江戸城(えどじょう)

江戸城の基本情報

通称・別名

江城、千代田城

所在地

東京都千代田区千代田

旧国名

武蔵国

分類・構造

輪郭式平山城

天守構造

層塔型?[5重5階地下1階?/1607年築/解体(改築)]、独立式層塔型[5重5階地下1階/1623年再/解体(改築)]、独立式層塔型[5重5階地下1階/1635年再/焼失(火災)]

築城主

太田道灌

築城年

長禄元年(1457)

主な改修者

徳川家康、秀忠、家光(江戸期)、宮内省、宮内庁(明治以降)

主な城主

太田氏、北条氏(戦国期)、徳川将軍家(江戸期)、天皇家(明治以降)

廃城年

遺構

曲輪、櫓、門、石垣、土塁、横堀(水堀・空堀)

指定文化財

国重要文化財(桜田門、田安門、清水門)、国特別史跡(江戸城跡)

再建造物

富士見櫓、伏見櫓、多聞櫓、桜田巽櫓、和田倉門、石碑、説明板

周辺の城

日比谷見附(東京都千代田区)[1.5km]
北町奉行所(東京都千代田区)[1.5km]
牛込見附(東京都千代田区)[1.6km]
市ヶ谷見附(東京都千代田区)[1.7km]
南町奉行所(東京都千代田区)[1.8km]
赤坂見附(東京都千代田区)[1.8km]
虎ノ門見附(東京都千代田区)[2.0km]
牛込城(東京都新宿区)[2.0km]
馬込勘解由屋敷(東京都中央区)[2.1km]
四谷見附(東京都新宿区)[2.1km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

21 江戸城

設置場所

楠公休憩所[地図
和田倉休憩所[地図
北の丸公園第三駐車場[地図

江戸城の解説文



江戸城(えどじょう)は、東京都千代田区千代田(武蔵国豊嶋郡江戸)にあった日本の城。江戸時代は江戸幕府の政庁および徳川将軍家の居城だった。明治時代以降は皇居となっている。

千代田城(ちよだじょう)及び江城(こうじょう)が別名として知られている。

概要 

現在の江戸城の前身は、1457年に麹町台地の東端に扇谷上杉家の家臣太田道灌が築いた平山城である。1590年に徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城となり、江戸幕府が開幕すると、大規模な拡張工事が、特に慶長期のおよそ10年の間に集中的に行われ、またその後も2度ほど拡張工事が行われ、総構周囲約4里 と、日本最大の面積の城郭になった[1]。およそ260年にわたり、幕府の政庁、15代におよぶ徳川将軍およびその家臣団が政務を行う場所となった。将軍は江戸城内に住み、将軍の家族女性らが住む大奥も設けられた。将軍の補佐役の老中やその下の若年寄などは月番制つまり月替わり制でそれぞれ数名が担当し、江戸城周辺の屋敷から日々登城(出勤)した[2]

江戸城に出勤する役方と呼ばれる人々は老中や若年寄以外にも目付、奉行、小姓等々もいた。また江戸城には番方と呼ばれる警護・警備の仕事をする人々も必要で、一日を3分割して3交代制で勤務した。それらを合算すると日中の江戸城には五千人ほどの男性が常駐していたと推算され、さらに大奥には約一千名ほどの婦女子がいたと推算されるので、時間帯により人の出入りや増減はあるにせよ日中は六千名ほどが江戸城内にいたと推算される。

1868年(慶応4年) 3月、戊辰戦争で優勢となった新政府の東征軍が迫る中、幕臣・勝海舟と東征軍参謀・西郷隆盛の会談により江戸城への総攻撃が中止された[3]。江戸開城により徳川家は江戸城から退出し、代わりに東征軍大総督有栖川宮熾仁親王が入城した[4]。そして、京都から明治天皇が行幸した折の居所「皇居」となり、短期間だが東京城と改名され[5]、その後は皇居、宮城(きゅうじょう)として使われている(東京奠都)。現在は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある江戸城の中心部であった天守閣・本丸・二ノ丸・三ノ丸の跡一帯は、宮内庁の管轄下にあり、書陵部・楽部の庁舎などがあるが、皇居東御苑として、宮中行事に支障のない限り一般にも公開されている[6][7]。平成以降、皇位継承に伴う重要儀式「大嘗祭」の会場である「大嘗宮」は、本丸の跡地に設営されている[8][9]。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は、環境省所管の国民公園として開放されている[10]

城跡の一部は国の特別史跡に指定されている[11]

歴史 

築城まで

江戸(武蔵国豊島郡江戸郷。現在の東京都区部の一部)は、元来、西に平川(日本橋川の前身で日比谷入江に注いだ)、東に神田山(駿河台)に挟まれた地を指した。浅草方向へ向かう古代の東海道(常陸国へ至る)が平川河口部を通過していた。

この地に最初に根拠地を置いた武家は江戸重継で、この地名を名乗りとした。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて江戸氏の居館は、後世の江戸城と同じ位置(麹町台地東端)に置かれたとの説がある。

これに対し、歴史学者の山田邦明は、江戸氏の居館は名乗り通りに豊島郡江戸郷内であり、後世の江戸城が築かれたかつての荏原郡桜田郷に存在することはあり得ないと論じた。山田は館の所在地を現在の水道橋付近と推定した。

なお、桜田郷に関しては室町時代前期の応永30年(1423年)に江戸氏一族である江戸大炊助重継が「武州豊嶋郡桜田郷」の土地売却を巡って訴訟を起こしていることから、鎌倉時代以降の江戸氏の発展によって江戸郷に隣接する桜田郷も江戸氏の支配下に置かれ、その後桜田郷が豊島郡の一部として認識され、更に江戸郷を中心とした「江戸」の一部になったと推測されている。

築城

15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落し江戸郷・桜田郷から退去したのち、扇谷上杉家の上杉持朝の家臣である太田道灌が、享徳の乱に際して康正3年(1457年)に、江戸城を後世と同じ位置に築城した。江戸幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめとされる。

道灌当時の江戸城については、正宗龍統の『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』や万里集九の『梅花無尽蔵』によってある程度までは推測できる。それによれば、「子城」「中城」「外城」の三重構造となっており、周囲を切岸や水堀が巡らせて門や橋で結んでいたとされる(「子城」は本丸の漢語表現とされる)。『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』によれば道灌は本丸に静勝軒と呼ばれる居宅を設け、背後に閣を築いたという。『梅花無尽蔵』は江戸城の北側に菅原道真が祀られて梅林があったことが記されている[12]

道灌が上杉定正に殺害された後、江戸城は上杉氏の所有するところ(江戸城の乱)となり、上杉朝良が隠居城として用いた。ついで大永4年(1524年)、扇谷上杉氏を破った後北条氏の北条氏綱の支配下に入る。江戸城の南には品川湊があり、更にその南には六浦(金沢)を経て鎌倉に至る水陸交通路があったとされていることから、関東内陸部から古利根川・元荒川・隅田川(当時は入間川の下流)を経て品川や鎌倉へ、水運では後世で言う江戸湾(東京湾)から太平洋の外洋に向かうための交通路の掌握のために重要な役割を果たしたと考えられている。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の際に開城。秀吉によって後北条氏旧領の関八州を与えられた徳川家康が、同年8月朔日(1590年8月30日)、駿府(現在の静岡市)から江戸に入った。一般に言われる話では、そこには、道灌による築城から時を経て荒れ果てた江戸城があり、茅葺の家が100軒ばかり大手門の北寄りにあった、とされる。城の東には低地があり街区の町割をしたならば10町足らず、しかも海水が入り込む茅原であった。西南の台地はススキ等の野原がどこまでも続き武蔵野に連なった。城の南は日比谷の入り江で、沖合に点々と砂州が現れていたという。

江戸時代

天下普請前
江戸幕府を開いた徳川将軍家の祖である家康が入城した当初、江戸城は道灌の築城した小規模な城でありかつ築城から時を経ており荒廃が進んでいたため、それまでの本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築、また道三堀や平川を江戸前島中央部(外濠川)へ移設した。それに伴う残土により、現在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行い、同時に街造りも行っている。

この時点で既に規模だけを見れば、同時代の豊臣期大坂城小田原城に勝るとも劣らない広大な城になった。ただし、当初は豊臣政権の大名としての徳川家本拠としての改築であり、関ヶ原の戦いによる家康の政権掌握以前と以後ではその意味合いは異なっていたと考えられている。
慶長期天下普請
* 慶長8年(1603年) 家康が江戸開府して以降は天下普請による江戸城の拡張に着手。江戸前島東側に舟入堀を開削、神田山を崩して日比谷入江を完全に埋め立て、町割を実施。日本橋を初めて架橋した。
* 慶長11年(1606年)、また諸大名から石材を運送させ、増築した。その工事分担は、
** 外郭石壁普請:細川忠興、前田利常、池田輝政、加藤清正、福島正則、浅野幸長、黒田長政、田中吉政、鍋島勝茂、堀尾吉晴、山内忠義、毛利秀就、有馬豊氏、生駒一正、寺沢広高、蜂須賀至鎮、藤堂高虎、京極高知、中村一忠、加藤嘉明
** 天守台の築造:黒田長政
** 石垣普請:山内一豊、藤堂高虎、木下延俊
** 本丸の普請:吉川広正、毛利秀就
** 城廻の普請:遠藤慶隆
などであった。
* 翌慶長12年(1607年)には関東、奥羽、信越の諸大名に命じて天守台および石垣などを修築し、このときは高虎はまた設計を行い、関東諸大名は5手に分れて、80万石で石を寄せ、20万石で天守の石垣を築き、奥羽、信越の伊達政宗、上杉景勝、蒲生秀行、佐竹義宣、堀秀治、溝口秀勝、村上義明などは堀普請を行った。この年に慶長度天守が完成。
* 慶長16年(1611年)、西ノ丸・吹上の堀普請を東国大名に課役し、将軍徳川秀忠はしばしばこれを巡視した。
* 慶長19年(1614年)、石垣の修築を行い、夏から冬にかけて工事を進めた。10月2日(11月3日)には、家康は大坂の陣の陣触れを出し江戸留守居役を除く諸大名は、この地からの参加を余儀なくされ諸大名は著しく疲弊した。このため翌年の大坂夏の陣終結後、家康は3年間天下普請を止めるように指示をした。
元和期天下普請
* 元和4年(1618年)に紅葉山東照宮を造営し、また神田川の開削を行う。
* 元和6年(1620年)、東国大名に内桜田門から清水門までの石垣と各枡形の修築を行わせる。
* 元和8年(1622年)には本丸拡張工事を行ない、それに併せて天守台・御殿を修築し同年には元和度天守が完成する。また寛永元年(1624年)、隠居所として西ノ丸殿舎の改造が行なわれた。
寛永期天下普請
* 寛永5年(1628年)から翌年にかけて本丸・西丸工事と西ノ丸下・外濠・旧平河の石垣工事、また各所の城門工事が行われる。
* 寛永12年(1635年)、二ノ丸拡張工事が行われた。
* 寛永13年(1636年)には石垣担当6組62大名、濠担当7組58大名の合計120家による飯田橋から四谷、赤坂を経て溜池までを掘り抜き、石垣・城門を築く外郭の修築工事が行なわれる。寛永14年(1637年)には天守台・御殿を修築し、翌年には寛永度天守が完成する。

