活がみえててくるようで、良かったです。

2021年07月09日 さすらいライダー
一乗谷城

雨の中、散策してきました。谷に入って感じたのは、左右の山の高さと谷間の平坦な部分のバランスがちょうどいい、また、川の位置も絶妙で、いつまでも見ていたいと感じる風景でした❗️もと田んぼと畑で人、家がないのもいいのかもしれません。武家屋敷の遺構もきれいに整備されていました。

2021年06月10日 Yana中務大輔
一乗谷城

庭園側から山城を目指しました。こちらはぬかるみが多く、馬出しルートの方がオススメです。どちらも険しい道には変わりありません。三の丸の堀切の奥に一乗城山の看板があります。御城印とスタンプは復元町並の南の入り口にあります。明智神社は通りを南に進み峠を越えた東大味にありました。

2021年03月15日 宮内卿ピロシキ
一乗谷城



英林塚ルートで山城を登りました。
登り初めてすぐ、後悔しました。

こんなとこ登るのは自分だけだろうと思ったら、ハイカーの方たちがたくさんいました。

しかし、川を横切る道だとか聞いてないし。
むしろ、川の中を歩くし。
ストックがないと確実にコケます。
資料館の方がテレビで長靴履いてるのが理解できました。

2020年12月12日 次郎法師
一乗谷城

一乗谷復原町並に御城印三種(通常、光秀、アマビエスタンプ付き)がありました。一枚300円也

2020年12月12日 次郎法師
福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館[一乗谷城  関連施設]

名城スタンプは、こちらの窓口にあります。

2020年11月25日 曲輪衆三河守名古屋のリラン
一乗谷城



一乗谷城は豊富な水を利用した豊かなたたずまいであったこと、先ず着いてから、あれだけ心地好さを感じたのはここがはじめて、何故ここにあったかわかる気がしました。

2020年10月18日 飛騨守勘助
一乗谷山城[一乗谷城  周辺城郭]

一乗谷山城を馬出し登山口から攻めたのですが、なかなか攻め甲斐のある山城でした!しっかりした靴とストックの準備をオススメします。天候が良ければ日本海が見えるとの情報です。私は拝めず😭

2020年09月20日 大政相模守歳三
一乗谷城



ちょっと山を登ると朝倉氏館跡が一望できます。

お墓もあります。

2020年08月29日 長浜城年間王者!引退大学頭
一乗谷城

凄くのどかな所でした。駐車場も無料です。御城印からマンホールカードまで有りますw

2020年06月17日 野呂利左衛門督休三
明智神社[一乗谷城  寺社・史跡]



一乗谷時代の明智光秀が住んでいた場所と言われています。三女の玉(ガラシャ)が生まれた場所とも伝承されています。
周辺には光秀含め三人の屋敷があったとされ、また、一乗谷の出城もあったと伝承されているそうです。
字名は土居の内というそうで、明治になるまではそこに住む三件の家が神社を守り毎年の法要を行っていたそうです(現在は地域で行われている)。御神体は黒塗りの光秀像とのことで、すぐそばの資料展示室に写真があります。

光秀夫妻の夫婦仲からとハート型の苔から恋愛スポットともされてきているようです。

近くの東大味公民館のはす向かいに臨時駐車場、同公民館敷地に公衆トイレが設けられています。

2020年06月09日 越前守cxbx110
御所・安養寺跡[一乗谷城  遺構・復元物]

足利義昭が朝倉義景を頼って一乗谷を訪れた際に居住していたと言われているところです

2020年03月30日 美濃守ヒーロー
小見放城[一乗谷城  周辺城郭]



