松岡城(まつおかじょう)
松岡城の基本情報
通称・別名
- 龍子山城、手綱城
所在地
- 茨城県高萩市下手綱
旧国名
- 常陸国
分類・構造
- 山城、(平山城)
天守構造
- -
築城主
- 大塚氏
築城年
- 応永27年(1420)
主な改修者
- 戸沢政盛
主な城主
- 大塚氏、戸沢氏、中山氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸跡
指定文化財
- 市史跡(高橋家の門・塀)
再建造物
- 石碑、説明板、蔵
周辺の城
-
車城(茨城県北茨城市)[8.7km]
助川城(茨城県日立市)[17.6km]
山入城(茨城県常陸太田市)[25.6km]
月居城(茨城県久慈郡)[26.8km]
太田城(茨城県常陸太田市)[27.2km]
久米城(茨城県常陸太田市)[29.1km]
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南酒出城(茨城県那珂市)[34.6km]
瓜連城(茨城県那珂市)[34.7km]
松岡城の解説文
[引用元:Wikipedia「松岡城」の項目]
松岡城(まつおかじょう)は、茨城県高萩市下手綱(常陸国多賀郡)にあった日本の城。龍子山城(たつごやまじょう)・手綱城(たづなじょう)とも呼ばれる。明治時代初期には常陸松岡藩の藩庁が置かれた。
歴史
室町時代、この地の領主であった大塚氏によって築かれたと考えられるが、築城年代ははっきりしない。当初は山城であり、龍子山城と呼ばれており、山麓に居館が設けられていた。
慶長7年(1602年)、松岡の地に4万石で入封した戸沢政盛は、龍子山城の麓に城郭を整備して平山城とし、名を松岡城とした。元和8年(1622年)、戸沢氏が出羽新庄藩に転封されると、松岡は水戸藩の所領となった。正保3年(1646年)、水戸藩の付家老中山信政に松岡城が与えられた。中山氏は宝永4年(1707年)に常陸太田に移り、松岡城は空城になった。享和3年(1803年)、中山信敬は再び松岡城に戻り、城郭や城下町を整備した。明治維新後の明治元年(1868年)、中山氏は正式に諸侯として認められた。
松岡城に天守や櫓はなく、陣屋程度の規模であったといわれる。山頂に本丸を置き、麓に二の丸御殿や家臣の住まいがあり、三の丸に役所、台所、家臣の住まいが軒を連ねていたといわれる。
考古資料
遺構
役所の置かれていた三の丸は、高萩市立松岡小学校の敷地となっている。土蔵、土塁、堀が遺構としてある。
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松岡城の口コミ情報
2024年12月08日 ブラックホース
松岡城
竹林が綺麗です。地元のボランティアの方達が整備しています
2024年07月21日 国府左京大夫城介_22日筑前
櫛形城[松岡城 周辺城郭]
見事な横堀が残る日立市の山城
【歴史】
築城年代は不明だが、鎌倉時代後期に宍戸五郎家時が築き、その子の知時(子に足利尊氏に従い、六波羅攻めをした朝里がおり、後に安芸に移り住んだ。毛利元就に従った宍戸隆家は子孫にあたる)と2代の居城であった。
その後、龍子山城(松岡城)の大塚氏を抑えるために、貞和4年佐竹氏の宿老である小野崎通胤がこの地に入り友部城を築く。その子の通春が山尾城に居城を移すと、山尾城の北を守る支城として運用されていたようである。
【遺構】
十王川の北側にある台地(標高84m/比高50m)に築かれた単郭の山城です。
主郭を囲うように横堀がほぼ一周(南側は道路が作られた際に壊されたと思われる)している。東側の横堀の中ほどに虎口があり、そこから麓へと降りれるような段差がある。また、東南付近(墓地の配後)は二重堀となっている。
主郭は東西にそれぞれ虎口があり、西側が直線的な坂虎口に、東側は折れを伴った虎口となっている。北東部付近は横矢が掛けられるように折れが施されている。