最後に万治3年(1660年)より神田川御茶ノ水の拡幅工事が行われ、一連の天下普請は終了する。

徳川江戸城の築城においては、町づくりを含め、伊豆の石材(伊豆石)は欠かせないものであった。壮大な石垣用の石材は、ほとんど全てを相模西部から伊豆半島沿岸の火山地帯で調達し、海上を船舶輸送して築いたものである[13]

本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、現在の千代田区と港区・新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川とを総構えとする大城郭に発展した。その地積は本丸は10万5000余町歩、西ノ丸は8万1000町歩、吹上御苑は10万3000余町歩、内濠の周囲は40町、外濠の周囲は73町となり、城上に20基の櫓、5重の天守を設けた。

以後、200年以上にわたり江戸城は江戸幕府の中枢として機能した。江戸時代後期に伊能忠敬が作成した『大日本沿海輿地全図』大図の第90図には江戸城が描かれているが、城内の建物群配置は機密であったため空白で、諸街道に通じる九つの門のみが記されている(南から時計回りに幸橋御門、虎御門、赤坂御門、四ツ谷御門、市ケ谷御門、牛込御門、小石川御門、筋違御門と両国橋近くの浅草橋御門)[14](後述)。

明暦3年(1657年) 明暦の大火により天守を含めた城構の多くを焼失し、その後、天守が再建されることはなかった。

安政2年(1855年) 安政大地震により石垣、櫓、門など多大な被害を受ける。

近現代

慶応4年(1868年)に開戦した戊辰戦争の最初の局面である鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を破った新政府軍は、江戸に逃亡した徳川慶喜に対して追討令を発布。慶応4年(1868年)3月15日を江戸総攻撃の日と定め、江戸城に対する包囲網を完成させた。しかし、徳川家存続に向けた交渉の全権を委任された旧幕府陸軍総裁の勝海舟と東征軍参謀である西郷隆盛との会談が実現し、それにより、江戸城の無血開城が決定した。

  • 明治元年(1868年)4月11日、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、10月13日に東京城(とうけいじょう)に改名された。(江戸開城)
  • 明治2年(1869年) 東京奠都。皇城と称される。
  • 1871年(明治4年)9月9日 本丸跡に午砲台が設置。陸軍の手により毎日正午、午砲が鳴らされることとなった。後に実施主体は東京市に移り、1929年(昭和4年)4月30日まで続けられた[15]
  • 1873年(明治6年) 皇居として使用していた西ノ丸御殿が焼失。正院は焼失文書の一部復旧を命じた[16]
  • 1888年(明治21年) 明治宮殿の完成によって宮城(きゅうじょう)と称される。
  • 1923年(大正12年)9月1日 関東大震災で残っていた建造物は大きな被害を受け、和田倉門(櫓門)は復旧されなかった。他の被害を受けた門は、上の櫓部分を解体して改修された。
  • 1945年(昭和20年) 太平洋戦争末期のアメリカ軍による空襲で大手門と明治宮殿が焼失。
  • 1948年(昭和23年) 皇居と改称された。
  • 1967年(昭和42年)空襲で焼失した大手門が木造で復元された。
  • 1968年(昭和43年)空襲で焼失した明治宮殿跡地に新宮殿が竣工。
  • 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(21番)に選定された。

縄張 

本丸と西ノ丸が独立している、一城別郭の形式である。武蔵野台地の東端にある地形を活用しており、特に山の手側は谷戸を基に濠を穿ったので曲面の多い構造をしている。逆に下町は埋立地なので、直線的に区画された水路や街並みを見ることができる。

石垣を多く見ることができるが、これらは天下普請の時にはるばる伊豆半島から切り出され船で送られたものである[17]。それまでは他の関東の城と同じく土塁のみの城だったとされるが、関東領国時代に石垣が施された箕輪城の例から本丸の一部に石垣があったとする見解もある。関東で石垣を多用した近世城郭は江戸城と小田原城しかない。それでも外郭や西ノ丸、吹上などは土塁が用いられているが、特に吹上の土塁は雄大である。

内郭

本丸
本丸御殿を擁する江戸城、並びに徳川家、江戸幕府の中心。関東入国後に3つあった曲輪の間にあった空堀を埋めて拡張した。その後、本丸御殿の拡張のために、元和の改修時に北に2段あった出丸の1つを、明暦の大火後に残るもう1つの出丸と二ノ丸の間にあった東照宮を廃して規模を更に拡張している。寛永期に残存していた出丸は的場曲輪として、弓・鉄砲の調練が行なわれていた(『江戸図屏風』)。二ノ丸との間にある白鳥濠は嘗ては両者を大きく隔てていたが、拡張に伴いその面積を大きく縮小させている。

二ノ丸
入国時は屋敷地で本丸の帯曲輪の様な存在であった。慶長期に中之門が置かれ、また寛永期には拡張されて二ノ丸御殿が造られる。内部は石垣で複数に区画がなされており、下乗門から本丸へ向かうには中之門を、二ノ丸御殿へ向かうには銅門を、西ノ丸方面には寺沢門を通る必要があった。大正時代に二ノ丸と三ノ丸の間にあった堀が埋め立てられている。
三ノ丸
入国時は外郭とされ、日比谷入江と接していた。平川を濠に見立てて、堤防を兼ねた土塁には舟入用にいくつか木戸が設けられていた。
以後は屋敷地とされていたが、二ノ丸拡張の煽りを受けて敷地が大幅に減少した結果、内郭に組み込まれ小さな御殿と勘定所以外は空地となり登城大名の家臣の控え場になる。また、この時に大手門が二ノ丸から三ノ丸に移転している。
西ノ丸
『聞書集』『霊岩夜話』『参考落穂集』などによれば、天正年間に徳川家康が入城した頃は、この地は丘原であり、田圃があり、春になれば桃、桜、ツツジなどが咲き、遊覧の地であったという。
1592年(文禄元年)から翌年にかけて、西ノ丸は創建された。創建された当時は、新城、新丸、御隠居城、御隠居曲輪などといった。西ノ丸大手門の内側は西ノ丸内では特に的場曲輪と呼ばれている。西には山里丸があり、徳川家光が小堀政一へ命じて園池茶室を造らせて新山里と呼んだ。その西に山里馬場があり、後門が坂下門である。かつては通行が許され、この門を通り紅葉山下をへて半蔵門に至った。
紅葉山
本丸と西丸の間にある高地で、江戸城内で最も高い場所。かつては日枝神社が祭られており、開幕前には庶民が間を抜けて参拝することができたが、後の拡張で城域に取り込まれたために移転している。その後は東照宮や各将軍の霊廟が造営され、また麓には具足蔵・鉄砲蔵・屏風蔵があった。また西の丸側の麓には、秘閣図書や紅葉山文庫、神官で国学者の鈴鹿連胤が献上した蔵書を収めた御書物蔵があり、1873年の火災で蔵が焼失した際には太政官正院が文書の復旧を命じている。
北ノ丸
吹上
西ノ丸下
入国時はほぼ日比谷入江であった場所。海と繋がっていた頃は荷揚げ場や人寄場、増上寺の他に本多忠勝や里見氏の屋敷があったが、継続して埋め立てが行われ海から切り離されて以降は主に幕閣に連なる譜代大名の屋敷地となる[18]。初期には奥の道三堀と接する一帯には和田倉という蔵地が置かれ、蔵がなくなって以降も和田倉門の名が後世に残った。また西側には厩、東側には馬場があり、隣接する門は馬場先門と呼ばれたが、この門は寛文8年(1668年)まで不明門であった。

外郭

大手前・大名小路
開幕前は侍衆・町人が混在している居住地であったが、開幕後は大名屋敷地となる。大名屋敷の他には大手前には一ツ橋家の屋敷や舂屋(つきや、精米所)・小普請屋敷・北町奉行所が、大名小路には評定所や南町奉行所があった。
総構

建築物 

天守

太田道灌築城以降の象徴的建物は、静勝軒という寄棟造の多重の御殿建築(3重とも)で、江戸時代に佐倉城へ銅櫓として移築されたが、明治維新後に解体された。佐倉城の銅櫓は二重櫓で2重目屋根が方形造で錣屋根のようになっていた。

徳川家康の改築以降、本丸の天守は慶長度(1607年)・元和度(1623年)・寛永度(1638年)と3度築かれている。どの天守も鯱や破風の飾り板を金の延板で飾っていた[19]

明暦3年(1657年)の明暦の大火によって寛永度天守が焼失した後、直ちに再建が計画され、現在も残る御影石の天守台が加賀藩主の前田綱紀によって築かれた(高さは6間に縮小)。計画図も作成されたが、幕閣の重鎮であった保科正之の「天守は織田信長が岐阜城に築いたのが始まりであって、城の守りには必要ではない」という意見により、江戸市街の復興を優先する方針となって中止された[20]。のちに新井白石らによって再建が計画され、図面や模型の作成も行われたが、これも実現しなかった。以後は、本丸の富士見櫓を実質の天守としていた。これ以降、諸藩では再建も含め天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても「御三階櫓」と称するなど遠慮の姿勢を示すようになる。