馬出ルートから一乗谷山城へ至る途中に小見放城があります。砂防ダムを越えて直ぐ木板の案内図が有りそこからでも堀切が見え右の高い小山が城跡です。

稜線を遮断する堀切、小山の頂部には土塁が一部囲み、麓の方向へ続く段々の曲輪に高い切岸など中々の見応えでした。近くには小城と呼ばれている城跡もあるそうです。

一乗谷山城の支城の一つとも言われてます。

登城路は勾配がキツ目な場所や雨の翌日には泥濘のトラップもありますので装備万全で楽しんでください^ ^

2019年08月12日 奥州王征夷大将軍毘沙門天乱丸
一乗谷城



一乗谷駅から大きな道路左側すぐ歩いて5分弱福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館で無料レンタルサイクル(変速)有り
そこから15分ほどで百名城スタンプのある復原武家屋敷に着く
そこに自転車を駐車し一乗谷朝倉氏遺跡まで歩いてすぐです。
バスも頻繁に来てましたので調べてみるのもいいでしょう。
帰りは下り坂なので10分ほどで返納できます。

2019年05月23日 ケンさん
一乗谷城

山城に登りました。雨が降った直後だったからか滑り易くトレッキングシューズでないと下りは苦労すると思います。

三の丸の入り口の案内板にこれ以上入るなとの文言。踏み跡は先に続いていましたが。引き返しました。途中、鳥の警戒する声や獣の気配など感じられ、熊注意の看板は大袈裟ではないようです。

ただ登り一辺倒ではなくところどころに平坦なところもあるのでそこまできつくありません。また要所要所に道標があったり赤テープが木にぶら下がっています(登山では正規ルートの印)のでわかりやすいです。それなりに体力があり軽登山の装備があれば大丈夫です。見学時間も含め往復で2時間弱でした。

一乗谷レストラン横にある事務所で縄張り図をいただけます。城そのものは麓から曲輪らしきものが散見。支城もありスケールの大きさを実感できます。

公共交通機関を利用するなら土日ですね。福井からのバスは増便するし麓の遺構内にシャトルバスが走ります。

2019年05月14日 陸奥守たろす420九州断念
月見櫓跡[一乗谷城  遺構・復元物]



月見櫓跡(宿直曲輪から望む)◆宿直曲輪の東側に位置し、千畳敷、観音屋敷、宿直曲輪等の曲輪群を囲む土塁の先端にもあたる

2019年05月14日 陸奥守たろす420九州断念
畝状竪堀群[一乗谷城  遺構・復元物]



畝状竪堀群◆一乗谷城山上のほぼ全周を防御する、(某書によれば)ハリネズミのように構築されたおびただしい畝状竪堀群◆畝状竪堀群は一乗谷城の大きな特徴でもある。現在は草木や土砂で多くが確認しづらい状態であるが、千畳敷から尾根を隔てた位置の畝状竪堀群は非常に良い状態で見ることができた

2019年05月04日 ピラいち関白
一乗谷朝倉氏遺跡資料館[一乗谷城  スタンプ]



開館時間:9時〜17時
レンタルサイクル(無料)があります。

2019年05月04日 信州左衛門佐克幸
一乗谷城



ホントに素晴らしい所でした!大自然とやり過ぎていない整地。空気も美味しいし、言うことなしです!!(この後、天守跡に向かい地獄を見るのですが 笑)

2019年04月29日 眞田左衛門佐十兵衛
三の丸跡[一乗谷城  遺構・復元物]



1時間ちょっと掛かって、三の丸跡まで来ました
ここが行き止まりです

2017年10月09日 織田上総介晃司
一乗谷城

駐車場は復元町並みにあります。

朝イチに訪ねたので復元町並みは開いてなく、人もいませんでしたが、それがかえって滅ぼされ、破壊された一乗谷の「もののあはれ」は感じる事ができました。
更に前日の雨で朝霧が立ちこめ、えもいわれぬ景色でした。

福井ICからも近く越前大野城に行く途中、時間をとって是非とも訪ねてみてください。

2017年09月16日 KAZ中納言正勝
一乗谷城

まずは、朝倉氏遺跡資料館で資料集め!
んで…ゆし!いざ山城へ!(^O^)/
車で移動してると…おっと!
下城戸をスルーして後戻りσ(^_^;)
今度こそ!って公園センターに車を止めて
センター裏の橋を渡ると…
ん?どっち(・・?)
案内は何もありませんでしたσ(^_^;)
橋を渡って左に行ってください。
地図では八幡神社を目指すのかなー?と
なってますが、なーんにも見えません
民宿の陣屋さんを通り過ぎて分かれ道を
右!右!って歩くとやっと鳥居が見えます
そこからは迷う事は無いと思いますが…
雨の日は辞めた方がイイっす!
登山道が数カ所小川になってました(>_<)
しかも、本格的登山靴でもメッチャ滑って(>_<)