【感想】
小野崎氏の城ではありますが、やはり佐竹氏の城らしい横堀が印象的な城です。横堀はやや倒木があり歩きにくい部分はありますが、夏場にも関わらずあまり藪が少なく、普通に堀底を一周することができます。その代わり、蜘蛛の巣や虫は多いので、その対策は十分にしてください。一方、主郭は藪というか低木が多く、あまり見通しもよくなかったです。
また、土質が柔らかいので、雨が降った後などは滑りやすくなるかと思いますので注意してください。、
【アクセス】
常磐線十王駅から徒歩20分。
車の場合は、近くの十王スポーツ広場の駐車場に駐車可能。
【写真】
①二重堀
②横堀(東側)
③主郭の虎口(東側)
④城外への虎口
⑤⑥横堀(北側)
⑦横堀(西側)
⑧主郭の虎口(西側)
2024年05月05日 ファン掃部助トム治郎
松岡城
高萩駅から徒歩で攻城。滑りやすい竹藪を登ると旧城趾があるが藪漕ぎになりしんどかった。
2023年10月22日 篠沼大膳大夫義久
松岡城
戦国までの大塚氏の山城を、出羽角館から常陸小川を経て移封された戸沢氏が麓に平城域を広げて平山城とし、その後水戸徳川家附家老の中山氏が25,000石の譜代大名格で治めた松岡藩の城。実質は水戸藩と同じとは思いますが。平城部分の綺麗な整備は綺麗でもあり、綺麗すぎて城マニアとしてはつまらなくもありますが、一足山城に入ればとても面白い。薮城の呼び声も高いですが、(御殿の曲輪から上がるほんの10mのちょい薮を越えれば)難なく本丸まで行けました。がっつり刈ってありました。ありがとうございます。ただ、その向こうの岩盤堀切にはたどり着けませんでした。
2022年08月16日 マグロ常陸介祐平
松岡城
街並みは城下町の風情を感じられます。二の丸までは進めますが、本丸は薮と蜘蛛の巣に阻まれたどり着けませんでした。近くの穂積家住宅(最後の写真)とセットで回りたかったのですが、茅葺き屋根修繕のため閉館していました(令和5年3月末まで)。
2022年08月01日 koba下総守
松岡城
城址公園になっていて、石垣の一部が残っています。
小学校の駐車場の案内表示を進むと公園の駐車場に着きます。
公園内の細い道を歩いて、本丸を目指しましたが、途中で道が無くなりました。
2021年11月21日 大膳大夫しろし
松岡城
土日祝日に行けば松岡小学校の中にある資料館が見学できます。
2021年05月13日 国府左京大夫城介_22日筑前
就将館(郷土資料館)[松岡城 関連施設]
松岡小学校の敷地内にある就将館は、郷土資料館となっています。
展示物として
・松岡城(龍子山城)の模型
・松岡藩主戸沢政盛公の木像
・徳川光圀公を藩主にした附家老・中山信吉公の木像
・伊能忠敬が大日本地図を作成する40年前に日本地図を作製した長久保赤水に関する資料
などがあります。
ボランティアの方が、松岡城のことを説明してくれたり、色々な資料を頂けるので、松岡城をリア攻めする前に訪れることをお奨めします。
開館日は、土日祝祭日の9:30~15:30で、しかも無料で見学することが出来ます。
ただし、小学校の敷地内にあるので、当然平日は見学することは出来ませんので、訪問する際には注意してください。
因みに、就将館とは、万延元年(1860)に、水戸藩附家老・中山信宝(のぶとみ)が設立した郷校のことです。また、水戸藩の附家老の中山氏は、元は北条氏の家臣で小田原征伐時に八王子城で戦死した中山勘解由家範の子孫となります。
【写真】
1:松岡城の模型
2:戸沢政盛公(右)と中山信吉公(左)の木像
2016年10月02日 まー刑部卿
松岡城
現存の土蔵が校門からすぐだったが気がつかなかった。あとは堀や土塁が現存。降雨の次の日だったため山城部はぐちゃぐちゃな泥のようだったため途中で諦めました。駐車場は川超える手前にトイレ完備の無料駐車場有り。