1882年(明治15年)になると、天守には内務省地理局により天体観測・緯度経度観測のための天測塔と気象観測の風力塔を兼ねた3.63636メートル(2間)四方、高さ30メートルのれんが造り5階建ての建物が置かれた。1889年(明治21年)になると、測量事務が大日本帝国陸軍参謀本部に、天体観測は東京天文台に移管されたため、当該建物は以後中央気象台の風力測定のための施設となった[21]。風力測定台、風力測定所、測風塔、風力塔と呼ばれた当該建物は、中央気象台が1920年(大正9年)に旧本丸跡庁舎から麹町元衛町庁舎に移転し、当該地に新たな風力測定施設が建てられた後も1923年(大正12年)又は1926年(大正15年)頃まで残されていた[22]

現在、民間では天守の木造復元を目的とするNPO法人「江戸城天守を再建する会」が活動している。しかし、天守復元には文化庁の許可が必要であり、文化庁は「現存の天守台に天守を復元することは、史実との整合性、文化財保護の観点から課題がある」と認識していること[23]、天守台がある皇居東御苑は宮内庁が管轄する皇室用財産であり、天守復元には宮内庁の同意も必要であるが、宮内庁は「武家の象徴である江戸城の遺構を皇居内に復元することには慎重な検討が必要」と考えていること[24]、そのほか、建築資金の確保や、当時の建築様式で建造する際の耐震の問題などがある。なお、2017年(平成29年)時点での政府見解は「皇居東御苑は、大嘗祭を始めとして皇室行事が行われる皇居の一部分を成している地域であり、現在の皇室の利用状況を考えれば、皇室用財産としての供用を見直すことは当面考え難い」である[25]。2019年(令和元年)には、一般財団法人「江戸東京歴史文化ルネッサンス」が天守復元に関して調査を踏まえた声明を発表し、ヴェネツィア憲章、国有財産法、文化財保護法、建築基準法、消防法、バリアフリー法などの観点から「皇居東御苑に現存する台座の上に天守を建築することは極めて難題が多く不可能に近いと言わざるを得ない」と述べた[26][27]。また「東御苑の台座の上に天守建築を標榜し、世論を喚起し、会員や市民から浄財(会費や寄付)を得ている法人や個人は、前述した天守再建についての具体的な問題指摘に対しての責任ある答えを速やかに、社会一般に公開することが求められていることは言うまでもない」と述べ、天守復元の広報活動において、復元に関する諸問題の公表が十分に行われていない現状に懸念を示した。

慶長度天守
天守台は白い御影石が用いられ(『慶長見聞集』)、1606年(慶長11年)にまず自然石6間、切石2間の高さ8間の天守台が黒田長政によって築かれた。翌慶長12年に、自然石と切石の間に自然石2間が追加され高さ10間、20間四方となる(『当代記』)。位置は現在の本丸中央西寄にあり、天守台とその北面に接する小天守台、本丸西面の石垣と西側二重櫓をつなぐようにして天守曲輪があった(『慶長江戸絵図』)[28]。ただし当時の本丸は現在の南側3分の2程度であったため、当時の地勢では北西にあることになる。
天守は同年中に竣工し、1階平面の規模は柱間(7尺間)18間×16間、最上階は7間5尺×5間5尺、棟高22間半(『愚子見記』)、5重で鉛瓦葺(『慶長見聞集』)もしくは7重(『毛利三代実録考証』)、9重(『日本西教史』)ともある[29]
慶長度天守の復元案は『中井家指図』を基にした宮上茂隆の考証によると、天守台は駿府城淀城と同じく20間四方、高さ8間の自然石による広い石垣の上に、それより一回り小さい天守地階部となる高さ2間の切石による石垣が載っている2重構造で、5重5階(地階1階を含めると6階)の層塔型としている。駿府城などとは異なり、自然石と切石の間が狭いので多聞櫓などで囲われてはおらず、天守台の周りには塀だけがあったと思われる。廻縁・高欄はなく、また最上階入側縁のみが6尺幅となっている。白漆喰壁の鉛瓦で棟高は48メートル、天守台も含めれば国会議事堂中央塔(高さ65.45メートル)に匹敵した。作事大工は中井正清としている。
一方、内藤昌は『中井家指図』は元和度天守のものとしており、慶長度天守は5重7階、腰羽目黒漆、廻縁・高欄の後期望楼型であったとしている。作事大工は三河譜代の大工木原吉次、中井正清も協力したとする。
城郭研究者・西ヶ谷恭弘は、天守台の構造は宮上説と同じであるが、天守は後期望楼型とする大竹正芳の図を宮上説とは別に紹介している。また、三浦正幸門下の金澤雄記は20間四方は天守台の基底部として、自然石と切石が一体の天守台とそこから直接建つ名古屋城天守を基にした後期望楼型の天守を考証している。その後、三浦正幸は『津軽家古図』を慶長度としている[30]
内藤案以外は石垣・壁・屋根に到るまで白ずくめの天守であり、『慶長見聞集』『岩渕夜話別集』でも富士山や雪山になぞらえている。この天守は秀忠によって解体され新たに造り直されている。造り直しの動機は御殿の拡張が必要となった結果で、宮上茂隆はこの初代天守は縮小した上で大坂城に移築されたとしている。
元和度天守
元和度天守は、1622年(元和8年)から翌年にかけて天守台普請とその上屋(天守)の作事が行われた。位置は本丸東北の梅林坂にあった徳川忠長屋敷を破却し、その跡地に建てた(『御当家紀年録』)、もしくは寛永度天守と同じ位置とされる。加藤忠広・浅野長晟の手による天守台の規模は慶長度の3分の1、寛永度天守と同様に南側に小天守台があり(『自得公済美録』)、高さも7間に縮小されている。天守内部には東照宮があったとされている[31]
天守の構造は、5重5階(地階1階を含めると6階)の層塔型とされ、天守台を含めた高さは約30間(約55メートル)とされる。外観や諸構造については、諸説ある。
; 宮上茂隆案
宮上案では、旧津軽家の『江戸御殿守絵図(津軽家古図)』を比定し、屋根は銅瓦葺、壁は白漆喰としている。寛永度天守との違いは各破風の下に張り出しが設けられているのが特徴で、これは作事に当たった譜代の鈴木長次、木原家の下にいる三河大工に見られる意匠としている。
; 内藤昌案
内藤案は、前述の通り『中井家指図』を比定し、一部の破風が異なる以外は寛永度天守とほぼ変わらない。三浦案も白漆喰壁で銅瓦葺でない以外は内藤案と同様の見解を採っている。
; 西ヶ谷恭弘案
西ヶ谷案は『武州豊島郡江戸庄図』より初重を2階建であったとしている。また、黒色壁でもあったとしている。
元和度天守も秀忠の死後に家光によって解体され造り直されている。この動機も秀忠・家光の親子関係に起因するともいわれるが詳らかではなく、ほかに仙台城への下賜説、高層建築による漆喰の早期剥離に対する是正工事といった説がある。

寛永度天守
寛永度天守は1636年(寛永13年)から翌年にかけて天守台・天守双方が完成している。黒田忠之・浅野光晟が築いた天守台の位置は本丸北西の北桔橋門南、規模は元和度を踏襲している。また、元和度と縦横の位置を変えたとある(『黒田家続家譜』)。材質は伊豆石。小天守台が設けられているが、小天守は建てられていない。これは階段の踊り場のような意味で造られたからである。基本的な構造は現在の天守台とほぼ同じであるが、大坂城と同じように東側の登り口以外に西側にも橋台と接続する形で出入口が設けられていた。
構造は5重5階(地階を含めれば6階)の独立式層塔型で壁面は黒色になるよう塗料もしくは表面加工が施された銅板を張り、屋根は銅瓦葺である。高さは元和度と同じ本丸地上から天守台を含む30間、下総からも眺望ができたという。作事大工は甲良宗広。
1657年(明暦3年)に明暦の大火が発生した際、閉じられているべき二重目の銅窓が過失で開かれていたがために、城下町からの飛び火が天守を全焼させてしまった。焼失後、寛永度と同様の天守を再建する計画があって、それが簡単に立ち消えるものでもなかったことから、提出された数多くの資料は大切に保管され続ける運びとなった。これが幸いし、確定的な図面が現代まで遺されることとなった。このような事情により、正確な姿が判明している。
* 規模…「 」内は柱間(7尺間)、桁行・梁間は京間
** 地階…「12間×10間」
** 一重目…「18間×16間」 桁行29間2尺9寸×梁間27間1尺9寸、柱数191本
** 二重目…「15間×13間」 桁行16間1尺×梁間24間、柱数155本(内、一重目より三重目まで通し柱13本)
** 三重目…「12間×10間」 桁行13間2尺5寸×梁間11間1尺5寸、柱数127本(内、三重目より四重目まで通し柱32本)
** 四重目…「10間×8間」 桁行10間5尺×梁間8間4尺、柱数75本(内、四重目より五重目まで通し柱9本)
** 五重目…「8間×6間」 桁行8間4尺×梁間6間3尺、柱数55本

図面による復元での計算によると天守の高さは58.63メートルとなった。

御殿

御殿は本丸・二ノ丸・西ノ丸・三ノ丸御殿がある。この内、三ノ丸御殿は元文年間に廃絶された。本丸御殿は将軍居住・政務・儀礼の場として江戸城の中心的な役割を持ち、二ノ丸御殿は将軍別邸や隠居した将軍の側室が晩年に過ごす場所として、西ノ丸御殿は隠居した将軍や世継の御殿として用いた。

本丸御殿

本丸御殿は表・中奥・大奥が南から北にこの順で存在する。表は将軍謁見や諸役人の執務場、中奥は将軍の生活空間であるが、政務もここで行った。大奥は将軍の夫人や女中が生活する空間である。大奥は表や中奥とは銅塀で遮られ、一本(後に二本)の廊下でのみ行き来ができた。