僕は健脚ですので(//∇//)参考程度に
センターから三の丸まで1時間
同じ道を降って40分
唐門→義景公墓所→孝景公墓所→復元町並
まで全行程は4時間でした(≧∀≦)


2017年01月13日 蒼月☆
一乗谷城

100名城スタンプ:復原町並は年末年始(1/4まで)は閉鎖、かわりに一乗谷朝倉氏遺跡資料館にあり。要注意。

2016年07月24日 カーネル
一乗谷城

九頭竜線一乗谷駅を背に歩き、すぐの県道で右へ行き、線路と平行に歩き県道18号で南下する
途中に案内の看板多数あり、これを頼りに八幡神社を目指し、神社の右の林道を5分くらい進むと登山口があります
ダムの堤体を超えるとあと1kmの文字。ここから千畳敷まで傾斜がきつくなります
初めて来たときはスーツ革靴でチャレンジ。落ち葉の上に雪が積もり滑って登れず、30分くらい格闘して引き返したのを思い出しました
千畳敷から緩やかになり、1ノ丸、2ノ丸を超えて3の丸まで行き引き返しました
麓の朝倉義景館をさらっとみて駅に戻ると2時間半。2回目なのでハイペースで歩きました。ゆっくり見るなら4時間くらいは

歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです


2016年06月13日 野呂利左衛門督休三
一乗谷城

資料館の西にある一乗谷あさくら水の駅でもレンタサイクルできます。こちらも預かり金1000円ですが電動自転車を借りることができます。
一乗谷あさくら水の駅では食事もできます。

一乗谷あさくら水の駅の西に足羽川を渡る天神橋があります。北に渡ってすぐの交差点にローソンがあり、その前に京福バスの大野線の天神停留所があります。平日で1時間に一本程度(土日は一乗谷経由の便がある分減る)でJRより割高ですが、九頭竜線に乗り損ねた場合は一顧の価値はあると思います。


2016年05月12日 安田宮内卿秀俊
一乗谷城

再現町並みは入場料200円ほどですが、その中では鎧兜などのレンタル衣装(500円)があります。気軽に鎧武者になれるので戦国時代の雰囲気を楽しめます


2016年04月04日 かげちゃん参號
一乗谷城

朝倉氏館跡の桜は、ほぼ満開でした。所々で花見を楽しんでいた観光客もちらほら、
ガイドのおじさんたちが、2、3人の観光客に遺跡の説明をしていました。
多分、朝倉宗滴さんや義景さんたちも草葉の陰で花見酒を楽しんでいたと思います。

2016年02月23日 まるき〜出雲守
一乗谷城

一乗谷城、道路を挟んで向かい側
復原町並の入場料は210円
南へ2キロ程離れた場所にある
一乗谷朝倉氏遺跡資料館の入場料は100円

復原町並と資料館との共通券は
230円とお得です。

資料館では
「戦国大名朝倉氏一族と重臣のくらし」
が3月22日まで

資料館の近く県道31号線は河川工事していて交互通行になってるようなので気を付けてお通り下さいね〜。


2015年10月09日 野呂利左衛門督休三
一乗谷城

一乗谷川西側の月見櫓跡が木製階段ができて登れるようになりました。復元町並や館跡を見下ろせます。
復元町並のすぐ北の階段の見えるところかそれです。
結構急ですので昇降にはご注意を。