将軍の御殿としての最初の本丸御殿は1606年(慶長11年)に完成、その後1622年(元和8年)、1637年(寛永14年)(同16年焼失)、同17年(明暦の大火で焼失)、1659年(万治2年)(1844年(天保15年)焼失)、1845年(弘化2年)(1859年(安政6年)焼失)、1860年(万延元年)(1863年(文久3年)焼失)と再建・焼失を繰り返した。文久の焼失以降は本丸御殿は再建されずに、機能を西ノ丸御殿に移した。

表・中奥
主要な御殿として西側に大広間・白書院・黒書院・御座之間・御休息が雁行しながら南から北に配置された。表東側には表向の諸職の詰所や控室、中奥東側には側衆配下の詰所・控室や台所などがある。大老、老中、若年寄の執務・議事場は当初は黒書院、家光晩年からは御座之間にあったが、堀田正俊刺殺事件により表と中奥の間に御用部屋が設けられた。彼らと将軍の仲介者である側用人又は御側御用取次は中奥の中央に詰所があった。
表は儀礼空間であり御殿の改変は少ないが、中奥は各将軍の好みに応じて頻繁に改造された。表と中奥は大奥と異なり構造的には断絶していないが、時計之間と黒書院奥の御錠口でのみ出入ができた。しかし表の役人は中奥には御座之間への将軍お目見え以外は立ち入ることは出来ず、奥向の役人とは時計之間で会話を交わした。
大広間
本丸御殿中で最高の格式と最大の規模を有する御殿。東西方向50メートル、約500畳に及ぶ広大な建物。寛永17年の大広間には大屋根があったが、焼失後の再建では中央に中庭が設けられ、屋根を低くした。
大広間は将軍宣下、武家諸法度発布、年始等の最も重要な公式行事に用いられ、主な部屋は上段・中段・下段・二之間・三之間・四之間があり、西北から反時計回りで配置された。南東の南には中門が、東には御駕籠台があり大広間の権威を象徴する。また南面の向かい側には表能舞台があり、大きな祝い事がある際の能の催しでは、その内の一日を町入能として町人が南庭で能を見ることを許した[32]
白書院
大広間に次ぐ格式を有する御殿。大広間と松之廊下で繋がり、上段・下段・帝鑑之間・連歌之間を主な部屋として約300畳の広さを持つ。表における将軍の応接所として公式行事に用いられ、御暇・家督・隠居・婚姻の許可への御礼時に諸大名はここで将軍と面会した。他に年始の内、越前松平家・加賀前田家とはここで対面をし、また勅使・院使」を迎える際には下段を宴席の間とした。
黒書院
白書院と竹之廊下で繋がり、主な部屋として上段・下段・西湖之間・囲炉裏之間があり約190畳の広さを持つ。他の御殿が檜造に対し、総赤松造である。初期は将軍の政務場所、その後は将軍の日常生活における応接所として用いた。
御座之間・御休息
これらは将軍の居住空間として前者は上段・下段・二之間・三之間・大溜で構成される中奥の応接所で政務を執る場、後者は上段・下段のみで寝室や居間として用いた。中奥は表向の役人は原則として出入りを禁じられたが、将軍と御目見する時のみ御座之間に入ることができた。当初、将軍は御座之間にいたが寝室として御休息、更にプライベートな空間として御小座敷等が造られた。
御休息は将軍の代替わり毎に建て替えが行われ、御小座敷の周辺も改造が多い。例えば能を好んだ徳川綱吉の時分には御休息の右に能舞台があり、また当時頻発した地震対策として「地震之間」なる避難場所が中庭の二ヶ所に設置された。逆に徳川吉宗は華美な御休息を壊し、一時期は廊下の一部を区画してそこで寝起きをした。
大奥

二ノ丸御殿

1636年(寛永13年)に最初に建てられた御殿は小堀政一(小堀遠州)の手によるもので、表向の機能が省略された極めて遊興性の高いものであった。南西にある築山を背後に有し白鳥濠と繋がる池の中には能舞台(水舞台)があり、対岸の畔にある御座や濠に突き出た釣殿から観覧することができた。中央は御殿群があり、東側にも池や築山、池の中島にある御亭や御茶屋、御囲、学問所や御文庫があった。

しかしこの御殿は5年後には早くも取り壊され、1643年(寛永20年)には本丸御殿を簡略化した御殿が完成する。この御殿も明暦の大火で焼失し、越谷別殿を移築している。この後も1704年(宝永元年)、1760年(宝暦10年)に工事や再建が行なわれたが、1867年(慶応3年)に焼失してその歴史を終えることになる。

西ノ丸御殿

本丸御殿と同じく、表・中奥・大奥と仕切られていた。主な部屋を挙げれば、遠侍、殿上間、虎間、大広間、大廊下、溜間、白木書院、帝鑑の間、連歌の間、山吹間、菊間、雁間、竹間、芙蓉間、中間、桔梗間、焼火間、躑躅間、柳間、梅竹間、檜間、蘇鉄間などがある。

御殿や櫓などは1634年(寛永11年)、1852年(嘉永5年)、1863年(文久3年)の三度にわたって焼失した。1868年(明治元年)4月、朝廷に明け渡された当時の殿舎は、それまで踏襲してきた慶安度御殿の仕様を大幅に簡略した仮御殿であり、4度目の建築であった。

明治天皇が入城した後は天皇の住まい「皇城」となり、1869年にはオーストリア・ハンガリー帝国使節団を迎え、天皇との謁見の場としても利用された。当時の使節団は、皇城の詳細な見取り図を作成して本国へ伝えている。皇城は、1873年(明治6年)5月5日に焼失した[33]。守備は西丸小姓組が行った。その後、1888年(明治21年)明治宮殿が建設された。

三重櫓6棟、二重櫓10棟、平櫓4棟、多門櫓26棟[34]

江戸城は幾度にもわたる火災によって焼失し、現存する伏見櫓、富士見櫓、巽櫓なども大正期の関東大震災の際に損壊した後、解体して復元されたものであるため、櫓の構造などを考察するにあたっては、明治初頭に撮影された写真や絵図、指図、文献などが用いられている。

幕末まで現存していた二之丸の蓮池巽三重櫓、蓮池二重櫓の二棟は明治初年に接続する箪笥多聞櫓の火災が延焼し焼失した。

江戸城の櫓は櫓門も含め、白漆喰塗籠壁(寛永度天守除く)に、幕紋の足利二つ引を現す2本の長押形を施し、破風・妻壁には銅板を青海波模様に張っていた。初重に出張を設けて石落としとしているものが多い。これらの特徴の一部は、幕府が関与した二条城小田原城などの城郭にも施された。

初重平面6間×7間か7間×8間を標準的な規模として、大坂城名古屋城にも同様に用いた。1871年(明治4年)に記された『観古図説』には、二重櫓の初重平面規模は最小で4間四方(書院出二重櫓)、最大で8間×9間(乾二重櫓)、三重櫓は6間×7間から8間×7間のものが記されている。

多聞櫓は嘗ては本丸・二ノ丸の殆どを囲っていたが、時代を経るごとに本丸西側では塀へと置き換わっていった。

隅櫓の一覧

太線は幕末まで現存した櫓(この内、現存するのは富士見三重櫓、巽二重櫓、伏見二重櫓)、斜線は1863年(文久3年)に焼失した櫓、またここに記載されている櫓が一時期に全て存在した事はない。

本丸(南端より反時計回り、以下同じ)
富士見三重櫓、 御書院二重櫓、 書院出二重櫓、遠侍東三重櫓、台所前三重櫓、汐見二重櫓、不明櫓(元和度工事前)、汐見太鼓櫓(二重櫓)、梅林櫓(二重櫓)、五十三間櫓(二重櫓)、乾二重櫓、菱櫓(三重櫓)、西側二重櫓、数寄屋二重櫓(嘗ては三重櫓)

二ノ丸
蓮池二重櫓、蓮池巽三重櫓、寺沢二重櫓(嘗ては三重櫓)、百人組二重櫓、巽奥三重櫓(松倉櫓)、東三重櫓(嘗ては二重櫓)、北櫓(二重櫓)、不明櫓二棟(二ノ丸拡張前)

三ノ丸
巽二重櫓、不明櫓四棟

西ノ丸
伏見二重櫓、御太鼓櫓

西ノ丸下
日比谷櫓、和田倉櫓

外郭25棟、内郭11棟、城内87棟[35]

虎口は、一の門である高麗門と二の門の櫓門で構成される。大坂城名古屋城の様な枡形の三方を櫓門・多聞櫓で囲んだ型式は江戸城には少なく、完全なのが下乗門、不完全なものが北桔橋門にあるだけである。

櫓門は桁行は15間から20間、梁間が4間から5間ほどのものが建てられ、最大では、桁行25間(赤坂門・芝口見附新橋門)のものもあったが、享保9年(1724年)以降は24間×5間(下乗門)のものが最大となった。ちなみに、最小規模は4間×2間(山下門)である。

  • 大手門
    • 三ノ丸大手門は、三ノ丸中央部の枡形虎口に桁行22間×梁間4間2尺の櫓門と高麗門で構成され、大手前を繋いだ。三ノ丸が屋敷地であった頃は下乗門が大手門であり、現在の大手橋は大橋と呼ばれていた。江戸時代、勅使の参向、将軍の出入り、諸侯の登城など、この門から行うのが正式であった。また、ここの警備は厳重を極め、10万石以上の譜代諸侯がその守衛に勤仕し、番侍10人(うち番頭1人、物頭1人)が常に肩衣を着て、他の平士8人は羽織袴で控え、鉄砲20挺、弓10張、長柄(槍)20筋、持筒2挺、持弓2組を備えて警戒にあたった。
    • 西ノ丸大手門は、手前の橋場に建てられた高麗門とその後方の桁行18間×梁間4間の櫓門で構成されていた。現在の皇居正門で、高麗門は現存しない。

門の一覧

本丸
中雀門(書院門、玄関前門)、上埋門、下埋門、中之門、新門、汐見坂門、上梅林門、北桔橋門、西桔橋門、柚木門

二ノ丸
下乗門、銅門、下梅林門、二ノ丸喰違門、蓮池門、寺沢門

三ノ丸
大手門、桔梗門、平河門、不浄門(帯郭門)、三ノ丸喰違門

西ノ丸
坂下門、西丸大手門、西丸中仕切門、西丸書院前門(西丸玄関前門、二重橋)、西丸裏門、大田門、山里門、吹上門、紅葉山下門

内曲輪
竹橋門、和田倉門、馬場先門、日比谷門、桜田門、半蔵門、田安門、清水門、雉子橋門、一ツ橋門、神田橋門、常盤橋門、呉服橋門、鍛冶橋門、数寄屋橋門

外曲輪
山下門、芝口見附、幸橋門、虎ノ門、赤坂門、喰違見附、四谷門、市ヶ谷門、牛込門、小石川門、筋違橋門、浅草橋門、浜大手門

番所

江戸城には警備要員の詰所として多くの番所があったが、現在残るのは下の三棟のみである。大番所は中之門の奥に、百人番所と同心番所は下乗門の奥と外にあり、それぞれの門を守っていた[36]

遺構 

現存遺構

  • 1956年(昭和31年)3月26日 外堀跡が「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定。
  • 1960年(昭和35年)5月20日、「江戸城跡」として国の特別史跡に指定された。
現在、桜田門、田安門、清水門(以上は、国の重要文化財に指定されている)が遺構として現存している。
* 関東大震災で倒壊後、最初は内部はコンクリート造り、後に木造で復元された富士見櫓、伏見櫓・多聞櫓、桜田巽櫓や、同心番所、百人番所、大番所なども宮内庁管理のため、重要文化財などには指定されていないが現存する。

他の遺構

  • 川越の喜多院と氷川神社には、3代将軍家光誕生の間とされる江戸城の江戸期移築建物が残る。移築建物と川越城御殿の二つの御殿が見られる。
  • 近年、都市再開発の動きに伴い、丸の内や、霞が関の文部科学省で外堀の石垣が地中より発掘された。
  • 1910年(明治43年)に蓮池御門を名古屋城正門として移築したが、1945年(昭和20年)の名古屋大空襲で焼失し、後に復元された。

復元

  • 1964年(昭和39年) 北ノ丸の清水門・田安門の上部が復元された。
  • 東京大空襲によって焼失した大手門が、1967年(昭和42年)に復元された。
  • 1968年(昭和43年) 二ノ丸跡を小堀遠州の回遊式庭園に復元し、諏訪の茶屋を吹上御苑より移築した。
  • 江戸城障壁画下絵(狩野晴川院筆、東京国立博物館蔵)は、弘化度本丸御殿再建の際に描かれた障壁画の下絵集であり、御殿平面図と併せることで幕末期の御殿の内装を知ることを可能にした。
  • 現在、民間ではNPO法人「江戸城天守を再建する会」が、観光庁が推進する「観光立国」のシンボルとすべく、1657年(明暦3年)に焼失した天守の再建を目指して活動し会員を募っている。2010年(平成22年)には、当時の資料を基にした寛永度天守の詳細なCG復元図を作成した[37]。しかし、現存の天守台に天守が建ったことはなく、寛永天守を再建するにも寛永天守があった頃の天守台は現存天守台よりも1間から1間半ほど高い[38]
    • 2014年(平成26年)、第三者機関の調査研究により、皇居東御苑での天守再建は、NPO法人では、不可能に近いと検証された経緯を踏まえて、2015年(平成27年)並びに2016年(平成28年)に行われた「江戸城天守を再建する会」の通常総会において、新事業主体の一般財団法人を設立し、公益財団法人を目指すことが決議された。2017年(平成29年)1月、前年の決議に基づき一般財団法人「江戸城天守再建・歴史文化まちづくりルネッサンスの会(現・江戸東京歴史文化ルネッサンス)」が設立された[39][40]。一方、NPO法人「江戸城天守を再建する会」は世論喚起を目的に存続することが同年3月の総会で決議された[41]。同年10月、一般財団法人は、天守単体の再建は国際憲章や法律の制約並びに学術的、歴史的、文化的観点から極めて難題が多く、行政、学識者を含めた広範囲な合意形成は困難であるとの認識を踏まえ、天守単体の再建から本丸御殿や城門等江戸城の全体整備へと、新たな事業・運動への構想転回を行った。他方でNPO法人は、皇居東御苑の本丸地区が皇室行事の大嘗祭が行われる場所であることから、本丸御殿の再建構想には同意せず、天守に絞った再建を目指す活動をすることを表明。以後、両団体はそれぞれ独自に活動を進めることになった。
    • 2019年(令和元年)、一般財団法人「江戸東京歴史文化ルネッサンス」は、天守の復元について、調査を踏まえた声明を発表し、国際基準及び諸々の法律並びに歴史文化的、理念的、技術的課題から、皇居東御苑の台座の上に天守を復元することは不可能に近く、NPO法人などは天守復元に関するそうした諸問題を社会一般に開示することが求められている旨を述べた。

現地情報 

所在地
  • 東京都千代田区千代田(千代田は全体が皇居の敷地内の為、一般参賀などを除き部外者の自由な立ち入りは出来ない)
交通アクセス
皇居東御苑へ徒歩圏の駅は竹橋駅(東京メトロ東西線)、大手町駅(東京メトロ各線・都営三田線)、東京駅(JR東日本在来線・新幹線各線および東京メトロ丸ノ内線)、東京メトロ千代田線二重橋前駅など。皇居外苑や皇居ランニングコースともなっている公道上からも、かつての江戸城を望見できる。

その他 

  • 静岡県東伊豆町では、江戸城に使う石を切り出し港まで運ぶ様子を再現した「御石曳き」が行われている。
  • 2017年(平成29年)2月8日、島根・松江城前の松江歴史館で『極秘諸国城図』が見つかり、その中には家康が築城した慶長期の江戸城を描いた最古級の平面図「江戸始図(はじめず)」縦27.6 cm、横40cmもあった[42][43]。この絵図により、慶長期の江戸城天守は、姫路城のような連立式で、本丸には幾重にも枡形が設けられていたことが分かった。

参考文献 

史料
  • 太政官正院『皇城炎上記録焼失に付 御達願伺書謄写可差出旨 省府県への達(https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishihouko/h26contents/26_3151.html)』
    • 『秘閣図書の内 炎上の節焼失並従来欠本等の届(https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/rekishihouko/h26contents/26_3152.html)』

文献

  • 【書籍】「徳川家康─境界の領主から天下人へ」
  • 【書籍】「徳川幕府事典 」
  • 【書籍】「江戸の醜聞事件帖: 情死からクーデターまで 」
  • 【書籍】「江戸城史:増補 東京城史 」
  • 【書籍】「図解 江戸城をよむ―大奥 中奥 表向 」
  • 【書籍】「江戸城―本丸御殿と幕府政治 」
  • 【書籍】「徳川家康創建江戸城天守の復元 」
  • 【書籍】「江戸城 将軍家の生活 」
  • 【書籍】「江戸─街道の起点 」
*
* 【書籍】「鎌倉府と地域社会 」

  • 【書籍】「江戸城―四海をしろしめす天下の府城 」

江戸城の口コミ情報

2024年03月26日 左京大夫日本三景を観に行こう
江戸城



皇居です。圧倒的な広さですね。3月24日、桜田門外ノ変が有った日に行って来ました。大老井伊直弼暗殺ですね。事件当日は雪が降っていたとか。東御苑や乾門が開放されていたので、凄い人出でした。インバウンドの外人さんが多かったですね。また、皇宮警察など警備の方達も多かったです。

2023年11月25日 城好内記小太郎
江戸城



石垣がとてもデカく迫力があるお城でした。しかも、石垣ひとつひとつが丁寧手入れされていて綺麗です。また、石垣の高さがとても高くすごかったです。伊賀上野城には負けるかもしれませんが...比べてみるのも楽しいかもしれませんね!普段非公開の場所が公開されることもあるので興味がある方は行ってみてはどうでしょうか?ついでにですが、江戸城の周りを朝走ってみるのも楽しいですよー

2023年10月15日 kazukazu内匠頭
江戸城



海外の方々が沢山いらっしゃいました。流石に、江戸城の天守台は見ごたえがありますね。

2023年09月25日 オレンジ 讃岐守
江戸城



天守閣はありませんが、天守台の石垣がすごいです。姫路城は、天守閣が建ってますか江戸城は石垣だけ。でも、その石垣の一つ一つの石の大きさは、姫路城の石垣とは比べものになりません。一つ一つが大きく、大きな壁のような威厳があります。

建物はほぼ現存してませんか、松の廊下の案内があったり、歴史を身近に感じられました。

天皇陛下の皇居ですが、かなりのエリアが公開されてます。大阪城、名古屋城、姫路城をはじめとするお城には、観光客が大勢訪れます。しかし、江戸城を観光する人は、少ないようです。やはり天皇陛下のお住まいということでしょうか、観光客が大勢訪れると警備も難しいと思います。でも、大手門をはじめとする城門は、素晴らしいです。

2023年04月29日 気分爽快信濃守
富士見櫓[江戸城  遺構・復元物]



江戸の頃は、ここから富士山が見られたようですが、現代ではビルの谷間になってしまいました。

2023年04月28日 気分爽快信濃守
桔梗門[江戸城  遺構・復元物]



桔梗門を内側から見てきました。
①高麗門
②渡櫓門①
③島津の刻印
④渡櫓門裏の階段
⑤渡櫓門②

2023年04月25日 山縣屋山城守虎吉
江戸城

江戸城は圧巻の広さですね。天守が消失してから約400年弱…天守台は大きな石を布積みにし、表面を細かく仕上げてあるのでとても美しいですね!