2015年09月06日 ソバッソ80.0
一乗谷城

屋敷跡観光のつもりが、テンション上がって山城攻めへ。

駐車場の売店でクソデカい地図(100円)を買う。そして水分は余分に持つ。トレッキングシューズ着用。
荷物が多くてストレスですが、あった方がいいっす。

我々は158号線から、林道に入れる小道(入って大丈夫なの?大丈夫だよね?大丈夫!)から車で城山に最も近い駐車場まで行き、そこから登城開始。そう、ヘタレたんです。

大体一乗谷城までハーハー20分はキッツイ登り。看板出てくるまで一本道やし迷わないっす。
後は看板に従って山城攻めをご堪能あれ。ゆっくり見て回って一時間くらいかなー。

遺構はしっかり残ってます。切り岸からの食い違い虎口からの竪堀からの横堀。城は人をいかに効率良く殺めるかを計算して作ってあるかを体感出来ます。
でも、夏の草ボーボーのタイミングやったんで、竪堀が見つけにくかったっす。行くなら少し涼しい時期がいいと思います。(山城は大体そうよね。夏に登る僕はバカです。)

屋敷跡からやと城山まで一時間くらいらしいっす。猛者はそちらから。あ、今気付いた。唐門やら屋敷跡の写真撮ってないわ。

2015年07月04日 野呂利左衛門督休三
一乗谷城

一乗谷朝倉氏遺跡資料館と復元町並で自転車を借りることができます(預かり金1000円)。資料館は大人用と子供用が5台、復元町並は10台(うち5台が電動)借りた場所に返却なので、電車で日帰りの方は資料館で借りる方が便利でしょう。

民宿が一軒あります。民宿陣屋という宿でじゃらんや楽天トラベルなどからも予約できます。両サイトからは素泊まり5300円か朝食付6300円(ともに税別)。夕食は別途相談。事前にお電話を。
なお、周囲に飲食店は非常に少ない上、終業時間が非常に早いです。
谷の遺跡(ここだけでお腹いっぱいになるが)だけでなく山城、周囲には支城や佐々木小次郎が修業した一乗滝(「一位になりたい」CMのロケ地)もありますので、深く回りたい場合は拠点にすると良いでしょう。

2015年07月03日 永眠武蔵守釋 葱進
一乗谷城

土休日は遺跡エリアのシャトルバスや永平寺行きのバスもあり、そこそこ交通の便は確保されますが、平日は二時間に一本ほどの路線バスとほとんど無いに等しいJR線しかなくかなり不便です。
一乗谷駅や資料館と復原町並のあいだは2キロほど、途中の道のりにも見所が多くあるので片道だけでも歩くことをおすすめします。(復原町並→資料館・一乗谷駅のほうが下り坂なので楽かも)



2014年12月01日 徳川内大臣源朝臣康武
一乗谷城

一乗城山上の詰の城は、最近道標や説明板が新しく立てられました。
一乗谷側からの登山口は現在2ヶ所、山城まで一時間~一時間半かかります。一方、林道美山線経由で車で途中の三万谷登山口まで登ることもでき、そこからだと30分程度で一ノ丸下に着きます。
一ノ丸の西下に千畳敷や宿直跡など、比較的広い空間の曲輪群が段々とあり、礎石建物や桝形(石垣あり)が認められ、宿直跡からの福井平野を見る眺望は絶景です。ただ、一乗谷自体は城山の影になり見えません。
千畳敷、一ノ丸から城山頂上に向けて二ノ丸、三ノ丸と一乗城山の尾根筋上に連なり、曲輪間や他方の尾根とは堀切で区切られています。周囲には、これでもかっ!ってばかりに、びっしりと畝状竪堀群が廻らされ、現在もよくわかります。


2014年04月13日 尾張守ひろっちぃ
一乗谷城

電車一乗谷駅を利用しましたがかなり本数が少なく時間を気にしながらの遺跡散策でした国道にそって遺跡が続いておりスケールが大きく見所が満載です

2012年12月18日 中務卿一之介
一乗谷城

ほぼ完全な状態で発掘された町並跡に佇んでいると、当時ここで暮らしていた人々の声や気配を感じるようです。当初の予定以上に滞在しましたが、まったく飽きることがありませんでした。
行ったのは、まだこのサイトができる前のことで、訪れる人も多くありませんでした。また近々行ってみたいです。某携帯電話会社のCMのロケ地だったので、今はもっと人が多いかもしれませんが。