2023年03月20日 マタローちゃん式部大輔
江戸城



皇居の東御苑が江戸城として無料で解放されいる。その東御苑だけでも広大な敷地で門が幾つもあるので見学には時間を要する。車の方は近隣のビルの地下駐車場が幾らでもあるが、高いので電車がお勧め。今回は大手高麗門から入ったが、そこで皇宮警察による持ち物検査がある。見事な石垣や建築物、庭園を見ながら本丸までは距離がある。本丸には天守台が残っており、登る事が出きる。その本丸には売店もあるが、そこで御城印は売っていないので注意。江戸城の御城印はイベントなどの際に神田の本屋街などで売っている。

2023年03月04日 RED副将軍
江戸城



徳川将軍の居城であり江戸幕府の本拠地🏯

日本100名城

1456年に太田道灌により築城。山内上杉氏・扇谷上杉氏が、鎌倉公方の足利成氏と争った享徳の乱の際に、扇谷上杉氏の家臣である太田道灌が築いたのが始まりとされます。1486年に太田道灌が主君の扇谷定正に謀殺されると扇谷朝良が居城としました。

1524年、北条氏綱が江戸城に侵攻すると扇谷朝興は川越城に逃亡し江戸城は後北条氏の支配となります。1590年に豊臣秀吉による小田原攻めにおいて後北条氏が滅亡すると、徳川家康が関東に移封となり江戸城に入城しました。その後、江戸城は徳川将軍の居城で江戸幕府の中心となり、天下譜勢で大改修を繰り返して現在の規模に拡張されました。1657年の大火によって天守は焼け落ち、以降再建されることはありませんでした。

見所
現在も皇居を中心として内堀、外堀が巡る輪郭式平山城。260年にわたり15代の徳川将軍の居城だけあり国内最大規模の広さに土木量。本丸、二の丸、三の丸の一部が皇居東御苑として一般公開されています。外桜田門や平川門、田安門や清水門などの城門もなかなかのものです。

2023年02月25日 HAL2000上総介
江戸城



石垣がたくさん残されていました。残された石垣がいつ頃作られたものなのか、気になるところです。

2023年01月22日 永久楽武蔵守マクシミリアン
江戸城



大手門(門外から写す)から大名の登城経路を進んでみました。大手三の門(下乗門跡)で御三家以外は殿様も籠から降り、家来は門の外で殿様を待つ。ここで他家の家来たちとの情報交換から生まれたのが「下馬評」。

巨石が綺麗に積まれた中之門、焼け跡の残る中雀門を通り本丸へ。天守代わりの三階櫓・富士見櫓と富士見多聞に寄って天守台へ。宮内庁の案内アプリが細かく案内してくれます。行かれる方はインストールをお勧めします。

2022年08月30日 【城郭道】たっきー
桜田巽櫓[江戸城  遺構・復元物]



【桜田巽櫓の噺】
三の丸の南隅にある二重櫓です。石垣より櫓の方が高い構造なのは珍しいですね。初重は6間×7.5間と高知城天守並みの規模があり、高さは14メートルと弘前城天守並みの高さがあります。
富士見櫓、伏見櫓と同じく関東大震災で損壊、解体し復元したものです。

2022年08月07日 千葉相模守早雲
江戸城



江戸城って皇居でしょ?リア攻め出来るの?
答えは、可能です☝️

皇居のある西ノ丸は立ち入れませんが、本丸・二の丸のある皇居東御苑、南東部の皇居外苑、北側の北の丸公園は一般の方でも入れます。新型コロナで立ち入れない時期・場所もありましたが、2022年8月現在は入れます😁

とにかく広いです!案内板も各所にありますが、東京駅や有楽町駅から行く場合、まず皇居外苑の楠木正成像近くの楠公レストハウスでマップをゲットしましょう!100名城スタンプもここにあります。ここに至る前に馬場先濠や日比谷濠がありますが、堀幅が広く見応えがあります。石垣も忘れずに😁

マップをゲットしたら、日比谷濠沿いに進むと桜田門がありますが、今回はそれを横目に正門へ進みました。正門石橋、奥に掛かる二重橋、伏見櫓はなかなかの眺めです。お正月の一般参賀はここから入って、宮殿前を通り、坂下門から出るルートです。

坂下門からは富士見櫓がチラリと見えます。蛤濠沿いを行くと桔梗門と巽櫓が現れ、更に桔梗濠沿いを進むと大手門が現れます。ここから皇居東御苑に入れます。
同心番所や下乗門石垣を過ぎると百人番所前。巨石から成る石垣は迫力があります。右手に進むとニノ丸、中之門石垣を抜けると本丸です。

本丸はほぼその全域に御殿が立ち、大奥もここにありましたが、今は広場となっています。その奥にあるのが天守台。他では見ないクリーム色の現存天守台です。
北桔橋門の両側には平川濠と乾濠が広がります。この辺りは比高が高く、高石垣は必見です。
北の丸にある清水門周辺はあまり手が入っておらず、歴史を感じます。雁木坂はとても歩きにくく、清水門の枡形で大半は討ち死にしそうです。武道館の北側にあるのが田安門。現存最古の城門です。

とにかく広いので、時間が無ければ、予めルートを練ったり、スポットを絞るのをオススメします😁

1.馬場先濠。白鳥の湖?😁
2.正門。奥に伏見櫓。アーチ型の石橋に隠れてるのが二重橋(鉄橋)
3.坂下門。一般参賀の時の出口です。右奥に屋根が見えるのが宮内庁舎。
4.桔梗濠に面する巽櫓。現存です。
5.百人番所前。石垣の切れ目の中之門を抜けると本丸。
6.天守台。珍しい色。
7.清水門。門を潜ると枡形。折れを伴い雁木坂となっている。
8.田安門。

2022年08月01日 ピザ寿司焼肉
江戸城

イイところデす。デカさを実感するには、日本橋からのクルーズ船がおすすめです。ガイドさんの説明わかりやすいです。

2022年07月17日 沼田乃豆腐屋
江戸城外堀の石垣[江戸城  遺構・復元物]



敷地周辺で発見された堀石垣を江戸城外堀としてほぼ積まれていた形に再現しています。

2022年07月10日 竹中播磨守じゅん兵衛
江戸城



東京駅から徒歩10分弱、和田倉休憩所でスタンプ押して大手門へ突入、売店で富士見櫓マグネットを600円で購入。本丸敷地は広々、至る所に立派な石垣、特に天守台はスゴすぎる圧巻です。

2022年06月16日 勘解由長官蛙喜
江戸城



竹橋駅側の平川門から入城。橋の欄干には「寛永元年甲子八月吉日長谷川越後守」との刻印が。皇居東御苑は広いので大通りを真っ直ぐ百人番所まで。途中に日本各県の木が植えてあり、今は鹿児島県の木が満開。高い石垣にロッククライミングしての草取りの光景も見ることができた。

2022年05月09日 へこ
江戸城

天守台は地下鉄の竹橋からが一番近いとおもいます。天守台に登るとベンチがありますがコロナ禍のせいか、修理中かで使えません。たた、ここに立つと江戸を支配した気になります。当時の縄張図があるので参考になります。

2022年05月02日 くっしー民部大輔尚人
江戸城



初めて江戸城を訪れましたが、東京駅からすぐなのですね。駅から歩いて30分ぐらいで天守台までたどり着きました。石垣が素晴らしいですね。色んな種類の石垣が見れて楽しいですよ!皇居として陛下が住まわれている中で江戸時代の遺構を見ることができて感動でした。

月曜日と金曜日が定休日というのだけ注意が必要ですね。

2022年02月28日 うっきー
江戸城



地下鉄の大手町駅から歩きました。10分弱で到着します。梅林坂の梅、本丸跡の河津桜がきれいでした。

2021年09月28日 つか征夷大将軍
幸橋門[江戸城  遺構・復元物]



山下門同様に案内板もありません。ガードに名前があるのみ。高架下は低くて元堀っぽい雰囲気はあります。

2021年09月28日 つか征夷大将軍
山下門[江戸城  遺構・復元物]



以前案内板も無いと口コミしてましたがちゃんとありました。申し訳ございませんでした。

2021年09月28日 つか征夷大将軍
数寄屋橋門[江戸城  遺構・復元物]



横断歩道途中の昔の写真があります。遺構はありません。

2021年09月28日 つか征夷大将軍
鍛冶橋門[江戸城  遺構・復元物]



遺構はありません。ビルに囲まれてます。交差点に名前が有るのみ。

2021年09月28日 つか征夷大将軍
常盤橋門[江戸城  遺構・復元物]



数年改修工事をしていたようですが綺麗になっています。まだ工事は継続中のようですが。敷地に渋沢栄一氏の像があります。

2021年09月28日 つか征夷大将軍
荷揚げ場跡[江戸城  遺構・復元物]



現在は鎌倉橋が架かってる横にある荷揚げ場跡の石垣です。江戸城築城のために必要となる石材が鎌倉から取り寄せられ、この付近で荷揚げしたことから神田鎌倉町と地名がついたと伝えられています。今は内神田ですが。

2021年09月18日 猫田左馬頭黒毛右衛門
江戸城

日曜日の午前にパレスサイドビル(毎日新聞)の駐車場を利用して訪れました。駐車料金は30分320円。

天守台がある場所は皇居東御苑であり、開園状況はそちらで案内があります。無料ですが、手荷物検査があります。城址といっても現役の施設です。管轄は宮内庁です。

中に売店はありますが、徳川家関連のものはありません。宮家に関連するものならあります。

2021年09月03日 直江山城守優介
江戸城



今は入場する際にカードは渡されず、無料のガイドも中止でした。見どころは沢山あり、じっくり見ると2時間くらいかかります。個人的には二の丸と本丸を繋ぐ汐見坂が雰囲気があって好きです。

2021年07月18日 まつ摂津守
江戸城



100名城スタンプ、当面の間押印不可のようです(泣)

2021年02月17日 【城郭道】たっきー
同心番所[江戸城  遺構・復元物]

同心番所には同心が詰めて主に登城する大名の供の監視にあたっていた。ここを駕籠や馬に乗ったまま通ることができるのは、水戸、尾張、紀伊の御三家だけでそれ以外の大名は駕籠や馬から降ろされ、検問をうけた。

同心番所は現在、建物が現存している。

2020年12月14日 【城郭道】たっきー
田安門[江戸城  遺構・復元物]

現在、北の丸公園の入り口となっている田安門は北の丸北端にある櫓門です。かつては右手に田安家の屋敷がありました。櫓の部分は関東大震災で倒壊しましたが、戦後に復元されました。

2020年11月29日 でんろく刑部卿パルキー
江戸城



皇居東御苑から入場し攻城しました。大都会のど真ん中にこれだけの敷地がある事に驚いた。少し歩くと天守閣模型を見学できた。
三度の火災消失に断念したとか…
現物は日本最大の天守閣。それは当然ですね。

2020年11月26日 下沼下総守雄信
将門塚[江戸城  寺社・史跡]

令和2年11月現在、神田明神の神主のお祓いの上で、敷地の殆どを更地にしてしまう程の大規模な改修工事中です。

2020年11月17日 高田山吹守道灌
江戸城

江戸城といっても範囲が広く見学できるのは東御苑という部分!それでもだいぶ広い!ゆっくりあるいて2,3時間緑多く空気は旨い!健康的!最近、新年参賀・乾門通り抜けはコロナ渦で中止だが、ひょっとしたらこの東御苑も立ち入り禁止になるかも心配!注意点としてレストランはないがベンチとトイレはある!ただし荷物検査あり、リンゴの皮を剥くといって刃物、持込禁止!

2020年11月17日 平八郎忠勝 中務大輔
江戸城



今年の城郭検定は江戸城近くの大学だったので、試験が終わってから登城しました。
ちょうど寛永期の天守を1/30スケールで公開していたのと、富士見多聞櫓も公開中でラッキーでした。

2020年11月11日 下沼下総守雄信
雉子橋門[江戸城  遺構・復元物]

ここに遺されている石垣は注目。石を割るための楔の跡や、工事を担当した各大名の印が石に刻まれているのが分かります。

2020年10月15日 ダイナゴン
江戸城

三の丸尚蔵館の展示は無料で楽しめます。
月、金は休館日ゆえ、ご注意を

2020年10月11日 みきすけ縫殿頭
江戸城天守復元模型設置場所[江戸城  関連施設]

2020.9.29より江戸城天守復元模型を公開しています

2020年08月11日 野呂利左衛門督休三
真田堀[江戸城  遺構・復元物]

寛永十三(1636)年の外濠普請で造られた濠のひとつ。普請は東日本の大名が担当しました。真田の名前がついたのはここを松代真田家が管理を担当したことから。
濠は長さ1㎞、幅90m、深さ14mの規模があったそうです。
昭和二十(1945)年に空襲の瓦礫処理で埋め立てられました。この時、東京都は埋め立てで生じる土地の使用権を20年間与える条件で瓦礫処理費用の提供者を募ったところ、上智大学が応じたため、同大学のグラウンドになっています(20年毎に契約更改しているそう)。

(参考:大江戸歴史散歩を楽しむ会「喰違御門」)

2020年04月19日 【城郭道】たっきー
日比谷濠[江戸城  遺構・復元物]



日比谷門跡のあたりから望んだ江戸城西の丸下と日比谷堀。かつては右の隅に櫓が建ち、その隣には多聞櫓が建っていたとか。堀の中には亀がおり、江戸城の亀であることを自慢しているかのようでした。

2020年02月09日 独眼竜常陸介
江戸城



今まで行ってたトコが、可哀想な程広大な敷地で歩くの大変だった。まあ、天下人の城だから当然ちゃ当然だけど…大阪城とか安土城もこういう規模だったんだろうと想像がつきますね。
個人的には財宝関連の博物館がなくて少し物足りなかったですね。

2019年12月03日 まー刑部卿
江戸城



大嘗宮(午前)・乾通り(午後)と行ってきました。平日でしたが日差し強く大混雑してましたが先人の言う手荷物検査及びセキュリティーチェックも通りまずは坂下門へ。その先は宮殿→宮内庁と進みここで大嘗宮と乾通りに行くかの分岐点。ここは迷わず大嘗宮。その後大手門から出て楠木正成公騎馬像を撮り二重橋を撮ったあとに再度列に並び今度は乾通りを進み紅葉を楽しみました。乾通りを進み
西桔橋との分岐点の時点で大嘗宮まで140分掛かるとアナウンスありました。
12/8まで公開しています。まずは午前中(10時頃)大嘗宮を観ることをオススメします。

2019年12月02日 下沼下総守雄信
売店・休憩所[江戸城  関連施設]

ここにはスタンプは置いていません。

2019年12月02日 伊達図書助
江戸城



乾通りと大嘗宮の一般公開に合わせて行きました。坂下門から入る手前で、手荷物検査とセキュリティーチェックがあります。雨のひどい日でしたが、人はとても多かったです。通常と違って、決められたルートを歩くことになります。写真は乾通りから見た富士見多聞櫓。

2019年06月15日 山葵 上総介
外濠復元石垣[江戸城  遺構・復元物]

再開発の際に出土した石垣の一部が公開緑地に積み直されています。

2019年06月14日 クノール尾張守
江戸城



江戸城に訪問。とはいえ、皇居東御苑が月金曜日休みとは知らず…とほほ。仕方なく平川門から桜田門まで外堀を歩いて門や櫓の写真撮影で終えました。

2019年06月09日 サンダンス肥後守キッド
小石川見附[江戸城  遺構・復元物]



小石川見附:江戸城三十六見附の一つで、北の要地。小石川門、水戸様御門。1936年備前岡山藩池田光政築く。1792年焼失。1873年石垣撤去。現在の小石川橋南側に位置。門内には当時高松藩松平家の上屋敷と中屋敷がありました。

【三十六見附】
浅草見附、筋違見附、小石川見附、牛込見附、市谷見附、四谷見附、喰違見附、赤坂見附、虎ノ門、幸橋門、山下橋門、数寄屋橋門、鍛冶橋門、呉服橋門、常盤橋門、神田橋門、一ツ橋門、雉子橋門、竹橋門、清水門、田安門、半蔵門、外桜田門(桜田門)、日比谷門、馬場先門、和田倉門、大手門、平川門、北桔橋門、西の丸大手門、西の丸玄関門(二重橋)、坂下門、内桜田門(桔梗門)、下乗門、中之御門、中雀門

2019年05月31日 サンダンス肥後守キッド
楠木正成公像[江戸城  その他]



楠木正成公像_1896年銅像完成し1900年7月花崗岩の台座も完成し住友家より宮内庁へ献納される。東京三大銅像の一つ(他、上野西郷隆盛像、靖国大村益次郎像。19世紀末建立)高さ8メートル、重さ6.7トン。場所:皇居・二重橋を望む外苑、日比谷寄り

2019年05月28日 下沼下総守雄信
太田道灌像[江戸城  その他]



元々有楽町にあった東京都庁前に昭和33年に建てられたもの。平成3年に都庁が新宿に移転した後、跡地に建てられた東京国際フォーラムの屋内に平成8年に設置しなおした。写真の通り、像の隣に太田道灌と江戸城についての説明コーナーがある。

2019年05月04日 下沼下総守雄信
西ノ丸大手門[江戸城  遺構・復元物]



明治時代以降正門となっているこの門の扉が開かれることは実はあまり無く、開かれるのは新年・天皇誕生日の一般参賀、即位・譲位・大喪・結婚の各儀式、国賓の来訪等位。

2019年05月04日 我こそは眞田左衛門佐幸村
桔梗門[江戸城  遺構・復元物]



春秋の一般公開でも見ることができない、桔梗門(内桜田門)です。一般参賀に行ったおかげで見ることができました(^ ^)

2019年04月27日 おり〜ぶ上野介目高見物♪
梅林坂[江戸城  遺構・復元物]



天守台から平川門方面に向かう梅林坂を下った左手の石垣。

2019年04月24日 下沼下総守雄信
正門石橋[江戸城  関連施設]



定番撮影スポットである皇居前広場側からではなく、二重橋(正門鉄橋)側より平成最後の天皇誕生日に撮影。この写真のような大勢の人が正門石橋を渡る光景が見られるのは年に2~3日のみ。

2019年04月24日 下沼下総守雄信
二重橋(正門鉄橋)[江戸城  遺構・復元物]



正門石橋より撮影。「二重橋」とは正確には、皇居前広場から見て手前側に見える正門石橋(眼鏡橋)のことではなく、奥側に見えるこちらの正門鉄橋のこと。この辺りの堀(二重橋濠)が深いことから、かつて実際に渡る橋桁の下に横桁が渡してあって、まるで二重構造の橋のように見えた事がその名の由来である。良く見るとその横桁を乗せていた跡が橋の下に見える。

2019年02月03日 織田上総介晃司
江戸城

江戸城二の丸、本丸(皇居東御苑)は無料にて一般開放。
三ヶ所ある門から入場券を受け取り、どこからでも入出場できます。

ただ、手荷物検査があり、立入禁止場所も多々あり、16:00には退出するようになります。

北の丸には爆風スランプの歌で有名な千鳥ヶ淵と日本武道館があり、競技やコンサートが行われてます。


2018年12月05日 Marky武蔵守
江戸城

ぶっちゃけ東京駅も江戸城内なんですがw
以外と知られていないのが喰違見附から四谷まで外郭の土塁が残っていてその上を歩くことが出来ます。

2018年03月27日 芋沢みやぎ雅楽頭❖感謝
江戸城

例年、桜の時期に合わせて乾通り(坂下門→乾門)の一般公開が行われます。
ソメイヨシノのトンネル!みたいな想像してると少々物足りないですが、多種多様の桜が見られます。お時間があれば、出口の乾門から近い千鳥ヶ淵、靖国神社、東御苑等へもどうぞ。桜と共に沢山の遺構が見られます。

なお乾通りから見える遺構、建物は入口側から順に下記の通り。
蛤濠、二重橋濠→坂下門→富士見櫓→蓮池濠→宮内庁庁舎→皇居(宮殿)→富士見多聞→御局→長屋門(武家屋敷跡)→下道灌濠、下道灌濠石垣→西桔橋→乾濠→乾門

2018年03月25日 CLAD
江戸城

乾通り公開中。普段見られない富士見多聞櫓の西面や道灌堀が見られます。坂下門からの一方通行なのでご注意ください。4月1日まで。

2018年02月18日 ねこいんこ侍従
江戸城

北桔橋門近く、国立近代美術館隣に国立公文書館があります。(日、月、祝休館)
年に4回くらい企画展をしており企画にそった貴重な資料が展示されてます。
HPで現在展示中の企画展を確認できます。口コミ書き込み時点は「太田道灌と江戸」展開催中です。
入館無料なので興味のある企画展があったら江戸城ついでに立ち寄ってみては。
余談ですが同館HPのデジタルアーカイブで江戸時代に作成された城絵図、国絵図をPCやスマホで閲覧でき、小一時間暇を潰せます。