2011年05月03日 三河守コーキしゃん
一乗谷城

下城戸の出入り口は枡形状で使用している巨石は大きくて迫力あります一乗谷城の主郭部は竪堀など見所満載ですが登るのが大変です

2010年08月08日 傾奇揚げ仙兵衛
一乗谷城

城の高台からの展望好きには物足りない。何とかと煙は高い場所が好き。

一乗谷城の周辺スポット情報

 朝倉館跡 唐門(遺構・復元物)

 宿直跡(遺構・復元物)

 二の丸跡(遺構・復元物)

 三の丸跡(遺構・復元物)

 一の丸跡(遺構・復元物)

 千畳敷跡(遺構・復元物)

 不動清水(遺構・復元物)

 磨崖仏(遺構・復元物)

 下城戸跡(遺構・復元物)

 上城戸跡(遺構・復元物)

 瓜割清水(遺構・復元物)

 湯殿跡庭園(遺構・復元物)

 諏訪館跡庭園(遺構・復元物)

 月見櫓跡(遺構・復元物)

 畝状竪堀群(遺構・復元物)

 堀切(一の丸と二の丸間)(遺構・復元物)

 堀切(二の丸と三の丸間)(遺構・復元物)

 堀切(三の丸南側)(遺構・復元物)

 空壕(遺構・復元物)

 御所・安養寺跡(遺構・復元物)

 朝倉館跡庭園(遺構・復元物)

 復元町並 武家屋敷(遺構・復元物)

 南陽寺跡庭園(遺構・復元物)

 朝倉景鏡屋敷跡(遺構・復元物)

 権殿(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 一の丸下の竪堀(遺構・復元物)

 畝状竪堀(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 三の丸畝状竪堀(遺構・復元物)

 三の丸畝状竪堀(東)(遺構・復元物)

 三の丸堀切(遺構・復元物)

 竪堀(遺構・復元物)

 曲輪(遺構・復元物)

 畝状竪堀(遺構・復元物)

 一乗谷川左岸丘陵遺構群ー2(遺構・復元物)

 一乗谷川左岸丘陵遺構群ー3(遺構・復元物)

 一乗谷川左岸丘陵遺構群ー4(遺構・復元物)

 一乗谷川左岸丘陵遺構群ー5(遺構・復元物)

 一乗谷川左岸丘陵遺構群ー6(遺構・復元物)

 一乗谷川左岸丘陵遺構群ー1(遺構・復元物)

 一乗城山 馬出ルート(登山口)(碑・説明板)

 浄覚寺(碑・説明板)

 富田勢源道場跡(碑・説明板)

 朝倉街道(大手道)(碑・説明板)

 小見放城(周辺城郭)

 一乗谷山城(周辺城郭)

 三峯城(周辺城郭)

 小城(周辺城郭)

 上城戸櫓城(周辺城郭)

 義景公墓所(寺社・史跡)

 明智神社(寺社・史跡)

 西山光照寺跡(寺社・史跡)

 朝倉神社(寺社・史跡)

 西蓮寺(寺社・史跡)

 盛源寺(寺社・史跡)

 明智神社(寺社・史跡)

 一乗谷朝倉氏遺跡復原町並(御城印)

 復原町並 入口北(スタンプ)

 復原町並 入口南(スタンプ)

 一乗谷朝倉氏遺跡資料館(スタンプ)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 一乗谷レストラント駐車場(駐車場)

 明智神社 臨時駐車場(駐車場)

 一乗谷朝倉氏遺跡資料館 駐車場(駐車場)

 一乗谷山城・三万谷ルート駐車場(駐車場)

 英林塚(関連施設)

 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館(関連施設)

 一乗谷山城・三万谷ルート登城口(関連施設)

 一乗谷朝倉氏遺跡博物館(関連施設)

 月見櫓展望所(その他)

 朝倉ゆめまるくんマンホール(その他)

 旧朝倉街道入口(その他)

 下城戸ルート登山口(その他)

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