2017年07月01日 摂津守いくpika
江戸城

東京駅から徒歩で目指される方へ。

東京駅丸の内中央口の大きな目抜き通りをそのまま突き当ってしまいがちですが…
一つ手前の和田倉門交差点を右へ曲がると、和田倉門跡へと続く和田倉橋があります。ここを渡ると良好に残る和田倉門枡形を抜ける、お城感を味わえるルートです。枡形を抜けた先の和田倉休憩所に百名城スタンプがありますよ。

休憩所のリニューアルと共に枡形内の樹木が伐採されて見やすくなった様です。人通りも少なめなので、是非ともこのルートで。

後は皆さんの思うがままで。

2017年05月24日 178ックス永遠の副将軍
和田倉休憩所[江戸城  スタンプ]

100名城スタンプは向かい側の和田倉噴水公園ウッドテラス無料休憩所の中にあります。利用時間は9時~16時です(^o^)

2017年05月12日 
江戸城

皆様、良くご存知かもしれませんが、口コミに書かれてなかったので、大手門から、二重橋まで、歩いた時のことを書かせて頂きます。
皇居東御苑は、現在、月曜日と金曜日が閉園日です。入園は無料です。
以前入ったことがありますが、天守台が残されています。
たまたま、この時は、金曜日で東御苑に入れなかったので、二重橋まで歩くことにしました。
大手門を横目に、お堀沿いを二重橋方面に歩くと、桜田巽櫓が見えて来ます。
二重櫓として、最大級の規模を誇るそうです。
お堀沿いを更に進み、二重橋までやって来ました。
私も、知らなかったのですが、「皇居正門石橋」が二重橋と思っている人が多いようですが、その奥にある「皇居正門鉄橋」が二重橋のようです。
皇居一周もしたことありますが、いろいろな発見があり、楽しかったです。
江戸城周辺は見所が多いので、是非また行ってみたいと思っています。

2017年05月08日 上田淡路守
江戸城

以前は事前申し込みだった皇居一般参観が当日受付も有りに。ゴールデンウィークに江戸城の写真を撮りに行ったら受付をしてたので並んだら、富士見櫓 伏見櫓が近くで写真撮り放題。
おまけに、一般参観専用売店限定のお土産も有り。

2017年03月30日 中務卿一之介
江戸城

石垣の一部が意外な場所に現存。なんと、東京競馬場内です。パドックの横にある日本庭園に、家光の時代のもの90個ほどが移設されているそうです。
(20170329 東京新聞朝刊より)

競馬開催日でも静かな場所なので、レース検討するには最適(^^;

ちなみに、場内なので東京競馬開催時は入場料が必要ですが、東京競馬開催時以外は無料です。

2016年11月23日 斉藤権大納言にょふん
江戸城

富士見多聞櫓の内部公開返が始まった。富士見櫓も近くまで行きやすくなり、見やすくなった。

2016年11月05日 天下泰平刑部卿
江戸城

日本100名城のスタンプ押しに和田倉門休憩所を探しまくり。大手町駅より二重橋前のほうが近いかも。

2016年03月30日 九十九神百鬼頭白松姫
江戸城

ちょうど皇居内の桜が見えるとの話を聞いたので、少し早いけど見てきました。時期的に早めだったので、そこまで混んでませんでした。入り口にボディーチェックがあります。

あまりの広さにスタンプ場所が分からず休憩所の方に聞いた所、大手門の近くにある「大手休憩所で店員に声を掛けて」と言われました。外には置いてなく、声掛けをしたら中から出してくれました。滲まずくっきり押せて良かったです。

2016年01月08日 コロ助
江戸城

千代田区観光協会の「江戸城外堀の石垣と江戸城ウォーク」に参加しました。2時間¥3000。

コースは、千代田区役所横の防災船着場から小型船で日本橋川を進み、三崎橋から神田川へ入り、柳橋から隅田川に出て、赤穂浪士が討ち入りの際に渡ったらしい豊海橋から日本橋川に戻り出発した船着場へ。北の丸公園の清水門から田安門を徒歩散策。ブラタモリにも出てらした学芸員さんの解説付き。

錦橋~雉子橋で石垣が点在しています。当時の石材で積み直されているので刻印が多いです。

江戸城の外郭正門である常盤橋門の石垣は、堀底から高さ9m。明治時代に小石川門の石垣を利用して、常盤橋門に常磐橋が架けられたそうです(門は「常盤橋」表記、橋は「常磐橋」表記)。
現在、常磐橋は修理工事中で平成29年完成予定。

この観光協会のイベントは年1回ですが、観光協会とは別に日本橋発着の日本橋川~神田川~隅田川クルージングは定期便があるみたいです。石垣はあまり多くないですが、線路の横を並走したり橋をたくさん潜るので楽しいです。スカイツリーの遠景や真下からの日本橋も見られるので、東京観光としてもオススメ。




2015年09月14日 ぎっちゃん
江戸城

埼玉県川越市の氷川神社境内の八坂神社の拝殿は江戸城二の丸にあった東照宮を移築したもの(最初は川越城三芳野神社に。その後八坂神社。)移築の際に規模縮小したそうですが城内にあった東照宮の遺構として貴重。

2015年08月18日 永眠武蔵守釋 葱進
江戸城

◎天守台や松の廊下跡のある皇居東御苑について
・月曜と金曜は基本的に休園
・水曜と土曜はガイドツアー(無料)があるが、27年度は8月中はお休み
・パンフレットは園内各休憩所に常備されている
・自販機トイレ園内に複数あり

◎和田倉休憩所のスタンプ
スタンプ管理の方によると、にじまないようにインク量を調整してるので薄めになることか多いとのこと。ただし、8月18日時点でははっきり濃く押せました。

2013年10月11日 御城左衛門督
江戸城

北の丸の田安門と清水門は2013年2月末まで修復工事だそうです。

2013年09月17日 ぎっちゃん
江戸城

横浜市青葉区の徳恩寺には江戸城の庭園にあった石灯籠と庭石が移設されています。説明板もありますのでマニアック遺構好きな方はぜひ。

2013年03月23日 傾奇揚げ仙兵衛
江戸城

駐車場は北の丸公園駐車場3時間400円以降1時間ごとに100円ですが大きな玉葱の下(武道館)でイベントの時は使用出来なくなりますと書いてあった。近くには20分400円とセレブ使用の駐車場があるのでご注意!

2012年02月26日 しまさ左大臣
江戸城

「100名城スタンプ情報」
・和田倉休憩所…インクが枯れてて、殆ど写らない状態。
・北の丸休憩所(武道館向かい)…インク良好。・楠公休憩所…未確認。(2012/2/17時点)

2011年07月28日 グレイナル上総介バルボロス
江戸城

写真撮りに走り回って3時間かかりました。
規模が大きくみどころが多いのでじっくり見ることをオススメします(`・ω・´)!!

2011年06月17日 GINTOKI
江戸城

大手門の櫓の白漆喰はまだそのままで、二重櫓近くの石垣が崩れたままになっています!

2011年03月20日 tomm加賀守
江戸城

今回の地震で、清水門と田安門の土壁にひび割れが入り、一部石垣も崩れたそうです。

2010年07月21日 徳川内大臣源朝臣康武
江戸城

[武将像]徳川家康像
平服鷹狩像。江戸東京博物館前に鎮座。

2010年07月21日 徳川内大臣源朝臣康武
江戸城

[武将像]太田道灌像
東京国際フォーラム、日暮里駅前(騎馬像)にそれぞれ鎮座。

江戸城の周辺スポット情報

 田安門(遺構・復元物)

 清水門(遺構・復元物)

 桜田門(遺構・復元物)

 石垣(遺構・復元物)

 蓮池濠(遺構・復元物)

 伏見櫓(遺構・復元物)

 富士見櫓(遺構・復元物)

 二重橋(正門鉄橋)(遺構・復元物)

 下乗門石垣(遺構・復元物)

 中之門石垣(遺構・復元物)

 三十間石垣(遺構・復元物)

 小石川見附(遺構・復元物)

 半蔵門(遺構・復元物)

 常盤橋門(遺構・復元物)

 梅林坂(遺構・復元物)

 坂下門(遺構・復元物)

 桜田巽櫓(遺構・復元物)

 外堀跡地下展示室(遺構・復元物)

 百人番所(遺構・復元物)

 大番所(遺構・復元物)

 富士見多聞櫓(遺構・復元物)

 竹橋門石垣(遺構・復元物)

 中雀門石垣(遺構・復元物)

 三代目天守台石垣(遺構・復元物)

 銅門石垣(遺構・復元物)

 喰違門石垣(遺構・復元物)

 桔梗門石垣(遺構・復元物)

 雉子橋門(遺構・復元物)

 一橋門(遺構・復元物)

 平川門(遺構・復元物)

 神田橋門(遺構・復元物)

 竹橋門(遺構・復元物)

 三ノ丸大手門(遺構・復元物)

 坂下門(遺構・復元物)

 西ノ丸大手門(遺構・復元物)

 西ノ丸玄関前御門(遺構・復元物)

 馬場先門(遺構・復元物)

 和田倉門(遺構・復元物)

 桔梗門(遺構・復元物)

 北桔橋門(遺構・復元物)

 西桔橋門(遺構・復元物)

 蓮池門(遺構・復元物)

 新門(遺構・復元物)

 下埋門(遺構・復元物)

 上埋門(遺構・復元物)

 呉服橋門(遺構・復元物)

 鍛冶橋門(遺構・復元物)

 数寄屋橋門(遺構・復元物)

 山下門(遺構・復元物)

 幸橋門(遺構・復元物)

 乾門(遺構・復元物)

 道灌濠(遺構・復元物)

 乾濠(遺構・復元物)

 平川濠(遺構・復元物)

 大手濠(遺構・復元物)

 局門(遺構・復元物)

 門長屋(遺構・復元物)

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